第二章 狐憑
第14話 約束
「う、ん……」
和奏はうっすらと、そのダークブラウンの瞳を開いた。
何だか頭がボーッとしていて、よく視点も定まらない。
自分は一体、どうしたんだろうか。
和奏はそう思い、ゆっくりと記憶の糸を辿ってみた。
昼休みに想いを寄せる司紗と一緒にご飯を食べ、それから彼が先生に会いに教室を出て行って。
それで、なかなか戻って来ない彼を追いかけて……その後。
そこまで思い出し、和奏はハッと顔を上げた。
そしてようやく、自分の置かれている状況に気がついたのだった。
「……っ!?」
場所はどうやら、学校の校舎裏であることは分かった和奏だが。
まさに今、自分のおかれている信じられないその状況に、大きく瞳を見開く。
和奏の身体は、校舎裏の壁に張り付けにされたような状態だったのである。
左右に伸びた腕を動かそうとしても、何か見えない力に押さえつけられているようにピクリとも動かない。
その上に足も地面についてはおらず、二・三十センチ宙に浮いているのだった。
そして。
和奏は身動き取れない状況の中、自分を見つめる視線に気がついて口を開いた。
「! ち、千佳ちゃん……」
「そういえば、おまえとは約束をしていたな。術の施してあるお守りを手放せば、この身体の娘に危害は加えぬと」
つり上がった瞳をふっと細め、千佳に憑依している狐は笑う。
それから張り付け状態の和奏に数歩近づき、こう続けたのだった。
「安心しろ、もうこの娘の身体には用はない。代わりに、おまえのその身体をいただくからな。抵抗しようとしても無駄だぞ? 我の妖気で、おまえの動きは封じてある」
そう言って千佳の身体を借りた狐は、和奏に手を触れようとスッと腕を伸ばす。
和奏は涙の溜まった瞳をギュッと瞑り、顔を背けた。
そしてまさに、千佳の手が和奏に触れる、その直前だった。
「!!」
バチィッと千佳の手が弾かれ、プラズマがはしる。
その衝撃で、千佳の身体が和奏から離れた。
和奏は何が起こったか分からず、閉じていた瞳をおそるおそる開く。
そんな、彼女の前にいたのは……。
「あっ、雨京先生!?」
和奏はそう声を上げ、表情を変える。
いつの間にか千佳と自分の間に、雨京先生の姿があったのだった。
「くっ、またおまえかっ。おまえは我と同じ妖怪だろう!? 何故、我の邪魔をするっ」
「あ? おまえみたいな雑魚妖怪と、この俺様を一緒にするな。ていうか、俺の女に手ぇ出してただで済むと思ってんのか?」
威圧的な視線を投げ、瞬時にその身体に大きな妖気を宿すと、雨京先生はそう言い放つ。
そんな先生の迫力に負け、千佳に憑依している妖怪はビクッと身体を震わせた。
そして段違いに大きな彼の妖気を目の当たりにし、恐怖のあまり動くこともできず、その場にペタンとしゃがみこんでしまう。
和奏はそんな千佳から先生に目を移し、心配そうに訊いた。
「先生、あの、司紗くんは……」
「安心しろ、殺してなんてねーよ。約束だからな」
先生のその言葉に、和奏はとりあえずホッとする。
司紗も無事のようだし、自分を助けに先生が駆けつけてくれた。
そう思った、和奏だったが。
雨京先生はふと振り返って和奏を見つめると、ニッと口元に笑みを浮かべる。
そして彼女の顎に手を添えると、こう言ったのだった。
「ていうか、いい格好してんじゃねーか、おまえ。いっそこのまま、張り付けたままにしとくか」
「なっ……!?」
和奏は大きく瞳を見開き、思わず言葉を失う。
この人は何を言っているのか。
自分のことを、助けに来たんじゃないのか。
そう思いつつも、和奏の胸はドキドキと早い鼓動を刻んでいた。
妖術をかけられて二・三十センチ身体が宙に浮いているため、先生のブラウンの瞳と自分の瞳が同じ目線にある。
自分の顎を微かに持ち上げている彼の指は細くて長く、肌も雪のように白い。
雨京先生はふっと綺麗な顔を和奏に近づけ、悪戯っぽい笑みを宿す。
唇が触れるのではないだろうかと思うくらいの距離にある美形の顔に、和奏は顔を真っ赤にさせた。
そして雨京先生は、そんな和奏にこう言ったのだった。
「助けて欲しいか? 助けて欲しかったら、ちゃんとこの俺様にお願いしろ」
「えっ?」
和奏は胸の鼓動を早めながらも、きょとんとした表情を浮かべる。
雨京先生は声のトーンを落とすと、もう一度口を開いた。
「聞こえなかったか? この俺様に、助けてくださいって頼めって言ってるんだよ」
ニッと笑い、先生はグッと和奏の顎を持ち上げる。
身動きのできない和奏は先生から目を逸らすこともできずに、彼のダイレクトな視線を見つめ返すことしか許されなかった。
和奏は涙の溜まった瞳で先生を見つめながら、ゆっくりと口を開く。
「雨京先生、助けて……お願い……」
「ん? 聞こえねーな。もう一度言え」
和奏の反応を明らかに楽しんでいる様子の先生は、わざとらしく首を横に振る。
和奏はもう一度、そんな彼に一生懸命言った。
「先生、助けてください……お願いします」
「あ? 仕方ねーな。ま、でも約束だ、助けてやるから有難く思え」
そう言った後、雨京先生はふっと切れ長の瞳を閉じる。
そして。
「! ふ……、んっ」
和奏は思わず声を漏らし、驚いたように瞳を見開いた。
雨京先生の唇が、突然自分の唇を覆ったのだった。
先生はそっと和奏の頬に大きな手を添えると、丁寧に甘いキスを重ねた。
そんな先生の口づけを受け入れるたび、和奏は身体の中がカアッと熱くなる感覚をおぼえる。
そしてそれと同時に、自分たちを包みこむ黄金の光が瞳に飛び込んできた。
先生の唇の感触と黄金の光の温かさを感じ、和奏は思わず瞳をゆっくりと閉じる。
雨京先生はそんな和奏の様子に満足そうに笑みを浮かべると、今度は先程よりも少し強引なキスを和奏に与えたのだった。
「ん……っ!」
和奏はそのキスの心地よさに、軽い眩暈さえ感じた。
――次の瞬間。
カアッと眩い黄金の光が弾けたかと思うと、和奏はふっと身体が軽くなるような感覚を覚える。
そして。
「! きゃっ!」
突然身体の自由が戻ってきて、和奏はバランスを崩した。
雨京先生はそんな和奏の身体を咄嗟に支え、ニッと笑う。
「何だ、この俺のキスで、足腰立たなくなったか?」
「……っ」
和奏は恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、しがみついた先生の腕の感触にドキドキする。
急に身体の自由が戻ってきたために、うまく立てなかっただけなのに。
そう言い訳しようとしたが、どうせ先生は聞いてはくれないだろう。
それに、事実……先生のキスは、とても甘くて丁寧で。
いつもの俺様な先生の言動とそんな優しいキスのギャップがまた、和奏の心を動揺させるのだった。
和奏を自分で立たせた後、それから雨京先生は、まだ動けずにいる千佳に瞳を向けた。
再び自分に向けられた先生の視線を感じ、千佳に憑依した妖怪は再び身体を震わせる。
「和奏、離れてろ」
そう短く言って、雨京先生は和奏をちらり見た。
それから、その言葉を聞いて心配そうな表情をする彼女に言った。
「心配するな。約束は守るって言ってるだろーが」
「雨京先生……」
和奏はようやくホッとしたように一息つき、そして言われた通りに先生から離れる。
雨京先生は和奏が離れたのを確認した後ふっと瞳を伏せると、身体に漲る妖気を一気に開放する。
――そして。
「あ……!」
和奏は目の前の先生の姿を見て、思わず声を上げた。
金色の美しい長い髪に、九本の尻尾。
ゆっくりと開いた先生の瞳の色は、真紅を帯びていた。
「なっ!? 金毛九尾狐っ!?」
千佳に憑いている妖怪は、そう言って驚いた表情を浮かべる。
妖狐体に変化し、雨京先生はゆっくりと千佳に近づく。
そして強大な妖気をその身に纏い、威圧的に言ったのだった。
「高嶋の身体から、今すぐ出て行け」
「ひ……っ!」
人間体の先生の妖気ですら、恐れを感じていたのに。
妖狐体の強大な妖気の圧力に、この低俗な妖怪が耐えられるはずはなかったのである。
憑依している千佳の額からは、じわりと汗が滲み出ていた。
そんな妖怪に射抜くような視線を投げ、雨京先生はもう一度口を開く。
「聞こえなかったか? さっさと高嶋の身体から出ろって、この俺が言ってんだよ」
そう言って先生は、その身体に漲る妖気をさらに強める。
千佳に憑いている妖怪は抵抗することも逃げることもできず、恐れおののいていた。
先生はさらに圧力をかけようと、一歩足を踏み出す。
――その時だった。
「! ちっ」
雨京先生はおもむろに千佳から視線を外し、舌打ちをした。
その瞬間、カアッと眩い光が発生する。
「きゃっ!」
和奏はその光の眩しさに、思わず目を覆った。
それと同時に、激しい轟音があたりに響き渡る。
一体何が起こったか分からず、和奏は首を傾げつつそっと目を開けた。
そんな彼女の瞳に映った人物は。
「あっ、司紗くんっ!」
「……何だ、もう目が覚めやがったのかよ」
突然襲ってきた霊気の衝撃を妖気の障壁で防ぎ、先生は目の前に立ち塞がる司紗に面白くなさそうに言った。
そんな先生を見据え、司紗は眉を顰める。
「分かってるんですか、雨京先生っ。そんな威圧的な妖気を浴び続けたら、高嶋さんの身体に負担がかかるでしょう!? さっきはふいをつかれて油断しましたが、今度はそうはいきませんよ」
「ったく、大人しく寝てればいいのによ。また痛い目に合いたいのか?」
相変わらず挑戦的な司紗の態度に、先生は気に食わない表情を浮かべた。
「今度は、術師か?」
自分と先生の間に立つ司紗を見て、千佳に憑いた妖怪はそう呟く。
そして、ふと数日前のことを思い出す。
以前も同じような状況になり、ふたりが小競り合っている隙をついて逃亡することができた。
今回も、同じ手で逃げ出すことができないだろうか。
そう考え、千佳に憑依している妖怪はニッと笑みを浮かべる。
そして千佳の声で、こう言ったのだった。
「白河くん……雨京先生が、私のことを滅しようとしてるの。助けて、お願い」
その言葉に、司紗はふっと振り返る。
それから漆黒の瞳を千佳に向け、口を開いた。
「助けてあげるよ、高嶋さん。雨京先生からも……君に憑いている、その妖怪からもねっ!」
司紗はそう言って地を蹴り、千佳との距離を一気に縮める。
そして制服の内ポケットから術符を素早く取り出すと、千佳の身体に貼り付けたのだった。
「! なっ!?」
千佳に憑いている妖怪は司紗の動きについていけず、驚いたように大きく目を見開く。
そんな千佳に漆黒の瞳を向けた後、司紗は瞬時に霊気を漲らせ、術の詠唱を始めた。
――次の瞬間。
「!! うあっ、が……ぁっ!」
バチバチと音を立てて術符が燃え出したかと思うと、千佳が苦しそうに悶えだしたのだった。
「千佳ちゃんっ!?」
和奏は千佳のそんな様子を見て、思わず声を上げる。
術の詠唱をすべて終えた司紗は、そんな和奏に言った。
「大丈夫だよ、和奏ちゃん。今、高嶋さんの中の狐をあぶり出しているところだから。高嶋さんには無害だよ」
「くっ、狐落としの術、かっ……あぁっ!!」
そう妖怪が呟いた後、千佳の身体が大きくビクンッと跳ね上がる。
司紗は重力に逆らわずグラリと揺れた千佳の身体を、咄嗟にその腕で支えた。
そして。
「あ……っ」
思わずそう声を上げ、和奏は手を口に当てる。
千佳の身体から、大きな妖気が放出されたのを感じたからである。
それに、いつの間にか目の前に、狐の形をした煙のようなものの存在が見えていた。
和奏には、それが今まで千佳に憑いていた妖怪だということが、漂う妖気から分かったのだった。
司紗は千佳を支えていない逆手に霊気を漲らせ、彼女の身体から出た妖怪を滅すべく霊気を放とうと身構えた。
だが、それよりも早く。
「!!」
今までで一番大きな黄金の光が弾け、あっという間に千佳に憑依していた妖怪を飲み込む。
そして……断末魔の叫びを上げながら、その妖怪はあっけなく滅されたのだった。
司紗はキッと雨京先生に目を向け、口を開く。
「そんな思いきり妖気を放たなくても、あの程度の妖怪なら簡単に滅されたはずでしょう? ここには僕たちだけじゃなく、和奏ちゃんや高嶋さんもいるんですよ? 分かってるんですか」
「あ? うるせーな、黙ってろ。あの雑魚妖怪は、よりによってこの俺様の女に手を出しやがったんだ。そう簡単に滅してたまるかってんだよ」
――司紗が霊気を放つよりも、先に。
雨京先生の掌から、強大な黄金の衝撃が繰り出されたのだった。
その黄金の妖気によって、千佳の身体から離れた妖怪は跡形もなく滅されたのである。
和奏は目の前で起きた出来事に、言葉が出なかった。
元々霊感の強かった和奏であったが、こんな体験はもちろん初めてである。
まだ信じられない表情を浮かべながらも、和奏はハッと顔を上げた。
そして、司紗に目を向ける。
「あっ、司紗くん……千佳ちゃんは!?」
「高嶋さんは大丈夫だよ、気を失ってるだけだから」
和奏を漆黒の瞳に映し、司紗は普段と変わらず穏やかな声でそう答えた。
和奏はその言葉に、ホッと胸を撫で下ろす。
そして……それと、同時だった。
「! 和奏ちゃんっ」
司紗は瞳を見開き、そう叫ぶ。
安心して気が抜けたのか、和奏の足が力を失ってカクンと折れたのだった。
そんな、和奏の身体を支えたのは。
「本当に世話が焼けるな、おまえは」
「あ……雨京、先生」
視界が回る中、和奏はふわりとあたたかな先生の体温を感じる。
和奏を抱きかかえ、雨京先生はふと司紗に視線を向けた。
「ていうか、狐落としの術とか使えるのかよ……ムカつく術ばっかり使ってんじゃねーぞ」
司紗は負けじと、その言葉に言い返す。
「最近、妖狐に効果的な術に凝ってましてね。そのうち、貴方もこの僕が滅しますから」
「あ? 言っとくけどな、この俺様に術師の術なんて効かねーよ。痛い目に合いたくなかったら、大人しくしてろ」
相変わらず挑戦的な司紗の言葉にチッと舌打ちをした後、雨京先生はスッと真紅を帯びた瞳を閉じた。
そして妖気を抑えて人間体に戻った後、ちらりと腕時計に目を向ける。
それから改めて司紗に視線を投げ、言ったのだった。
「おい、白河。今日の古典の授業は自習だ。クラス全員にそう伝えとけ」
それだけ言うなり、雨京先生はスタスタと和奏を抱えたまま歩き出す。
司紗はそんな先生の後姿を黙って見送ってから、ふうっとひとつ息をついたのだった。
「あの、雨京先生」
まだ少し眩暈がする中、先生に抱きかかえられている和奏は、おそるおそる彼に声をかける。
雨京先生はそんな和奏の姿を、ふっとブラウンの瞳に映した。
先生の視線に一瞬ドキッとしながらも、和奏は口を開く。
「雨京先生、助けてくれてありがとうございます。それに、千佳ちゃんや司紗くんもみんな無事で……よかったです」
「約束は守るって言っただろーが。高嶋や白河を殺さないってのもだけどな……言ってるだろ、おまえのことは俺が守ってやるって」
そんな先生の言葉に、和奏は大きく頷いてにっこりと微笑んだ。
雨京先生は、そんな自分の腕の中の和奏をじっと見る。
そしてニッと悪戯っぽく笑い、言ったのだった。
「んじゃ、礼は今からたっぷりしてもらうからな。自習にしたから、心配しなくても時間もたっぷりあるしよ」
「えっ!? れ、礼って……!? ん……っ」
驚いた表情をする和奏の口を塞ぐように、雨京先生は彼女の唇に自分のものを重ねる。
先生に突然口づけをされ、和奏はカアッと顔を赤らめた。
ぐるりと回る視界とドキドキと早まる胸の鼓動、そして先生の柔らかなキス。
そんな感触を一度に感じながら、和奏は恥ずかしくなって俯いてしまう。
雨京先生はブラウンの瞳を細め、そんな和奏をじっと見つめていた。
和奏はそんな先生の視線には気がつかず、気を取り直したようにふっと一呼吸つく。
そして改めて雨京先生の身体から漲る黄金の光を感じ、その心地良さにそっと身を預けたのだった。
第二章・完