第二章 狐憑



 第11話 お守りの効力

 数日後――休み明けの、月曜日の朝。
 地下鉄の駅から地上に出た和奏は、学校に向かって歩き出した。
 雨こそ降ってはいないが、空は雨雲に覆われていて薄暗い。
 和奏は同じように学校に向かう生徒の波に逆らわず、歩を進める。
 それからふとブレザーの胸ポケットから、司紗に貰ったお守りを取り出した。
 淡い光を宿すこのお守りを握っているだけで、何だか幸せな気持ちになる気がする。
 そして司紗本人と同じように優しい雰囲気を湛える霊気に触れると、心が安らぐような感覚に陥るのだった。
 和奏は大事そうに胸の位置でお守りを強く握り締め、その顔に幸せそうな笑みを浮かべる。
 その時だった。
「おはよう、和奏」
 ふと声を掛けられ、和奏はお守りを握り締めたまま振り返る。
「あ、千佳ちゃん。おはよう、もう体調は大丈夫?」
 振り返った和奏のすぐそばに立っていたのは、友人の高嶋千佳だった。
 先週体調を崩して一週間学校を欠席していた彼女だったが、その顔色はまだ心なしか少し青白い。
 和奏の言葉に、千佳は小さく頷いた。
「うん、もう平気。心配かけてごめんね」
 和奏は久しぶりに会った友人に笑顔を向け、そして彼女とともに歩き出す。
 それから風に揺れるダークブラウンの髪も気にせず、和奏は思い出したように話し始めた。
「あのね、この間千佳ちゃんとケーキ屋さん行ったでしょ? この間あそこのケーキ屋さんでね、司紗くんとふたりでお茶したんだ」
「白河くんと?」
 肩より少し長めの茶色の髪をそっと触り、千佳は小首を傾げる。
 和奏は千佳の言葉にこくんと首を振った後、手の中のお守りをぎゅっと握り締めた。
「うん。それでその時ね、司紗くんにね……」
 ――その時。
 和奏はふと、言葉を切る。
 それからぴたりと足を止めると、周囲をぐるりと見回した。
「……え?」
 何だか、妙な違和感を感じる。
 和奏は何度も瞬きをして、瞳を見開いた。
 そんな和奏の様子に、隣を歩いていた千佳も足を止める。
「どうしたの、和奏?」
「え? 何か、変じゃない?」
「変って……何が?」
 和奏の言葉に、千佳は大きく首を捻る。
 和奏はもう一度あたりを見回し、改めて周囲の状況を確認した。
 ――明らかに、おかしい。
 和奏はおそるおそる、目の前の千佳に言ったのだった。
「だって、さっきまであんなに人がいたのに……今、私たち以外に誰もいないなんて、おかしくない?」
 和奏の言う通り、同じ制服を着ている生徒で賑やかだったはずの周囲が、今はシンと静まり返っている。
 人だけでなく、いつもなら渋滞している大通りでさえ、一台の車の姿も見当たらない。
 周囲をきょろきょろと見回している和奏に、千佳は視線を向ける。
 それからふっと口元に笑みを浮かべて、ゆっくりと口を開いたのだった。
「それはそうよ。だって……人除けの結界、張ったんだもん」
「えっ!?」
 和奏は次の瞬間、驚いたように瞳を見開く。
 それと同時に、ゾクッと背中に寒気がはしった。
 そして千佳に視線を向け、表情を変える。
 目の前の千佳から……邪悪な妖気を感じたからである。
 その目は心なしかつり上がっており、顔色は生気がないかのような白面で。
 和奏の知っている千佳とは、まるで雰囲気が違っていた。
 千佳はペロッと舌を出し、ニッと笑みを浮かべる。
 そして一歩ずつ和奏に近づきながら、口を開いた。
「その大きな霊気を宿した身体を手に入れれば、我の妖力はもっと高くなるだろうな。さあ、大人しく我のものになれ」
「ち、千佳ちゃん!?」
 和奏は全身に鳥肌が立つのを感じながら、思わず後ずさりをする。
 突然千佳の口調がガラリと変わり、表情まで普段の彼女のものとは全く異なっている。
 千佳は和奏を捕まえようと、おもむろにふっと腕を伸ばした。
 ――その時。
「! きゃっ!」
「……っ!!」
 バチッと音がしたかと思うと、和奏を掴もうとした千佳の腕が弾かれる。
 和奏は何が起こったのか分からず、何度も瞬きをした。
 それからふと視線を落として、小さく声を上げる。
「あっ……」
「くっ、術師の護りの術か?」
 千佳は忌々しげにそう呟き、和奏の胸の位置に視線を向けた。
 いつの間にか胸の位置で握り締めている司紗のお守りが、カアッと眩い光を放っていたのだった。
 和奏はふと、司紗の言っていた言葉を思い出す。
『僕の護りの術を施してあるお守りだから、何かあった時のために持っててくれたら嬉しいな。弱い妖怪や霊なら撃退できると思うから』
 ということは今……その、まさに何かあった時ということなのだろうか。
 そして司紗のくれたお守りが、自分のことを守ってくれていると。
 でもどうして友人である千佳が、自分に襲いかかろうとしているのだろうか。
 まだイマイチ状況が掴めず、和奏は困惑した表情を浮かべる。
 千佳はつり上がった瞳を細め、鋭い視線を和奏の持っているお守りに向けた。
 そして。
「!」
 再び背筋に悪寒がはしり、和奏は顔を上げる。
 目の前の千佳の手が輝きを増し、バチバチと光を放ち始めたのだった。
「身体に傷をつけたくはないのだが……その身体を我のものにするためだ、やむを得まい」
 そう言って千佳は、スッと妖気を纏った手を後ろに引く。
 それから妖気の衝撃を、和奏目掛けて放ったのだった。
「きゃっ!」
 和奏は発生した眩い光に、思わず目を覆う。
 ……そして、次の瞬間。
 ドオンッと耳を劈く大きな衝撃音が、周囲に響く。
「……えっ?」
 和奏は自分が無傷なことを確認すると、おそるおそるゆっくりと瞳を開いた。
 そんな――和奏の目の前には。
「あ……!」
「いい度胸してんじゃねーかよ。俺の女に手ぇ出そうなんてな」
 和奏を庇うように立つ、ひとりの人物。
 いつの間にか駆けつけた雨京先生の姿が、そこにはあったのだった。
「何っ、術師か? いや、違う……妖気!?」
 突然現れた先生に攻撃を無効化された千佳は、驚きを隠せないようにそう呟く。
 雨京先生は切れ長の瞳を千佳に向け、ふっと手を掲げた。
 それと同時に、渦を巻いた強大な妖気がその手に宿る。
 千佳は先生の強大な妖気に圧され、じりじりと後退しながら言った。
「その妖気を我に放ったところで、ただこの器の娘の身体を傷つけるだけだぞ!?」
「んなこと、分かってるよ。だがな、そいつの身体ごと八つ裂きにすれば、憑いてるおまえも滅されるだろうがよ」
 そう言ってさらに妖気を強める雨京先生に、和奏はハッと顔を上げる。
 そして咄嗟に先生の腕を掴み、必死に言った。
「雨京先生っ、千佳ちゃんに怪我させないでくださいっ」
「あ? 何言ってんだ、コイツはおまえの身体を欲してんだぞ」
「でも千佳ちゃんに怪我させないで、先生」
 瞳に涙を溜めて自分を見つめる和奏に、雨京先生はふうっと小さく嘆息する。
 それから自分の腕を掴む和奏の手を振り払い、首を横に振った。
「聞けねーな。ていうか、言っただろう? 俺が、おまえのこと守ってやるってな。おまえを守るってことは、コイツを滅するってことなんだよっ」
 その瞬間、雨京先生の掌から黄金の光が繰り出された。
 空気を裂くように唸りを上げ、黄金の衝撃が千佳に襲い掛かる。
 ――その時だった。
「!」
 雨京先生はふと顔を上げ、表情を変える。
 それと同時に、先程よりもさらに大きな衝撃音が周囲に轟いた。
 激しい轟音とともにカアッと黄金の光が輝きを増し、和奏は思わずぎゅっと瞳を閉じる。
 そして数秒後その光が消えうせた後、心配気な表情を浮かべながらも和奏はゆっくりと目を開けた。
 そんな彼女の瞳に映ったのは――ひとりの、少年の姿。
「あっ!」
「チッ……邪魔してんじゃねーぞ、白河」
「高嶋さんを殺す気ですか、雨京先生っ」
 雨京先生と千佳の間に立っていたのは、咄嗟に駆けつけた司紗だった。
 先生は鋭い視線を司紗に向け、再び右手に妖気を宿す。
「確かに身体は高嶋だがな、あいつには妖怪が憑いてるだろーが。俺に楯突くやつは、容赦なく八つ裂きにする。邪魔するってなら、おまえごと引き裂いてやってもいいんだぞ?」
 先生の脅迫めいた言葉にも怯まず、司紗は先生を見据えてその手に霊気を漲らせる。
 そして、負けずに言った。
「だからって、高嶋さんごと滅する必要はないでしょう!? そんなこと、僕が許しませんよ」
 相変わらず挑戦的な視線を向ける司紗に、先生はますます気に食わない顔をする。
 それから声のトーンを落とし、言葉を投げた。
「言っても分からないようだな、白河。いいだろう、おまえごと引き裂いてやる」
 そう言って先生は、スッと妖気を纏った右手を引いた。
 司紗もそれに対抗すべく、霊気を強める。
 ――その時だった。
「!」
「……!」
「あっ!!」
 3人は同時に顔を上げ、視線を千佳に向けた。
 ふたりの小競り合いの一瞬の隙をつき、千佳は人間とは思えない跳躍力で地を蹴る。
 そして、和奏たちの前から姿を消したのだった。
 雨京先生は敢えてそれを追わず、面白くなさそうな表情をする。
「おまえのせいで逃げやがったじゃねーかよ、白河」
 そんな先生の言葉に、司紗はキッと鋭い視線を向けた。
「罪のない人間が、妖怪に殺されるのを黙って見ているわけにはいきませんからね。それに高嶋さんに憑いている妖怪も、術師である僕が滅しますから」
 司紗はそう言ってから、ふと和奏に目を移す。
 そして、普段通り優しい印象の声で彼女に声を掛けた。
「和奏ちゃん、大丈夫だった?」
「えっ? あ……」
 急に気が抜けて、和奏はペタンとその場に座り込んでしまう。
 だが全身の力が抜けた和奏の様子にも構わず、雨京先生は学校に向かってスタスタと歩き出し始める。
 和奏は座り込んだまま振り返り、そんな先生にやっとのことで言ったのだった。
「あの、雨京先生……助けてくれて、ありがとうございました」
 和奏のその言葉を聞いて、先生はふと足を止める。
 それから何を思ったのか、くるりとUターンして彼女の元へと再び戻ってきた。
 そしてニッと美形の顔に笑みを浮かべると、わざと彼女の耳元に息を吹きかけるようにこう囁いたのだった。
「礼なら、ふたりだけの時にたっぷりしてもらうからな」
 ゾクッとするほどの低い響きに、和奏は思わず顔を赤くする。
 そんな和奏の頭をポンッと軽く叩いた後、雨京先生はスタスタと歩いて行ってしまった。
 司紗は先生が和奏から離れたのを確認し、まだ足に力が入らず立てない彼女に駆け寄る。
「大丈夫? 和奏ちゃん」
「え? あ、うん……でも、何が何だか……千佳ちゃんは、どうしちゃったの?」
 和奏の問いに、司紗はふと表情を変える。
 そしてゆっくりと優しく和奏を立たせながら、答えた。
「高嶋さんの身体には、妖怪が憑いていたよ。しかもあの妖気の感じ……先生ほどの力は全然ない、低俗な妖怪だけど……彼女の身体には、どうやら狐が憑依しているみたいだね」
「えっ? 千佳ちゃんの身体に、狐が!?」
 司紗に支えられながら、和奏は驚いたように瞳を見開く。
 司紗は彼女の言葉に頷くと、表情をふと引き締めた。
 そして、ゆっくりと続ける。
「あの妖狐の本当の目的は、和奏ちゃんみたいだったから……これからは、極力僕がそばにいるよ」
「目的は、私?」
 和奏はようやくひとりで立ってから、千佳の言っていたことを思い出した。
『その大きな霊気を宿した身体を手に入れれば、我の妖力はもっと高くなるだろうな。さあ、大人しく我のものになれ』
 普段の千佳とは全く雰囲気の違う、つり上がった瞳と白面の顔。
 彼女を取り囲む邪悪な妖気を思い出し、和奏は顔色を変える。
 司紗はそんな和奏を気遣うように彼女を支え、心配そうに顔を覗き込んだ。
「和奏ちゃん、大丈夫? 少し、休もうか」
 和奏は自分を見つめる司紗の綺麗な顔がすぐ近くにあることに気がつき、思わずドキッとする。
 それから、まだ手の中に握り締めているお守りの存在に気がついた。
 和奏は軽い眩暈のする中、隣の司紗ににっこりと微笑んで言った。
「あ、司紗くん……司紗くんのくれたお守りが、私のことを守ってくれたの。お守りくれて、本当にありがとう」
「和奏ちゃん……」
 司紗はちょうど近くにあったベンチに和奏を座らせた後、上品な顔に笑顔を浮かべる。
 そして、少し乱れた和奏の髪を手櫛で軽く整えてから、こう言ったのだった。
「和奏ちゃんも高嶋さんも、術師であるこの僕が守ってみせるから。あの高嶋さんに憑依している妖怪からも……そして、雨京先生からもね」