第一章 金色九尾



 第6話 胸騒ぎの放課後

 ――雨京先生の正体を見てから、ちょうど1週間が経った。
 そんな日の、放課後。
 和奏は帰る支度をしながら、肩より少し短いダークブラウンの髪をかき上げる。
 そしてパタンとカバンをしめて、腕時計に目をやった。
 その時。
「ねぇねぇ、最近なんだか和奏って、マリちゃんとよく一緒にいるよね?」
 仲の良いクラスメイトにそう声を掛けられ、和奏は顔を上げる。
 それから慌てて首を振り、瞳をぱちくりさせた。
「えっ? マ、マリちゃんと一緒って……そ、そんなことないよ」
 和奏はどう答えていいか分からず、誤魔化すように笑う。
 まさか先生が妖狐である上に、半ば脅しのように勝手に『俺の女』にされているなんて、到底言えるはずはない。
 しかも、美形な容姿を持つ雨京先生は、元々女生徒に人気の高い教師である。
 それ故に、和奏は最近よくこの手の質問をされることが多くなっていた。
 だがそんな彼女の苦労も知らず、当の雨京先生は相変わらず強引で。
 いきなり和奏を呼び出しては、振り回している。
 断って祟られては困るし特に断る理由も思いつかない和奏は、そんな彼の言葉に素直に従っているのであるが。
 でも彼女の想い人は、雨京先生ではない。
 クラスメイトはさらに続けて、和奏にこう訊いたのだった。
「ねぇ、そういえば和奏、最近白河くんともよく話してるよね」
「司紗くんと……うん、そうだね。よく話してるかも」
 今度はクラスメイトの言葉に素直に頷き、和奏は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
 先生に振り回されてはいるが、おかげで大好きな司紗とよく話をするようになったのも事実で。
 見ているだけで十分だった高嶺の花が、今ではすごく近い存在に感じる。
 もちろん、彼と付き合ったりしているわけでは全くないのであるが、彼とたくさん会話できるだけでも和奏にとっては夢のようなことなのである。
 クラスメイトはそんな和奏の様子に楽しそうに笑い、そして手を振った。
「告白してみたら結構うまくいくかも、なーんてねっ。んじゃ、また明日ね」
「こ、告白!? あっ、またね」
 驚いた表情を浮かべながらも、和奏はクラスメイトに手を振り返す。
 それにしても、告白だなんて。
 そんなこと、考えてもみなかった。
 ただ、彼と話ができるだけで嬉しくて。
 自分の気持ちを彼に言うなんて、そんな勇気はまだ全くないし。
 でも……もしも彼が、自分の想いを受け止めてくれたら……。
 そう思った後、和奏はふと我に返って顔を真っ赤にさせてから、意中の相手・白河司紗にちらりと目を向ける。
 サラサラの黒髪と、同じ色を湛えるその瞳。
 上品で整った顔立ちは、一見いつもと同じように見えた。
 ……だが。
「司紗、くん?」
 和奏はふと、司紗に声を掛けた。
 急に聞こえてきたその声に、司紗はハッと顔を上げる。
「あ、和奏ちゃん……」
 司紗はふっといつも通りの笑顔を宿し、彼女に向けた。
 自分を映す彼の綺麗な漆黒の瞳に、和奏は自然と胸の鼓動を早める。
 その彼の優しい笑みは、確かにいつもの司紗のものであったのだが。
 でも……。
 和奏は目の前の司紗に、遠慮気味にこう訊いたのだった。
「どうしたの? 司紗くん。何か、すごく考え込んでるみたいだけど……」
「え?」
 和奏のその言葉に、一瞬司紗は驚いた表情を浮かべる。
 それから気を取り直して首を振って、周囲に聞こえないくらいの声で彼女に言った。
「ううん、何でもないよ。それよりも和奏ちゃん、最近体調とか悪くなったりしてない? 妖気にあてられて、体調を崩しちゃう人もいるからね。何かちょっとでも変だなって思うことがあったら、すぐ僕に言って」
「あ、うん。今は特に体調とか何ともないよ。ありがとう、司紗くん」
 優しい司紗のその言葉に微笑み、和奏はカアッと顔を赤くする。
 自分のことを、彼が心配してくれている。
 それだけで、体調が悪くなるどころか幸せな気持ちになるのだった。
 1週間前から、和奏の周囲の状況は目まぐるしく変化しているのだが。
 でも、一概にその変化が悪いものだとは彼女は思ってはいなかった。
 こうやって、憧れの司紗とたくさん話ができるようになったのだから。
「…………」
 のん気に幸せに浸っている和奏とは対称的に、司紗はふと何かを考えるように言葉を切る。
 そして、真剣な眼差しを彼女に向けた。
 そんな彼の視線に気がつき、和奏は不思議そうに小首を傾げる。
「司紗くん?」
 ――その時だった。
「……え?」
 和奏は瞳を見開き、驚いたように何度も瞬きをする。
 それから、改めて目の前の司紗を見つめた。
 一瞬彼の表情が、今までの穏やかなものと全くその雰囲気を変えたような気がしたのだ。
 そのゾクッとするほどの鋭い瞳には、何かを決意したような強い光のようなものが宿っていた。
 そして、それは……先生と対峙した時に感じた印象と同じだと、この時の和奏は思ったのだった。
 司紗はふっと我に返ると、思わず黙ってしまった和奏に普段通りの笑顔を向ける。
 それから、ゆっくりと言った。
「和奏ちゃん、今からもう帰るんだよね? じゃあまた明日ね、気をつけて帰ってね」
「え? あ、うん。またね、司紗くん」
 和奏は彼のみせた表情が気になりながらも、そう答える。
 それからおもむろに教室を出て行った司紗の背中を見つめ、もう一度大きく首を傾げたのだった。



 ――それから、しばらくして。
 校門を出た和奏は、学校にほど近い賑やかな繁華街を歩いていた。
 今日は職員会議があるらしく、雨京先生からの放課後の呼び出しはなかった。
 とはいえ、その代わり昼休みにバッチリ国語教室に呼び出されたのだが。
 それにしても、雨京先生の考えがよく分からない。
 何でそんなに先生は、自分なんかをそばに置いておくのだろうか。
 可愛くて頭のいい子なんて、ほかにたくさんいるのに。
 それに先生と一緒にいる時、特に話が弾んでいるかといえばそういうわけでも全くない。
 本当に何をするということもなく、ただ一緒にいるというだけなのだ。
 そう……先生から、されることといえば。
 柔らかくて優しい、キスくらい。
 いつもは強引な先生だが、でもそんな彼の口づけは、とても優しい。
 ふと和奏は近づいてくる美形の先生の顔と柔らかな唇の感触を思い出し、思わず顔を赤らめる。
 自分には、司紗という想いを寄せる人がいるのに。
 なのに、別の人にもドキドキするなんて、そんなの不謹慎だ。
 そう思い直し、和奏は想い人・司紗の上品な容姿を思い出す。
 それから、ふと何かを考えるような仕草をした。
 ――帰る前に教室で見た、司紗のあの表情。
 何かを決意したような、意思の強い瞳。
 そんな普段あまりみせない彼の顔はとても男らしく、見ていて自然と胸の鼓動が早くなってしまう。
 ……でも。
「何だか、胸騒ぎがする……」
 和奏はそう呟き、ブレザーの制服のリボンをぎゅっと握り締めた。
 どうして今日の司紗の表情を思い浮かべると、こんなにそわそわしてしまうのだろうか。
 和奏はふと足を止め、悩むように俯く。
 それから周囲を見回した後、おもむろに元来た道を戻り始めたのだった。



 ――同じ頃。
 職員会議が終わった雨京先生は会議室を出て、校舎内を歩いていた。
 窓の外の空は、すっかり夕焼けの赤橙に染まっている。
「…………」
 雨京先生はふと切れ長の瞳を細め、それから赤に染まった風景をちらりと見た後、ふうっと溜め息をついた。
 そして足早に、ある人物との待ち合わせ場所に向かったのだった。
 ――その場所とは。
「ったく、挑発的な霊気出してんじゃねーぞ、おまえは。ウザイんだよ」
 ブラウンの髪を揺らす風を気にも留めもせず、先生は中庭で自分を待っていた人物にそう言った。
 そんな先生を見据え、その人物・白河司紗はゆっくりと口を開く。
「待っていましたよ、雨京先生」
 雨京先生は周囲をぐるりと見回してから、チッと舌打ちをした。
「この俺を呼びつけた上に、ご丁寧に大そうな人除けの結界まで張りやがって。それで、この俺に何の用だ?」
 気に食わない表情を浮かべてそう言う先生に、司紗は表情を引き締める。
 そして、こう答えたのだった。
「これ以上、桜井和奏ちゃんに近づかないでください。最近、彼女の持つ霊気が不安定なのを感じます。彼女は元々普通の子よりも霊力が強いみたいだから、貴方の妖気に影響されやすいんでしょうね」
 そんな司紗の言葉を聞いて、雨京先生は眉を顰める。
 それから、射抜くような視線を彼に返した。
「あ? この前も言ったけどな、おまえ誰に向かってそんな口聞いてんだ? それに、桜井和奏はこの俺の女だ。死にたくなければ引っ込んでろ」
「僕は術師として、妖怪が人間にちょっかいをかけているのを、黙って見過ごすなんてできませんから」
 雨京先生のつり上がった狐目に怯むことなく、司紗はすかさずそう口を開く。
 そして、漆黒の色を湛える瞳をスッと伏せた。
 ――その瞬間。
 司紗はその身に、淡い光を放つ強い霊気を纏う。
 雨京先生はそんな司紗の態度に顔を顰めた後、大きく息を吐いた。
 それから、じろっと司紗に視線を投げる。
「おまえ、この俺様に喧嘩売るなんていい度胸してんじゃねーかよ。その勇気は認めるがな、容赦なく八つ裂きにして返り討ちにするぞ、コラ」
「できるものなら、やってみたらどうですか? その前に、先生が滅されていなければの話ですがね」
 司紗は負けじとそう言った後、スッと身構えた。
 それと同時に彼の霊気がさらに高まり、戦闘態勢に入る。
 だが雨京先生は、大きさを増した司紗の霊気を前に全く慌てる様子はない。
 それから鬱陶しそうに前髪をかき上げた後、ブラウンの切れ長の瞳を細めた。
 そして術師である司紗の霊気に対抗すべく、黄金の光を放つ妖気を解放したのだった。