第一章 金色九尾



 第5話 狐のご馳走

「おはよう、和奏」
「あ、おはよう」
 靴箱で一緒になったクラスメイトに挨拶を返し、和奏は履き替えた靴を靴箱に入れた。
 ――次の日の朝。
 ふわっと小さくあくびをして、和奏は軽く目をこする。
 昨日は何だかいろいろなことがありすぎて、夜もあまりぐっすり眠れなかった。
 でも朝起きて目が覚めた時、やはり改めて思ったのだった。
 昨日の一連の出来事は、きっと夢だろうと。
 だって、有り得ない。
 古典の雨京真里先生が狐の妖怪で、想いを寄せるクラスメイトの白河司紗が妖怪を退治する術師だなんて。
 テレビや映画の影響を強く受けた、夢としか考えられない。
 ――それに。
 柔らかで甘い、雨京先生のキス。
 和奏はおもむろに俯き、カアッと頬を赤らめて、そっと自分の唇に手を添えた。
 先生との気持ち良いキスの感触を思い出した瞬間、体温が上がるのを感じ、急に恥ずかしくなる。
 そして火照った頬を軽くペチペチと叩いてから気を取り直した後、教室に向かって歩き出した。
 その時。
「おい、桜井和奏」
 ふと階段に差し掛かったところで呼び止められ、和奏は振り返る。
 そして、瞳をぱちくりさせた。
「雨京先生……」
 彼女の目の前にいたのは、古典教師の雨京先生その人だった。
 和奏は、彼の色素の薄い髪と、つり上がったブラウンの瞳をじっと見つめる。
 どこからどう見ても、目の前の先生は普通の人間にしか見えない。
 そんな先生が妖怪だなんて、やっぱり夢に違いない。
 そう、和奏が思った……次の瞬間。
「今日の18時、裏門で待ってろ」
「え?」
 急に発せられた先生の言葉に、和奏はきょとんとする。
 雨京先生は表情を変えず、もう一度言った。
「18時に裏門だ、分かったか? んで、俺は待つのが死ぬほど大嫌いだ。1秒でもこの俺を待たせたら、マジで祟ってやるからな」
「た、祟るってっ……あっ、せ、先生!?」
 驚く和奏を後目に、雨京先生はスタスタと職員室に向かって歩き出す。
 先生の小さくなっていく後姿を見つめながら、和奏はその場にぽかんと立ち尽くしていた。
 祟ってやるって……やはりこれは、現実なのだろうか。
 それとも、夢の続き?
 和奏は自分の手の甲を、ぎゅっと力強く摘んで捻った。
「痛……っ」
 手の甲がジンジンと痛みを帯び、薄っすらと赤に色を変える。
 そんな手を擦りながら、和奏は先生に言われたことをふと思い出す。
『18時、裏門で待ってろ』
 自分を見つめる、先生の切れ長の瞳。
 その視線を思い出し、和奏は胸の鼓動を早めた。
 一体、裏門なんかに来させて彼は何をする気なのだろうか?
 理由を考えてみたものの全く検討がつかず、和奏はふと首を捻った。
 どうして呼び出されたのか、何をされるのか分からないが、行かずに祟られたり獲って喰われてはたまらない。
 うーんと考える仕草をして、それから和奏はようやく階段を上がり始めた。
 そして階段の踊り場に差し掛かった、その時。
「和奏ちゃん」
 ふと背後から声を掛けられ、和奏は慌てたように振り返る。
 その瞬間、頬を赤くして瞳を大きく見開いた。
「和奏ちゃん、おはよう」
 そう言って、自分ににっこりと微笑んでいるのは。
「つ、司紗くんっ。おはよう」
 彼の綺麗な漆黒の瞳が自分を映していることに気がつき、和奏はドキドキしながらやっとのことで彼に挨拶を返す。
 司紗はタッタッと階段を駆け上り、和奏の隣に並んだ。
 和奏はドキドキする胸をそっと押さえながら、小さく深呼吸をする。
 ……聞き間違いじゃない。
 司紗が自分のことを、名前で呼んだのである。
 ということはやはり、昨日のことは現実なのだろうか。
「昨日はいろいろあったけど、落ち着いた?」
 周囲に注意を配りながら、司紗は小声で和奏にそう訊いた。
 和奏は数度瞬きをすると、遠慮気味に頷く。
「あ、うん。まだ夢を見てるみたいなんだけど、昨日よりは落ち着いたかな」
「和奏ちゃん……雨京先生には、十分気をつけてね」
 和奏はふっと印象を変えた司紗の表情を見て、思わず言葉を失う。
 いつもと違う、引き締まった彼の顔。
 それは昨日先生と対峙した時にみせた、術師としての彼のものと同じだった。
「和奏ちゃん?」
 言葉を切って自分を見つめる和奏の様子に気がつき、司紗は小首を傾げながらも普段通りの柔らかな笑みをその顔に宿す。
 自分に向けられた彼の笑顔に、和奏はドキッとした。
 ずっと密かに好きだった司紗が、こんなに自分の近くにいるなんて。
 数日前まで、挨拶を交わすだけでも満足していたのに。
 こんな現状、まさに狐につままれたような感覚とは、こういうことなのだろうか。
 そう思いつつも改めて幸せを感じ、和奏は嬉しそうに頬を緩ませる。
 いろいろと非現実的なことがありすぎてまだ混乱していた和奏だったが、今まさに自分の隣にいる司紗に、にっこりと微笑みを返した。
 それから足取りも軽く、階段を上がり始めた。
「…………」
 司紗はそんな和奏に歩調を合わせて歩きながら、ちらりと彼女の様子を探るように見つめる。
 それからふと、何かを考えるように漆黒の瞳を細めたのだった。



 その日の夕方。
 夕焼けが空を赤に染め始めたその時、和奏は学校の裏門にいた。
「18時に裏門、だよね……」
 腕時計を見て、和奏はうーんと首を傾げる。
 ――時間は、18時半を回ったところである。
 結局悩んだ挙句、和奏は雨京先生に言われた通り学校の裏門で彼を待っていた。
 祟られては困るので、指定時間の十分前にはすでにこの場所に来ていたのだが。
 和奏に場所と時間を指定した張本人は、まだ姿をみせていない。
 連絡しようにも手段がないし、学校に様子を見に戻っているうちに来ても困るし。
 そう思うと、和奏はその場を動けないでいたのだった。
 一体これから先生は、自分に何をする気なんだろうか。
 そもそも、再三彼が言っている『俺の女』。
 雨京先生は、正体は妖怪とはいえ、綺麗な切れ長の瞳が印象的な美形である。
 そしてクールで都会的な雰囲気を醸し出す彼は、女生徒にも人気が高い。
 そんな先生が、特に目立つわけでも派手なわけでもない自分のことを、『俺の女』だなんて。
 正直、近寄り難いクールな雨京先生のことが、和奏は昔からちょっと苦手だった。
 むしろ自分の好みのタイプは、穏やかで優しい笑顔が印象的な、先生と全く正反対の雰囲気を持つ司紗なのだ。
 だが、あの先生の有無を言わせぬ強引な口調に、和奏は何も言い返すことができないのだった。
 それに、確かに先生のことは相変わらず苦手であるが、特に嫌だという感情は不思議とないし。
 下手に逆らって祟られでもしたらたまらない。
 そして……。
『おまえのこと、守ってやる』
 耳元で囁かれた、この言葉。
 ゾクッとするほどの低い響きが、何故か頭からずっと離れない。
 力強く抱きしめられて感じた彼の体温、自分のものと重なる柔らかな唇。
 急にその感触を思い出し、和奏は恥ずかしくなって俯いてしまった。
 ……その時。
 一台の車が、和奏の目の前で停車する。
 そして、その少し珍しい橙色のフェアレディZから降りてきたのは。
「あっ、雨京先生」
「車に乗れ」
 待たせたの一言も当然なく、それだけ言うなり先生は再び運転席へと戻った。
 和奏は言われた通り、サンセットオレンジのフェアレディZの助手席に遠慮気味に乗り込む。
 和奏がシートベルトをしたことを確認して、雨京先生は車を発進させた。
 窓の外の風景が、ゆっくりと動き出す。
 和奏は隣で車を運転している雨京先生に、ちらりと目を向けた。
 そして、おそるおそる彼に訊いた。
「あの、先生。今からどこに?」
「どこにって、腹減ったから飯食いに行くに決まってんだろうが」
 そんなこと一言も聞いてないと思いつつも、和奏は瞳をぱちくりとさせた。
 それから、ハッと顔を上げる。
 妖怪のご飯って、一体何なのか。
 もしかして、自分の生気を食べる気とか言い出すんじゃないだろうか。
 そう思い、和奏は顔色を変える。
 そんな和奏の様子に気がつき、雨京先生はじろっと彼女を視線を向けて言った。
「あ? 何て顔してんだよ。何度も言わせんな、獲って喰う気ならとっくに喰ってるってな。普通の飯だよ、普通の」
「ふ、普通の? でも、どうして私と?」
 先生の言葉に少しホッとしつつ、和奏はふと首を傾げる。
 雨京先生はそんな彼女の問いに、当然のようにこう答えたのだった。
「今日はおまえのクラス、俺の授業なかっただろう? それに、おまえはこの俺の女だ。だからだよ」
 確かに今日の時間割に、雨京先生が担当する古典はなかった。
 だからと言っていきなり半ば強制のように誘われたら、何事かと思ってしまう。
 それに、『俺の女』って。
 相変わらず強引な先生の言葉に、和奏は何も返す言葉が見つからなかった。
 だが、どうやら心配していたような怖いことはなさそうである。
 そう思い、和奏はホッと小さく息をついた。
 それから信号が赤になり、一旦車が停車する。
 雨京先生はブレーキを踏んだ後、ふっとつり上がったブラウンの瞳を和奏に向ける。
 和奏は突然自分を映した彼の瞳を、驚いたように見つめた。
 そんな彼女の様子にも構わず、先生はニッと口元に笑みを浮かべる。
 そして、言ったのだった。
「今から、めちゃめちゃ美味いもん食わせてやる。楽しみにしてろ」
「えっ?」
 めちゃめちゃ美味いもんって、何だろう。
 珍しく楽しそうな様子の先生を見て、和奏はきょとんとする。
 それから気を取り直し、夕焼け色に染まる街並みを見つめて首を傾げたのだった。
 ――その、数分後。
 雨京先生の車が、ある一軒の店の駐車場に入っていった。
「到着だ、降りろ」
 車を停めて、雨京先生は相変わらず愛想なくそう言った。
 和奏は言われた通りに車を降り、目の前の店に視線を向けて首を捻る。
「何ボーッとしてんだ。あー腹減った。さっさと行くぞ」
 先生はどうしていいか分からず立ち尽くしている和奏にそう言ってから、スッと腕を伸ばす。
 そして。
「……え?」
 先生の腕がおもむろに和奏の腰を抱き、ぐいっと彼女の身体を引き寄せる。
 和奏はいきなりの先生の行動に驚きながらも、全身に感じる彼の温もりにドキドキしてしまった。
 顔を真っ赤にさせる和奏とは対称的に涼しい表情のまま、先生は彼女を伴ってスタスタと店に入っていく。
 そして、一番店の隅のテーブルに座った。
 和奏はそんな先生の目の前に座り、きょろきょろと店内を見回す。
 そこは、一軒の老舗っぽいうどん屋だった。
 どうしてうどん屋なのだろうと疑問に思いつつ、和奏はとりあえず何を頼もうかとメニューに目を向けた。
 しばらくして、店員がふたりのテーブルにお冷を運んでくる。
 ……その時だった。
「きつねうどんと、いなり寿司。それを2人分」
 先生はやってきた店員に、すかさず注文をした。
 何にしようかと考えていた和奏は、いきなりそう言った先生に驚いたように目を向ける。
 当然のように勝手に注文を済ませた後、雨京先生はぐいっと運ばれてきたお冷をひとくち飲んだ。
 それから自分を見ている和奏の様子に気がつき、口を開く。
「言っただろ、俺が黒だって言ったらおまえも黒だってな。俺がきつねうどんって言ったら、おまえもきつねうどんだ」
 相変わらず有無を言わせぬような、強引な彼の口調に反論することもできず、和奏はただ瞳をぱちくりさせるしかできなかった。
 それにしても、きつねうどんといなり寿司だなんて。
「何だか、狐みたい……」
 思わずそう呟き、和奏はくすくすと笑い出してしまった。
 先生はザッと色素の薄い色をした前髪をかき上げると、テーブルに頬杖をつく。
「だから、狐だって言ってんだろ? ていうか、ここのきつねうどんといなり寿司は最高だ。それを食べさせてやるってんだ、有難く思え」
 狐である先生の言う、めちゃめちゃ美味いもの。
 和奏はまだくすくす笑いながら、瞳を細めた。
 先生のめちゃめちゃ美味しいものは、和奏にとって意外なものでもあり、だが逆に考えるとあまりもベタなものでもあって、何だか可笑しかったのである。
 そしてそんな楽しそうに微笑む和奏を見つめる雨京先生は、テーブルに頬杖をついたまま、満更でもなさそうな表情をしていた。
 ――それから、数分後。
 先生お墨付きのきつねうどんといなり寿司が、ふたりのテーブルに運ばれてきた。
 和奏はパキンと割り箸を割った後、律儀に手を合わせて先生に目を向ける。
「雨京先生、いただきます」
「おう、食え」
 和奏はひとくち、まずはいなり寿司を口に運ぶ。
 雨京先生は和奏の反応を見るかのように、テーブルに肘をついたまま彼女にブラウンの瞳を向けている。
 そして。
「このいなり寿司、すごく美味しい……特に、この油揚げが」
 和奏はパッと表情を変え、先生を見つめてそう言った。
 そんな和奏の言葉に、雨京先生は大きく頷く。
 それから、満足そうに笑った。
「だろ、そうだろ? ここの油揚げは最高だ。ていうか、おまえなかなか舌が肥えてるな。さすがは、この俺の女だ」
 ご機嫌でそう言って割り箸を割り、先生もいなり寿司を口に運んだ。
 妙なことで褒められた和奏だったが、今まで見たことないくらい嬉しそうな先生の姿に小さく微笑みを浮かべる。
 妖怪って、思ったよりも全然怖いものではないのかもしれない。
 美味しそうにきつねうどんといなり寿司を食べる雨京先生の姿を見つめ、和奏はそう思った。
 その時、雨京先生はふっと箸を止めると、ちらりと和奏に視線を向ける。
 そしてニッと悪戯っぽく笑って、言ったのだった。
「まぁ、ここのきつねうどんといなり寿司もめちゃめちゃ美味いけどよ。おまえとのキスも、なかなかのご馳走だからな」
「なっ、キ、キスってっ」
 先生の言葉に、和奏は思わずコホコホと咽る。
 それから照れたように顔を真っ赤にさせ、俯いてしまった。
 そして、思ったのだった。
 やっぱり強引な雨京先生のことが、自分は苦手だと。
 ……でも。
 でも何故か……不思議と嫌な気持ちは全然しないと、そうも同時に思ったのだった。