第二章 狐憑



 第12話 指きりげんまん

 ――次の日の、昼休み。
 和奏は雨京先生の待つ国語教室へ行く支度をしながら、ちらりと斜め後ろの席を見た。
 昨日自分たちの前から姿を消した千佳は、今日学校を欠席している。
 和奏は小さく溜め息をつき、昨日の出来事を思い出していた。
 自分の知っている千佳とは全く別人の、彼女のあの表情。
 その瞳は心なしかつり上がり、顔色は生気のないように真っ白で。
 司紗や先生の話によると、どうやら千佳には妖怪が憑依しているらしい。
 しかもそれは、狐の妖怪・妖狐だという。
 司紗のくれたお守りと雨京先生の出現で、今回の危険は回避できたが。
 千佳に憑いている狐の本当の目的は、和奏の身体であるという。
 現にあの妖狐自身も、和奏の身体を手に入れてみせると言っていた。
『大人しく我のものになれ』
 親友のものとは明らかに違う、その声。
 和奏は千佳に憑依している妖怪の妖気を思い出し、ゾクッと背中に鳥肌が立った。
 その時。
「和奏ちゃん」
 ふと声を掛けられ、和奏は下向き加減だった顔を上げる。
 そんな彼女の目に飛び込んできたのは、心配そうに自分を見つめる司紗の漆黒の瞳。
 上品で整った彼の綺麗な顔を見つめ、和奏は思わず心拍数を上げる。
 司紗は胸の鼓動を早める和奏の様子に気づかず、険しい表情を浮かべた。
「和奏ちゃん、今日も雨京先生に呼ばれてるの?」
「あ、司紗くん。うん、今から国語教室に行くところだよ」
「……そっか」
 こくんと頷いてそう答えた和奏に、司紗は複雑な顔をする。
 和奏の持つ霊気は先生の黄金の妖気に影響され、日に日に大きさを増していた。
 その影響からか、最近になって和奏が時々軽い眩暈を起こしていることを、司紗は知っている。
 しかもそんな和奏の強くなった霊気を感知して、今回千佳に憑依している妖怪も現れたのであろう。
 まずはランクの高い妖怪である金毛九尾狐の先生よりも、千佳に憑いた下等な狐を滅することが先だと司紗は考えてはいるのだが。
 いつまでも和奏を雨京先生のところにみすみす行かせていることを、申し訳なくも思っていた。
 だが和奏は、いつもそんな司紗に言うのだった。
 自分が逆らわなければ、先生は何も悪いようにしないから気にしないでと。
 それよりも、雨京先生と司紗のふたりが戦うようなことになる方が嫌だと。
 確かに彼女が先生の言うことを聞いている今、先生が彼女に危害を加えているということはなさそうである。
 綿密に言うと何もされていないわけではないのであるが、そのことを司紗は知らない。
 司紗に想いを寄せる和奏は、先生に毎回のようにキスされているなんて、到底彼に言えなかったのだった。
 いくら先生の妖力が強いとはいっても、司紗は術師として、妖怪である雨京先生をこのままにするつもりはない。
 その反面、うかつに手を出すのは良策ではないことも分かっている。
 だが術師としてのプライドから、そんな現状を司紗は歯痒く思っているのだった。
 和奏は弁当袋を手にして、険しい表情を浮かべる司紗ににっこりと微笑む。
「司紗くん、私は大丈夫だから。それに、マリちゃんと話したいこともあるし……じゃあ行くね」
「和奏ちゃん……」
 司紗は顔を上げ、和奏に漆黒の瞳を向ける。
 それから気を取り直したように柔らかな笑みを彼女に返し、言った。
「和奏ちゃん、先生には効かないけど、僕のお守りは持っててね。ある程度の妖怪からは、身を守れると思うから」
「うん、ありがとう。いつも肌身離さず持ってるよ、お守り。じゃあね、司紗くん」
 ダークブーラウンの髪を揺らしながらこくんと頷き、和奏は軽く手を振って教室を出て行く。
 そんな和奏の後姿を、司紗は優しい視線で見送った。
 それから、ふと表情を変えて呟いたのだった。
「まずは、高嶋さんに憑いた狐を滅することが先決だけど……雨京先生も近いうちに、必ずこの僕が滅してみせる」



 和奏は教室を出て、先生の待つ国語教室へとやって来た。
 いつものようにコンコンと遠慮気味にノックをした後、ゆっくりと教室のドアを開ける。
 雨京先生は相変わらずやって来た和奏に特に何も言わず、デスクでマイペースに仕事をしていた。
 和奏はそんな先生をちらりと見てから、いつも通り二人分のお茶を淹れ始める。
 コポコポと急須にお湯を注ぎながら、和奏はおもむろに小さく溜め息をついた。
 よく考えると、千佳に憑依した狐の目的が自分だということは。
 自分のせいで千佳が今、危険な目に合っているということである。
 そのことに気がついた和奏は、大きな責任を感じていた。
 そしてこの日、彼女はあることを雨京先生に言おうと決めて来たのである。
 それは……。
「……きゃっ!」
 和奏は突然声を上げ、ビクッと身体を振るわせた。
 その理由は。
「う、雨京先生」
 和奏はふと振り返り、ドキドキと早い鼓動を刻む胸を押さえる。
 そんな和奏のすぐ背後には、いつの間にか移動してきた雨京先生の姿があったのだった。
 先生は和奏の腰のあたりに腕を回して彼女を抱きしめると、ニッと悪戯っぽく笑って口を開く。
「おい、またお湯溢れるぞ、おまえ。本当にトロいヤツだな」
 先生の言葉に我に返り、和奏は慌ててポットから手を外して急須のふたをした。
 先生は和奏を抱きしめたまま、口元に笑みを浮かべる。
 そして、彼女の耳元でこう囁いたのだった。
「昨日この俺の言ったこと、覚えてるか? 助けた礼は、ふたりの時にゆっくりしてもらうってな」
 そう言って雨京先生は、スッとブラウンの瞳を閉じる。
 先生の長いまつ毛が瞳にかかり、彼の美形の顔がゆっくりと和奏に近づいてきた。
 ……その時。
「あ、あの、雨京先生」
 和奏は先生の唇が自分のものと重なる直前に、ふと彼に声を掛けた。
 その声に動きをピタリと止め、先生は閉じていた瞳を開く。
 それから眉を顰め、和奏に視線を向けた。
 和奏は不服気ながらもキスを止めた先生を上目遣いで見てから、遠慮気味にこう言ったのだった。
「あの……先生に、お願いがあるんですけど」
「あ? 何だ」
 もしかしたら話も聞いてもらえないかもしれないと思っていた和奏は、先生のその言葉に少しホッとする。
 そして、ゆっくりと言葉を続けたのだった。
「あの、これからも先生の言うことに逆らったりしませんから……千佳ちゃんや司紗くんを殺したりとか、それだけはしないでください。お願いします、先生」
「…………」
 自分を真っ直ぐにじっと見つめる和奏に、先生は少し何かを考えるように口を噤む。
 それからふうっと嘆息し、口を開いた。
「分かったよ。あいつらを殺したりしねーよ」
「えっ、本当ですか!?」
 こんなにあっさり自分のお願いを聞いてくれるなんて思っていなかった和奏は、驚きながらも表情を明るくする。
 雨京先生はザッとブラウンの前髪をかき上げた後、頷いた。
「ああ。人間は嘘をつくのが得意だがな、妖怪は約束したことは守るもんなんだよ」
 和奏は先生の言葉を聞いて、嬉しそうに満面の微笑みを宿す。
 それから、おもむろにスッと右手を上げた。
 そして小指を立て、にっこりと先生に笑顔を向けて言ったのだった。
「先生が千佳ちゃんや司紗くんを殺さないかわり、私も言うことちゃんと聞きますから……指きりしましょう、先生」
「指きりだ? ったく、おまえはガキだな。約束するって言ってるじゃねーかよ」
 そう言いつつも、雨京先生は和奏の小指に自分の小指を絡める。
「指きりです、先生。約束、私もちゃんと守りますから」
 先生の長くて細い指の感触に少しドキドキしながらも、和奏はギュッと絡めた小指に力を込める。
 雨京先生はそんな安心した表情を浮かべる和奏を、ブラウンの切れ長の瞳で満更でもなさそうに見つめてた。
 ――そんな、約束の指きりの後。
 雨京先生は改めて、ちらりと和奏に目を向ける。
 それからガッと彼女の腕を掴むと、くるりと自分の方に和奏の身体を向かせた。
 そしてその胸に、和奏を引き寄せたのだった。
 急に先生のぬくもりを感じ、和奏は全身の体温が上がる感覚をおぼえる。
 雨京先生はニッと笑みを浮かべ、言った。
「おまえはこの俺の女だ。約束は守る。だから、おまえは今まで以上にこの俺に尽くせ。分かったな」
 相変わらず有無を言わせぬ口調でそう言った後、先生は和奏の顎を持ち上げる。
 それから、そっと軽い口づけを彼女に与えたのだった。
 俺様口調とは正反対なその優しいキスに、和奏は耳まで真っ赤にさせる。
 そして先生の唇が程なく離れた後、おそるおそる言ったのだった。
「あ、あの……そういえば、今日も作ってきたんですけど。先生の好きな、いなり寿司」
 和奏の言葉を聞いて、先生はおもむろにブラウンの瞳を細める。
 それから和奏からようやく離れ、ニッと笑った。
「ていうか、腹減った。飯食うぞ」
「え? あ、はい」
 その言葉に頷き、和奏は先生にお茶を出す。
 そして、いつも座っている先生の正面の椅子に座ろうとした。
 ……その時だった。
「和奏、今日はおまえはここに座れ」
 雨京先生はそう言って、自分の真横の椅子を引く。
 和奏は小さく首を傾げながらも、言われた通りに先生の横に移動して座った。
 それから、作ってきたいなり寿司を先生に差し出す。
「この間は4つだったんですけど、今日は6つ作ってきました。食べてください、先生」
 妙に緊張しながらも、和奏はおずおずとそう言った。
 お手製のいなり寿司の入ったタッパーをあけた先生は、満足気につり上がった瞳を細める。
 そして和奏に視線を戻し、こう口を開いたのだった。
「このいなり寿司、おまえがこの俺に食わせろ」
「えっ?」
 突然そう言われ、和奏は驚いたように瞳を見開く。
 そんな彼女の様子にもお構いなしで、先生はもう一度言った。
「聞こえなかったか? おまえが俺に、これを食わせろって言ったんだ」
 和奏は一瞬先生の言うことが分からず、きょとんとしてしまう。
 そして、思ったのだった。
 それって俗に言う、「あーん」ということなんだろうか。
 だが自分たちに、そんな甘々な雰囲気は皆無である。
 そう思いつつも、先生にやれと言われた和奏は、おそるおそるひとつ目のいなり寿司を箸で持った。
 先生はそんな和奏の行動に、首を横に振る。
「箸なんて使ってんじゃねーよ。手で食わせろ」
「えっ、手? あ……はい」
 動揺しつつも言われた通りに箸を箸入れにしまい、和奏は改めて指でいなり寿司を摘まむ。
 そしてそれを、遠慮気味に先生に差し出した。
 雨京先生は戸惑う和奏の反応を楽しそうに見た後、彼女の指ごとパクッといなり寿司を口に運ぶ。
 指に雨京先生の柔らかな唇が触れ、和奏はその感触にドキドキと胸の鼓動を早めた。
 そんな和奏を後目に、味わうようにモグモグといなり寿司を食べた後、雨京先生はニッと口元に笑みを浮かべる。
 それから、ふっと和奏の手首を掴んだ。
 そして。
「えっ!?」
 次に取った先生の行動に、和奏は思わず声を上げてしまう。
 まるで狐のように……雨京先生が、ペロペロと自分の指を舐め始めたからである。
 突然の先生の行動に、和奏はどうしたらよいか分からずに固まってしまう。
 巧みに動く先生の舌は、見ているだけでもドキドキしてしまうもので。
 その上、くすぐったいような気持ちいいような、そんな感触。
 和奏は火が出そうなくらい、顔を真っ赤にさせる。
 そんな和奏の様子を気にもせず、丁寧に指を舐め終わった後、雨京先生は満足気に笑った。
「油揚げの味のついた指が、また美味いんだ。だろう?」
 同意を求められても、何て答えていいのか分からない。
 そう思いつつまだ言葉を発することのできない和奏に、雨京先生はブラウンの瞳を向ける。
 そして彼女の髪を左手でそっと撫でてから、まだ右手で掴んだままだった彼女の手首をぐいっと引っ張った。
 再び彼の胸に、和奏の身体が引き寄せられる。
 そして。
「和奏、目ぇ瞑れ」
 いつもよりも心なしか低い響きを宿す声が、彼から発せられる。
 和奏は顔を上げ、雨京先生をおそるおそる見つめた。
 それから、言われるままにギュッと瞳を閉じる。
 ――次の瞬間。
「! ん……っ……」
 先程の優しいものとは違い、強引に先生の唇が和奏のものに重なった。
 そして先生の舌が和奏の中へと進入し、その感触に自然と声が漏れてしまう。
 和奏は急に恥ずかしくなって、うっすらと涙の溜まった瞳を開いた。
 だが……そんな、恥ずかしさの反面。
 自分たちをふわりと包む心地よい黄金の光を、和奏は全身で強く感じる。
 そしてその気持ち良さに任せるかのように再びスッと瞳を閉じ、先生の落とすキスを受け入れたのだった。