第一章 金色九尾



 第7話 狐の癒し方

『……おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか電源が入っていないため、かかりません』
 耳に聞こえてくるそのアナウンスを聞き、和奏は携帯電話の通話終了ボタンを押す。
 先程から何度も司紗に電話をかけているのだが、連絡が取れない状態なのである。
 帰る前に一瞬だけみせた、司紗のあの表情。
 何故だか、それがものすごく気になって仕方がないのだった。
 何もなければ、それに越したことはない。
 でも……どうしてこんなに、胸騒ぎがするのだろうか。
 和奏ははあっとひとつ息を吐いて、そして立ち止まった。
 その場所は――学校。
 直感的に和奏は、再び学校へと戻ってきたのだった。
 和奏は校門をくぐり、ゆっくりと歩き始める。
 周囲を見回してみたが、特に学校内で何か妙なことが起こっている感じはしない。
 とりあえず司紗を探そうと、和奏は校内へと足を運んだ。
 いつも通りの、何の変哲もない学校の放課後。
 やはり、自分の思い過ごしだろうか。
 そう思った、その時。
「……?」
 和奏はピタリと立ち止まった。
 窓の外から見えるのは、誰もいない中庭の風景。
 だが何故だか和奏は、その静かな中庭の風景に違和感を感じた。
 それから胸騒ぎの止まらない胸をぎゅっと握り締め、中庭に向けて進路を取ったのだった。



 ――その頃。
 無数の眩い光が弾け、もう何度目か分からない大きな衝撃音が周囲に轟いた。
 司紗はクッと唇を結び、目の前の雨京先生を見据える。
「この俺に喧嘩売って、ただで済むと思ってんじゃねーだろうな? 俺に楯突くヤツは、八つ裂きにしてぶっ殺す」
 黄金の光を纏った雨京先生は、そう言って鋭い視線を司紗に向けた。
 司紗は先生の次の動きを注意深く探りながら、再び右手に霊気を纏う。
 そして、グッと拳を握り締めて言った。
「先生こそ、いつまで仮の姿でいる気ですか? そろそろ、正体を現したらどうですか」
 司紗の言葉に、先生は切れ長の瞳をふっと細める。
 それから色素の薄いブラウンの髪をかき上げ、首を振った。
「正体を見せろだと? 妖狐の姿じゃなくてもな、この俺は十分強えんだよ。見せてやろうか? 白河」
「……!」
 雨京先生がふっと右手を天に掲げた瞬間、強大な妖気が空気をビリビリと振るわせる。
 司紗は先生の妖気に対抗すべく霊気を漲らせ、再び臨戦態勢に入った。
 雨京先生はつりあがった瞳を、狙いを定めるかのように細め、ふっと軽く手を振り下ろす。
 その瞬間、眩い黄金の衝撃が渦を巻き、司紗に襲い掛かった。
 司紗は霊気の宿った手を素早く前に翳し、妖気の衝撃を防ぐ障壁を作り出す。
 刹那、妖気と霊気が衝突し、轟音が耳を劈く。
 司紗は重い衝撃に耐え、ギリッと歯を食いしばった。
 雨京先生は再び妖気を宿し、第二波を繰り出そうと腕を引く。
 バチバチと黄金の光が、再び音を立てて渦を巻いた。
 ……その時。
 攻撃を仕掛けんとしていた先生の動きが、ふいにピタリと止まった。
 そして司紗から視線を外し、別の場所に目を向ける。
 司紗もそんな先生の様子に気がついて、彼の視線を追う。
 そして、思わず声を上げた。
「えっ、和奏ちゃん!?」
「司紗くんっ、雨京先生っ」
 ふたりの目の前に現れたのは、誰でもない和奏であった。
 司紗は信じられない表情を浮かべ、呟く。
「人除けの結界を張ってたはずなのに……どうして」
「おまえ、何しに来たんだ?」
 驚く司紗とは対称的に、表情を変えずに雨京先生は和奏に訊いた。
 先生の問いに、和奏はどう答えていいか分からない表情をする。
「何しにって……何だか、胸騒ぎがして」
「そんなにこの俺に会いたかったのか? そこでじっとして待ってろ、すぐ白河のヤツを八つ裂きにするからよ」
 俯く和奏を見て雨京先生はニッと笑い、その手に再び妖気を漲らせた。
 そんな雨京先生の言葉を聞き、和奏はダークブラウンの瞳を見開く。
 そして大きく首を振り、先生にこう言ったのだった。
「そんなの、駄目っ。先生、司紗くんにそんなことしないでくださいっ」
「あ? 何言ってんだ。喧嘩売ってきたのは白河なんだぞ」
「それでも、やめて……お願い」
 自分に向けられた潤んだ和奏の瞳を見て、先生は面白くなさそうに舌打ちをする。
 それからつり上がった瞳をスッと細め、彼女に向けた。
 そんな雨京先生の目は……思わず背筋がゾクッとするほど、鋭いものだった。
 射抜くような真っ直ぐな視線は、怖いほどに威圧的で。
 和奏はそんな彼に見つめられ、何も言えず動けなかった。
 雨京先生は声のトーンを落とし、黙ってしまった和奏にゆっくりと口を開く。
「おまえ、俺の言ったこと忘れたか? おまえはこの俺の女だ。俺が黒だって言えば、おまえも黒だってな」
 そう言って雨京先生は、和奏に一歩近づいた。
 和奏は先生に宿る黄金の光を感じながら、涙の溜まった瞳で彼を見つめた。
 ――その時。
「!」
 雨京先生は和奏から視線を外し、そして咄嗟にその手に妖気を宿す。
 次の瞬間、いつの間にか司紗から放たれた霊気の衝撃が眩い光を放ち、大きく弾けた。
「きゃっ!」
 和奏は突然生じた光の眩しさに、思わず目を伏せる。
 同時に、耳に大きな地鳴りが響いた。
 何が起こったのか分からず、それからしばらくして、和奏はようやくおそるおそる目を開ける。
「捉えたと思ったのに……咄嗟に妖気の障壁を張ったのか」
 霊気の衝撃を繰り出した司紗は、険しい表情でそう呟いた。
 和奏は衝撃の余波が立ち込める中、状況を把握しようと目を凝らす。
 その時だった。
「あ……!」
 和奏は声を上げ、瞳を大きく見開いた。
 そんな彼女の瞳に映るのは。
 ――金色の流れるような長い髪と、同じ色をした九本の尻尾。
 ふっと開いたその瞳は、真紅に染まっている。
「金毛九尾狐……それが、先生の正体ですか」
 先程と比べ物にならないくらい大きく膨れ上がった雨京先生の妖気を全身で感じ、司紗は表情を変えた。
 雨京先生は眩い黄金の光を身に纏い、司紗に真紅の瞳を向ける。
「急にデカい霊気ぶっ放してんじゃねーぞ。ていうか……本気でこの俺を怒らせるな、白河」
「やっと正体を現しましたね、雨京先生」
 司紗は妖気の圧力に負けじと霊気を漲らせ、ふっと身構えた。
 そしてふたりが再び、攻撃を仕掛けようとした……その時。
「やめて、お願いっ」
 ふたりの間に割って入り、和奏が飛び出してきたのだった。
「! 和奏ちゃん、危ないから下がっててっ」
 司紗は突然の和奏のその行動に、驚いた表情を浮かべる。
 逆に先生は表情を変えず、彼女に赤を帯びた視線を向けて短く言った。
「どけ、和奏」
 そんな先生の有無を言わせぬ口調にビクッと身体を震わせながらも、和奏は小さく首を振る。
 声こそ出せなかった和奏だったが、涙の溜まった瞳を一生懸命じっと先生に向けた。
「…………」
 雨京先生はそんな和奏を見つめ、ふっと嘆息する。
 それから金色の長い髪を鬱陶しそうにかき上げた後、言ったのだった。
「ったく、仕方ねーな。俺は女を泣かすのは得意だけど、趣味じゃねーんだよ」
「え?」
 雨京先生の言葉に和奏が瞳をぱちくりとさせた、次の瞬間。
「きゃっ!!」
「和奏ちゃんっ!」
 和奏と司紗が、同時に声を上げる。
 雨京先生が和奏の身体を、ぐいっと自分の胸に引き寄せたのだった。
 ぎゅっと和奏を抱きしめた後、雨京先生は真紅の瞳を一瞬司紗に向ける。
 ――そして。
「!!」
 突然、カアッと黄金の光がほとばしり、一瞬で周囲を包み込んだ。
 その眩い光に、司紗は思わず手のひらで瞳を覆う。
 それからゆっくりと目を開け、クッと悔しそうに唇を噛んで呟いた。
「雨京先生……今度は必ず、貴方のことを滅してみせますよ」
 そんな司紗の目の前からは、すでに雨京先生の姿も、そして和奏の姿も消えていたのだった。



「えっ!? なっ、何でっ!?」
 ゆっくりと目を開けた和奏は、驚いたように目を見開いた。
 眩い光が自分の身体を包み込んだと思った、その後。
 気がつけば和奏は、何故か国語教室に立っていたのだった。
 しかも……金毛九尾狐の姿をした雨京先生に、抱きしめられた状態で。
 和奏を抱きしめたまま、雨京先生は舌打ちする。
「チッ、白河のヤツ。今度はソッコーで八つ裂きにしてやるからな」
 和奏はその言葉を聞き、先生の胸の中でハッと顔を上げた。
「先生、それだけはやめてくださいっ。お願い……」
 自分を見上げてそう言った和奏に、雨京先生は大きく嘆息する。
 それから金色の髪をかき上げ、面白くなさそうに言った。
「あ? 誰に向かってそんな口叩いてんだ、おまえ」
 赤を帯びた瞳でじろっと視線を向けられ、和奏は口を噤む。
 そしてふと、自分を抱きしめる先生の腕を見て呟いた。
「あ、先生……腕、怪我してる……」
 先程の司紗との一戦で負ったものだろう。
 かすり傷程度の浅いものだったが、先生の腕からじわりと血が滲んでいた。
 雨京先生はその言葉を聞いてようやく気がついたように、腕に目を向ける。
 それから再び視線を和奏に戻し、ニッと口元に笑みを浮かべて言ったのだった。
「おまえのせいだ。責任取れ」
「えっ!? わ、私のせいって」
「当然だ、おまえが邪魔したから怪我したんじゃねーかよ。責任取れ」
「せ、責任って言ったって……」
 一体、どう責任を取ればいいんだろうか。
 胸の中でオタオタする和奏に、雨京先生はふっと笑う。
 そして。
「おい、和奏。顔上げろ」
「え? ……っ」
 言われた通り顔を上げた和奏は、驚いたように瞳を大きく見開いた。
 雨京先生の唇が――そっと、自分の唇を覆ったのだった。
 触れるくらいの短いキスの後、先生は声のトーンを落とし、和奏の耳元で囁く。
「キスする時くらい、目ぇ瞑れって言っただろうが。やり直しだ」
 ふっと吹きかかる吐息にピクッと反応した後、和奏は瞳をぱちくりとさせた。
 先生は雪のように白くて大きな掌を、そっと和奏の頬に添える。
 彼の細い指の感触に、和奏の心臓が急激にその鼓動を早めた。
「和奏」
 先生の声が、彼女の名を呼ぶ。
 和奏は言われた通り、ぎゅっと瞳を閉じた。
 ……次の瞬間。
 先生の柔らかな唇の感触がしたと同時に、カアッと身体の中が熱くなるのを感じる。
 薄っすらと開いた瞳には、雨京先生の綺麗な顔と、自分たちを包み込む黄金の光が映っていた。
 先程の触れる程度のものとは違い、雨京先生はゆっくりと優しく和奏の唇にキスを重ねていく。
 甘い口づけが落とされるたび、和奏は眩暈がするほどの心地よさと、輝きを増す眩い黄金の光を感じたのだった。
 ――それから、しばらくして。
 ようやく先生の唇が自分のものから離れ、和奏は思わずはあっと息を漏らす。
 そんな和奏をぎゅっと抱きしめ、そして雨京先生はニッと笑って言った。
「気持ちよさそうな顔してるじゃねーかよ。この俺のキスに、骨抜きか?」
「なっ……き、気持ちよさそうってっ」
 先生のその言葉に、和奏は顔を赤くして俯く。
 だが彼の言う通り、実際、先生のキスはとても気持ちよくて。
 柔らかな唇の感触を改めて思い出し、和奏は耳まで真っ赤にさせた。
 そして下を向いたまま、ドキドキと鼓動を刻む胸を押さえる。
 ……その時。
「あれ? 傷、治ってる?」
 和奏は相変わらず自分を抱きしめている先生の腕を見て、ぽつりとそう呟いた。
 先程まであった腕の傷が、すっかりと消えていたのだった。
 雨京先生は大きな手でポンッと和奏の頭に手を添え、笑う。
「ああ、おまえって結構霊力強いからよ、キスしたら治ったんだよ」
「え? 霊力が強いって……」
 その言葉を聞き、和奏は表情を変えた。
 先程のキスで、自分の霊力が吸い取られてしまったんじゃないか。
 何せ、目の前の先生は悪妖なのである。
 そんな和奏の顔を見て、雨京先生はわざとらしく嘆息した。
「おまえな、何度言ったら分かるんだ? おまえはこの俺の女だ。おまえが逆らわなきゃ悪いようにはしねーよ」
 それから先生はスッと真紅の瞳を閉じ、意識を集中させる。
 そして、見慣れたブラウンの髪と瞳の普段の人間の姿に戻ると、和奏に言ったのだった。
「あー腹減った。飯食って帰るぞ」
「えっ? あ……」
 おもむろに雨京先生に腰を抱かれ、和奏は彼の手の感触にドキッとする。
 相変わらず雨京先生は、強引な俺様体質だけど。
 でも……不思議と、嫌な気持ちはしない。
 悪妖のはずなのに、何故だかとてもあたたかい気さえする……。
 顔を真っ赤にさせながらもそう思い、和奏は隣の先生の綺麗な顔を見つめて小さく微笑んだのだった。



 ――次の日。
「おはよう、和奏ちゃん」
 朝のホームルームが終わり1時間目の授業の準備をしていた和奏は、その声にふっと顔を上げた。
 そして、嬉しそうな表情を浮かべて瞳を細める。
「あ、おはよう、司紗くん」
「和奏ちゃん、昨日は大丈夫だった?」
 周囲に気を配るように小声でそう言って、司紗は心配そうな視線を彼女に向けた。
 和奏は自分を映す司紗の漆黒の瞳にドキッとしながら、こくんと頷く。
「うん、平気。大丈夫」
「心配してたんだ……よかったよ」
 和奏の普段と変わらない様子に、司紗はホッとしたような表情をみせる。
 それからにっこりと知的な顔に微笑みを宿し、和奏に言ったのだった。
「昨日はありがとう、和奏ちゃん。普通なら、あんな大きな妖気を目の当たりにしたら一歩も動けないはずなのに」
 司紗のその言葉に、和奏は照れたように大きく首を振る。
「えっ、いや、あの時は必死で。司紗くんにも……マリちゃんにも、怪我とかして欲しくなかったから」
「和奏ちゃん……」
 司紗はその和奏の言葉に、少し複雑な表情をした。
 そして気を取り直し、授業開始のチャイムが鳴り出したのを聞きながら、もう一度彼女にお礼を言った。
「ありがとう、和奏ちゃん」
 それと同時に、ガラリと教室のドアが開いた。
 生徒たちが一斉に席に着き、そして学級委員の始業の号令がかかる。
 号令が終わって席に着いた生徒たちをぐるりと見回した後、教壇に立った雨京先生は相変わらずの口調で言った。
「んじゃ、今日は178ページからだ。さっさと教科書開け、始めるぞ」
 そう言ってから、先生はふっと顔を上げる。
 そんな彼が、視線を向けたのは。
「……っ」
 急に綺麗な切れ長の瞳が自分を映し、和奏はカアッと顔を赤らめた。
 そしてそんな和奏をつり上がった狐目で見つめ、雨京先生は口元にニッと笑みを宿す。
 それから何事もなかったかのように、普段通り古典の授業を始めたのだった。


第一章・完