第二章 狐憑



 第13話 静かなる再戦

「いなり寿司、どうしようかな……」
 次の日――2年Dクラスの教室。
 和奏は困ったように、うーんと考えるような仕草をする。
 今は、午前中の授業が終わったばかりの昼休み。
 この日の和奏は、珍しく雨京先生から呼び出されてはいなかった。
 しかも昼休み後の5時間目は、雨京先生の古典の授業である。
 最近立て続けに呼び出されていた和奏は、今日も呼ばれるだろうと思い、いなり寿司を作ってきたのだが。
 先生の気まぐれか、この日の昼休みに先生から声はかからなかった。
 いなり寿司が余っても困るが、かとって呼び出されてもいないのに国語教室に行くのも何だか気が引けるし。
 放課後にでも、先生にいなり寿司だけでも渡して帰ろうか。
 そうも思ったが、先生に会いに行けば、どう考えてもいなり寿司を渡すだけで帰れそうにない。
 和奏はとりあえず午前中の授業の教科書を机の中にしまい、バッグから弁当を出した。
 そして、ちらりと斜め後ろの席に目を移す。
 相変わらず千佳は、この日も学校に来ていない。
 和奏は親友の身を案じながら、小さく溜め息をついた。
 その時だった。
「和奏ちゃん、今日は先生に呼ばれてないの?」
 穏やかで優しい印象の声が、そう和奏に掛けられる。
 和奏はふと顔を上げ、そしてにっこりと声をかけてきた彼に微笑んだ。
「あ、司紗くん。うん、今日は呼び出されてないよ」
「そっか、よかったね」
 ホッと安心したように表情を緩め、司紗は漆黒の瞳を細める。
 それからすぐに、続けて彼女にこう言ったのだった。
「じゃあ、今日は一緒にお昼食べようか」
「えっ!?」
 司紗の思いがけないその言葉に、和奏は瞳を大きく見開いた。
 今和奏は、千佳に憑依している妖怪に身体を狙われている。
 責任感の強い司紗が術師として、自分の近くにいてくれていることも和奏には分かっていた。
 でもやはりどんな理由だとしても、好きな人に声を掛けられて嬉しくないわけはない。
 憧れの司紗が昼食に誘ってくれること、それだけで幸せなのである。
 和奏は大きくこくんと頷き、満面の笑みを彼に向けた。
「うんっ。司紗くん、一緒にお昼食べよう」
 司紗は和奏の返事を聞いてにっこりと微笑み、彼女の隣に座った。
 そして……それからの、数分間。
 和奏は憧れの司紗との幸せなランチタイムを堪能しながら、ほうっとひとつ溜め息をついた。
 前にもこうやって、彼と一緒に昼食を取ったりお茶をしたことは確かにあったのだが。
 その時の会話の中心は、妖怪絡みのことだった。
 だがこの日は、司紗の配慮からか、その類の話は出てきていない。
 他愛もない日常会話を交わしながらの教室での昼休みが、逆に和奏にとっては久々で新鮮で。
 しかも目の前には、憧れの司紗がいる。
 妖怪に狙われているという現状もしばし忘れ、和奏は幸せに浸っていた。
 そしてすぐ近くにある綺麗な司紗の顔に見惚れながらも、和奏はふとあることを思い出してポンッと手を打つ。
 それからバッグからタッパーを取り出して開け、司紗に差し出したのだった。
「これね、私が作ったの。美味しいか分からないけど、よかったら食べてみて」
「和奏ちゃんの手作り? いなり寿司か……」
 和奏のお手製いなり寿司を見て、司紗はふと表情を変える。
 勘のいい司紗は、それが雨京先生のために作られたものだと気がついたのだ。
 表情の変わった司紗に、和奏は慌てて口を開く。
「あ、先生がすごく好きだから作ってみたんだけど、今日呼び出されなかったから。でももし嫌いじゃなかったら、一度司紗くんにも食べてもらいたいなって、ずっとそう思ってて……」
 和奏は恥ずかしそうに顔を赤らめながらそう言って、照れたように俯いた。
 そんな和奏を見て気を取り直したように穏やかな微笑みを浮かべた後、司紗はいなり寿司をひとつ手に取る。
「じゃあ、お言葉に甘えていただこうかな」
 そう言ってから、司紗はお手製のいなり寿司を口に運んだ。
 和奏はドキドキしつつ、司紗の様子をじっと見つめる。
 雨京先生に食べてもらう時も、違う意味ですごく緊張するのだが。
 でも今回の相手は、自分がずっと想いを寄せている司紗である。
 大好物ないなり寿司の味にうるさい先生が食べてくれるのだから、不味くはないだろうとは思っていても。
 いつも先生はパクパクと食べるだけで、特に美味しいとも何も言ってくれない。
 雨京先生の性格を考えたら、感想を求めることの方が間違っているとも分かっているのだが。
 でも、実際はどうなんだろう。
 そう心配そうに自分を見つめている和奏に、司紗はいなり寿司を食べ終わって視線を向けた。
 彼の漆黒の瞳が自分を移し、和奏は思わずドキッとしてしまう。
 それから司紗はにっこりと微笑みを浮かべ、言った。
「うん、すごく美味しかったよ。これって、和奏ちゃんが作ったんだよね? すごいな、料理上手なんだね」
 感心するような顔をする司紗のその言葉に、和奏はパッと明るく表情を変える。
「本当に? よかったっ。マリちゃんっていつも何も言ってくれないから、本当はどうなのか分からなくて。でも司紗くんにそう言ってもらえて、すごく嬉しいよ」
「先生に、いつも作らされてるんだ……」
 和奏の言葉に、司紗は小声でそう呟く。
 そして、真剣な表情で和奏に言ったのだった。
「和奏ちゃん、そんなに先生に献身的に尽くさなくてもいいよ。ますます先生つけあがるだけだし、無理しないでね」
 和奏はダークブラウンの髪をそっとかき上げ、首を小さく横に振る。
 それから心配してくれる彼の気持ちを嬉しく思いつつ笑顔を宿し、口を開いた。
「ううん、何も無理なんてしてないから。心配してくれてありがとう、司紗くん」
「和奏ちゃん……」
 司紗は複雑な顔をしつつ、ふと考える仕草をする。
 そして何かを決心したように表情を引き締め、言ったのだった。
「和奏ちゃん、僕のあげたお守り持ってるよね? ちょっと貸してくれないかな」
「え? あ、うん」
 和奏は司紗に言われた通り、ブレザーのポケットに大切に入れているお守りを取り出す。
 司紗はそれを受け取ると、漆黒の瞳をふっと閉じた。
 ――次の瞬間。
「えっ!?」
 和奏は思わず声を上げ、ダークブラウンの瞳を見開く。
 司紗の身体から、ボウッと淡い光が立ち上ったのが見えたからだ。
 そして彼の纏う霊気の輝きが、その大きさを増す。
「!」
 和奏は思わず、手のひらで瞳を覆った。
 目の前の司紗から放たれた眩い光が弾け、教室中を包んだのだった。
 司紗の優しくて暖かい霊気が、周囲に満ち溢れているのを感じる。
 驚いたように瞳をぱちくりさせている和奏に、司紗は漆黒の瞳をゆっくりと開いてから言った。
「今から、ちょっと雨京先生と話をしてくるよ。前から先生には、聞きたいと思うこともたくさんあったし」
「え? マリちゃんのところに?」
 和奏はその言葉を聞き、心配そうな表情を浮かべる。
 そんな和奏を安心させるかのように、司紗は優しく微笑んだ。
「大丈夫、ちょっと先生に聞きたいことがあるだけだから。それに今、この教室に妖怪除けの結界を張ったんだ。僕がいない間も、高嶋さんに憑依している妖怪程度なら教室に侵入できないはず。だから心配しないで、僕が戻ってくるまで教室から出ないで待っててね」
 そう言って、司紗はお守りを和奏に返した。
 和奏はそれを受け取り、ぎゅっと胸の中で握り締める。
 むしろ自分のことよりも、先生と司紗のことの方が和奏は心配だった。
 先生は狐の妖怪・妖狐で、司紗は妖怪を滅する術師だからである。
 だが、雨京先生は昨日和奏に約束してくれた。
 千佳と司紗のことは、殺さないと。
 和奏はそんな先生の言葉を信じ、司紗を見つめて口を開く。
「司紗くん、気をつけてね」
「うん、ありがとう。午後の授業が始まるまでには戻ってくるから」
 ちらりと時計を見て、それから司紗は席を立った。
 和奏は心配そうな顔をしながら、教室を出て行く彼の後姿をじっと見送る。
 そして光を増したお守りを、再び強く握り締めたのだった。



 教室を出た司紗は、先生のいる国語教室の前までやってきた。
「もしもの時のために、念には念を押しておこう……」
 そう呟き、司紗はブレザーのポケットからあるものを取り出す。
 それは、1枚の長細い紙のようなものだった。
 そしてそれを国語教室のドアに貼り付けた後、司紗はコンコンとノックした。
 ノックに返事はなかったが……明らかに、雨京先生は教室の中にいる。
 先生の妖気を強く感じた司紗はそう確信し、国語教室のドアを開けた。
 司紗の思った通り、雨京先生は教室内にいた。
 だが先生は入ってきた司紗に見向きもせず、デスクで仕事を続けている。
 司紗はふっと漆黒の瞳で先生を見据え、そして口を開いた。
「雨京先生、質問があって来たんですけど」
「あ? 俺は今忙しいんだ。古典の質問なら、次の授業の時にしろ」
 相変わらず振り返らず、先生はわざとそう言い放つ。
「古典の質問なら授業中にしましたけど、今回は授業中にはできない質問ですから」
 司紗は負けじとそう言った後、間を取らずにこう言葉を続けたのだった。
「雨京先生、先生は完全な妖怪ではありませんね? 金毛九尾狐特有の強い妖気のせいで、最初は分からなかったんですけど」
「…………」
 その言葉を聞き、雨京先生はふと仕事をしていた手をピタリと止める。
 司紗は先生の反応を見てから、さらに言った。
「普通の妖怪は人間の身体を欲して人間に憑依したり、人間を喰らうことで精気を養いますが、先生を見ていても一向にそんな様子は見せない。それに、普通の人間と同じように食事を取ったりもしている。でも先生の身体からは強い妖気も感じるし、妖狐体にも変化できますよね。だから、結論はひとつしかないと」
 雨京先生は、ふと振り返って司紗に切れ長の瞳を向ける。
 そんな彼に真っ直ぐ視線を返し、司紗はこう訊いたのだった。
「先生は妖怪と人間の間に生まれたハーフ、半妖でしょう? 違いますか?」
「……おまえの言うように、確かに俺は半妖だ。ていうか、だったらなんだ」
 ガタッと椅子から立ち上がり、先生はじろっと司紗に鋭い目を向ける。
 司紗は先生の狐目にも怯まず、瞳にかかる前髪をかき上げた。
「やっぱりそうでしたか。じゃあ、何で和奏ちゃんにそんなに固執してるんですか? それに半妖は普通の妖怪よりも妖力が弱いはずなのに、先生は純粋な妖怪よりもはるかに強い妖力を持っている。半妖の先生が、どうして高いランクの妖怪・金毛九尾狐なんですか?」
「あ? 和奏のやつは強い霊気を持ってるだろ、いくら半妖でも強い霊気を取り込む必要があるからな。でもよ、そんなことはどうだっていい。和奏はこの俺の女だ。俺の女が俺の近くにいて俺に尽くすのは当然だろうが。それにおまえ、誰に向かってモノ言ってるんだ? 半妖でもな、誰でもないこの俺様が強いのは当然だ。……これで質問には全部答えた。さっさと教室に帰れ」
 一気にそう言ってから、雨京先生は司紗から視線を外す。
 だが司紗はまだ先生を見据えたまま、声のトーンを落として言ったのだった。
「質問は終わりましたが、まだ話は終わっていませんよ、雨京先生。高嶋さんに憑依している妖怪は、術師であるこの僕が滅します。先生は手を出さないでいただけませんか? 第一、人間に憑依した妖怪を身体から引き離す術は術師にしか使えないでしょう? 無理に高嶋さんを傷つけないでください」
 司紗のその言葉を聞いて、先生はブラウンの瞳を細める。
 それから、関心のないように答えた。
「勝手にしろ。高嶋に憑依してるあの雑魚妖怪なんかに、興味はねぇよ」
「え? じゃあ何でこの間は、高嶋さんに妖気を放ったりしたんですか?」
 司紗は意外な表情を浮かべつつ、再び先生に訊く。
 ふうっと嘆息した後、先生は当然のように言った。
「んなこと、決まってるだろーが。あの雑魚妖怪が、俺の女に手ぇ出そうとしたからだよ。和奏のやつが俺に逆らわない限り、あいつのことを守ってやるって約束したからな」
「じゃあ、高嶋さんに憑いている妖怪がまた和奏ちゃんを襲ったら、また妖気を放つってことですか?」
「かもな。でも和奏とは、もうひとつ約束してる。高嶋やおまえを殺さない、ってよ。だから、おまえも高嶋も殺しはしないから安心しろ」
 司紗は先生の言葉に、小さく首を横に振る。
 それから、疑い深い視線を先生に向けた。
「約束? そんな約束、あてになるんですか? それに先生がいくら僕を殺さないって言っても、僕は先生を滅します。術師として、妖怪を滅するのが僕の使命ですから」
「あ? 言っておくけどな、妖怪は人間みたいに嘘はつかねーんだよ。嘘が大得意なのは人間の方だろうが。それにな、確かに俺は和奏と、おまえのことは殺さないって約束したし、約束したからにはそれは守る。だがな……約束は、殺さないって条件だ。この俺に楯突こうなんて思うなよ? 殺しはしないが、痛い目みるぞ」
 低い声で威圧的にそう言い放ち、先生は司紗をじろっと見る。
 そんな言葉にも動じず、司紗は漆黒の瞳を細めた。
「できるものなら、やってみたらどうですか? じゃあやっぱり、殺さないにしても高嶋さんにも危害を加える可能性があるということですよね」
 そう言って司紗は、ふっと両手を胸の前で合わせる。
 その瞬間、司紗の身体が淡い霊気の光を放ち始めた。
 雨京先生はそんな司紗の霊気を感じ取り、気に食わない表情を浮かべる。
 そして。
「!」
 先生は、ブラウンの瞳を一瞬見開いた。
 それから、面白くなさそうに舌打ちをする。
 カアッと司紗の身体に漲っていた霊気が、一気に開放されたからだ。
 それと同時に、力強い彼の霊気が教室内に充満する。
 先生は周囲をぐるりと見回し、面白くなさそうに口を開いた。
「妖力抑制の結界か。嫌味ったらしい小細工使ってんじゃねーぞ、おまえ」
「念のために、霊気を強める術符を国語教室の入り口に貼っておきましたからね。いくら先生でも結界が張られている今、ごく僅かな妖力しか使えないでしょう? それに、簡単に僕の作り出した妖力抑制の結界は破れませんよ」
 相変わらず挑戦的な彼の言葉を聞いて、先生は眉を顰める。
「誰に向かってモノ言ってんだって言ってるだろうが。術師なんかの術に、この俺様が怯むとでも思ってんのか? こんな小細工、すぐに吹っ飛ばしてやる」
「無理ですよ、先生。確かに先生の妖気は大きいですから、そのすべてを抑えることはできません。この結界も、少し時間を与えれば破られるでしょうね。でもそんなこと、この僕がさせると思ってるんですか?」
 そう言って強い霊気を宿す司紗を後目に、雨京先生は慌てる様子もなくブラウンの前髪をかき上げた。
 それから何を思ったのか、結界に抑制されず残っていた妖気もすべて、完全にその身体から消したのだった。
 司紗はそんな先生の様子を見て、意外な顔をする。
「抑制されなかった妖気まで消すなんて、諦めましたか? 雨京先生」
「あ? 言っただろう、術師の術なんかに怯む俺様じゃないってな。ていうか、俺を見くびるんじゃねーぞ、白河」
 そう言って雨京先生は、司紗に切れ長の瞳を向けた。
 そして。
「!」
 司紗はハッと顔を上げ、表情を変える。
 それと同時に、ヒュッと風の鳴るような音がした。
 突然動きをみせた先生の狙いに気がつき、素早く反応した司紗だったが。
 それよりも……僅かに早く。
 グッと握り締められた雨京先生の右拳が、司紗の腹部を打ち抜いたのだった。
「ぐ……っ!」
 思わぬ重い衝撃をもらい、司紗の上体がぐらりと揺れる。
 だが司紗は懸命に歯を食いしばり、何とか体勢を立て直そうと足を踏みしめた。
 そんな彼を見て、雨京先生は冷静にこう言い放つ。
「妖気が使えなくったってな、何の問題もないんだよ。しばらくここで、大人しく寝てろっ」
「! かはっ!」
 再びドスっと鈍い音がしたかと思うと、先生の強烈な膝蹴りが司紗の腹部を捉えていた。
 綺麗に膝が入り、司紗の身体がずるりと地に崩れる。
 雨京先生は気を失った司紗をちらりと見た後、チッと舌打ちした。
「ったく、厄介な結界張りやがって。ムカつくから次の古典の授業、おまえは欠席扱いにしてやる。ていうか妖気抑制されてるし、面倒だな……くそっ」
 ブツブツそう言いながら、雨京先生はブラウンの瞳を閉じる。
 結界に抑制されているために弱くなっている妖気に顔を顰めながらも、先生は精神を集中させた。
 そして時間をかけて黄金に輝く妖気を漲らせると、結界を破るべく集めた光を放ったのだった。



 ――同じ頃。
「大丈夫かな、マリちゃんと司紗くん……」
 教室で司紗が戻ってくるのを待っている和奏は、心配そうにそう呟いた。
 彼が国語教室に行ってから、結構時間も経っている。
 それに午後の授業開始を告げる予鈴も、すでに鳴り終わったし。
 まさか、またふたりで戦うような状況になったりしていないだろうか。
 雨京先生は、確かに司紗のことは殺さないと約束をしてくれた。
 それを和奏は信じているし、疑ってはいないのだが。
 しかしそれでも、ふたりが穏やかに話をしているとは到底考えられない。
 和奏はどうしようか悩んだ挙句、おもむろに席を立った。
『僕が戻ってくるまで、教室を出ないで待っててね』
 そう、司紗に言われている和奏であったが。
 自分にはお守りもあるし、国語教室まではそんなに距離もない。
 それに、妖怪に憑依されている千佳も学校を欠席していることだし。
 自分のことよりも、今は司紗と先生の様子が心配である。
 そう考え、和奏はふたりの元へ向かう決意をした。
 自分が止めにいかないと、またふたりが争うような状況になりかねない。
 このまま教室でじっと待っているなんて、和奏にはできなかったのだ。
 和奏は司紗に貰ったお守りをぎゅっと握り締め、意を決して教室を出た。
 そして足早に、国語教室へと進路を取る。
 賑やかな教室の前を過ぎて階段を下り、和奏は国語教室のある別館の校舎へと差し掛かった。
 授業開始直前ということもあり、別館に人の気配はなかった。
 ……その時。
「和奏」
 ふと聞き覚えのある声がして、和奏は思わず足を止める。
 それから振り返り、表情を変えた。
 彼女の目の前に現れたのは――ひとりの少女。
「ち、千佳ちゃん……」
「和奏にお願いがあって、学校に来たんだ」
 和奏の前に現れたのは、千佳だった。
 だが、そんな千佳には今、妖怪が憑依しているのだ。
 しかし今目の前にいる彼女が発する声や表情は、いつものものと変わらない。
 そう思いつつも、和奏はお守りを握り締めて警戒したように数歩後退りをする。
 千佳はそんな和奏に、涙を溜めた瞳を向けてこう言ったのだった。
「お願い、和奏。私に取り憑いている狐がね、和奏がそのお守り捨てないと私にひどいことするって言ってるの。お願いだからそのお守り、今すぐ手放してくれないかな」
「えっ!? ひどいことって、そんな」
 千佳の言葉に、和奏はどうしていいか戸惑う。
 このお守りを手放してしまったら、自分を守るものがなくなってしまう。
 でも……千佳が自分のせいでひどい目に合うなんて、そんなことは耐えられない。
 迷った挙句、和奏はそっと司紗に貰ったお守りを床へと置いた。
「お守り手放したから、これでもう千佳ちゃんには危害加えないで」
 和奏は千佳に憑依している妖怪に向けて、精一杯そう言った。
 和奏の行動を見てから、千佳はホッとしたような表情を浮かべる。
「ありがとう、和奏。これで、私もひどいことされなくて済むわ」
 そして――次の瞬間。
「……!!」
 急に全身にゾクリと鳥肌が立ち、和奏は瞳を見開いた。
 目の前の千佳から、途端に妖気が立ち上るのを感じたからである。
 その上、千佳の顔が血の気が失せたように真っ白に変化し、目もまるで狐のようにつり上がる。
 千佳はゆっくりと数歩和奏に近づき、そして満足そうに言ったのだった。
「これでもう、我の野望を阻むものはない。さあ、我の身体になれ」
「……っ!」
 咄嗟に和奏は、床に置いたお守りを再び取ろうと手を伸ばす。
 だが、それよりも早く。
 あっという間に和奏の目の前に来た千佳が、おもむろに手を翳した。
 次の瞬間、和奏は全身の力が抜けたような感覚に陥り、カクンと地に崩れる。
 そんな気を失った和奏の身体を支え、千佳に憑依した妖怪はニッと口元に笑みを浮かべた。
 そして彼女をかかえると、ゆっくりと誰もいない廊下を歩き出したのだった。