第一章 金色九尾



 第4話 夢のような現実

「どうして……」
 国語教室に現れた人物と雨京先生を交互に見ながら、和奏は椅子から立ち上がってもう一度そう呟く。
 現れたその人物はちらりとそんな彼女に目を向けた後、雨京先生を見据えた。
「学校内で時々感じていた強大な妖気は、貴方のものだったんですね」
「2年Dクラスの白河司紗、か。おまえ、術師だったのかよ」
 相変わらず表情を変えず、先生はふうっと嘆息する。
 和奏は状況がよく理解できていない様子で、目の前の人物・白河司紗を見つめた。
 そんな司紗の表情は、今まで見たことのない険しいものであった。
 普段の穏やかで優しい印象とは違い、緊張感に満ちたようにキリッと引き締まっている。
 和奏はいつもと違う司紗の表情を見て、思わずドキッとしてしまった。
 サラサラの黒髪に同じ色の瞳、そして和奏好みの上品な容姿。
 それに加えて、今の彼からは力強い男らしさも感じる。
 ドキドキする胸を押さえ、和奏はただ何も言えずにその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「今日、桜井さんから微かな妖気・狐の残り香を感じたんですよ。それで気になって、彼女の後を尾けてきたんです。でもまさか雨京先生が妖狐だったなんて、驚きましたよ」
 司紗はそこまで言って、ふと言葉を切る。
 それから漆黒の鋭い視線を先生に投げ、声のトーンを変えて続けた。
「先生のおっしゃる通り、僕は術師です。僕たち術師に与えられた使命が何か、お分かりですよね?」
「え……!?」
 和奏はその瞬間、驚いたように瞳を見開く。
 目の前の司紗の身体から、ぼうっと淡い輝きを放つ光を感じたからだった。
 昨日見た先生の黄金の光とは少し雰囲気は違うが、司紗の淡い光からも神秘的な力強さを感じる。
 雨京先生は面倒くさそうに色素の薄い前髪をかき上げ、切れ長の瞳を司紗に向けた。
「おまえたち術師の使命は、俺たち妖怪を滅することだろ? んで、どうする気だよ」
「桜井さんに何をしようとしてるんですか? 雨京先生」
 話題が自分のことになり、和奏は数度瞬きをした。
 本当に今日は、驚くことばかりが起こっている。
 まだ詳しいことはよく分からないが、自分が想いを寄せる白河司紗は、妖怪退治が使命の術師だという。
 その上に古典の雨京先生は、人間ではなく狐の妖怪・妖狐なのだ。
 非現実的なことが目まぐるしく展開し、和奏の頭はすっかり混乱していた。
 その時。
 雨京先生は、ふっとつり上がった瞳を和奏に向ける。
 急に彼の視線を感じて、和奏はその胸の鼓動を再び早めた。
 先生はそれから司紗に向き直り、彼の問いにようやく答える。
「何って、こいつは俺の女だ。ただそれだけだよ」
「女? 桜井さんは、普通の人よりも霊感が強いみたいですからね。憑依して、よからぬことをしようとしているんじゃないですか?」
 その司紗の言葉に、先生はムッとした表情を浮かべた。
 そして、じろっと鋭い視線を向ける。
「あ? そこら辺の雑魚妖怪と一緒にすんな。こいつに憑依しなくったってな、十分この俺は強いんだよ。術師をぶち殺すことなんて、造作もないくらいにな」
 その言葉と同時に、先生はスッと瞳を細めた。
 刹那、カアッと目を覆おうほどの眩い光が雨京先生の身体に宿る。
 ……この感覚は。
 和奏は黄金の光の眩しさに瞳を細めながら、昨日と同じ、ゾクッと全身に鳥肌が立つ感覚をおぼえる。
 司紗は開放された先生の強い妖気にさらに険しい表情を浮かべながらも、冷静に言った。
「雨京先生、桜井さんをこちらに渡してくれますか?」
「白河、おまえ誰に向かってそんな口聞いてんだ? 聞こえなかったのか、桜井和奏は俺の女だ」
 チッと舌打ちし、雨京先生は司紗の態度に気に食わない表情を浮かべる。
 司紗は先生のその返答を聞いてからふうっと呼吸を整え、ゆっくりと口を開いた。
「そうですか……じゃあ、仕方ないですね」
 そう言った後、司紗はスウッと身構える。
 その、次の瞬間だった。
「えっ!?」
 和奏は声を上げ、瞳をぱちくりとする。
 フッと司紗の姿が消えたと思った瞬間、いつの間にか自分のすぐ目の前に現れたからである。
 地を蹴って和奏の盾になるような位置を取った後、司紗は淡い光を纏った右手をザッと勢いよく雨京先生目がけて振り下ろす。
 空気を真っ二つに裂くように唸りを上げ、司紗の放った眩い光が雨京先生に襲いかかる。
 だがそんな様子に全く慌てる様子もなく、先生はスッと黄金の光を宿した掌を翳した。
 次の瞬間、カアッと翳した先生の掌が輝きを増す。
 そして司紗の繰り出した光は、先生の妖気に飲み込まれて威力を失う。
「この程度の霊気で、この俺が滅されるとでも思ってるのか? それに、俺様に喧嘩売るなんていい度胸してんじゃねーか。よっぽど早く死にたいらしいな、白河」
 和奏は司紗の背中の後ろで、目の前で起こっている光景に唖然とする。
 やはりこれは、夢なのだろうか。
 小学生や中学生が読む小説のような、そんな世界。
 だが信じられない出来事が、今実際に自分の目の前で起こっているのである。
 しかもすぐ近くには、自分を庇うように立っている司紗の姿。
 思ったよりも大きな彼の背中に、和奏はドキドキしてしまった。
 そんな和奏の心境も知らず、司紗は再び身構えて雨京先生に警戒したような視線を向けている。
 先生はそんな司紗の様子に切れ長のブラウンの瞳を細めると、それから嘆息した。
 そしてふと、こう言葉を続けたのだった。
「上等だ、その喧嘩買ってやる……と言いたいけどよ、気が変わった。ていうか、ぶっちゃけ面倒くさい。今日は話も終わったし、さっさとそいつ連れて教室に帰れ」
「え?」
 先生の思いがけない言葉に、司紗は意外な表情をする。
 雨京先生はそんな司紗に構わず、ストンと椅子に座ってペンを手に取ると、再び仕事を始めたのだった。
 先生の身体から妖気が消えたことを感じ、司紗はようやくふっと構えを解く。
 それから、背後の和奏に優しく微笑んだ。
「桜井さん、戻ろうか」
「えっ? あ……う、うん」
 自分に向けられた彼の笑顔にドキドキして顔を赤らめながらも、和奏は頷いた。
 それからちらりと雨京先生の背中に視線を向けた後、司紗に促されドアに向かう。
 ……その時だった。
「和奏」
 雨京先生がふと、彼女の名を呼ぶ。
 そのバリトンの声に、和奏は驚いたように振り返った。
 そんな和奏を見つめてニッと口元に笑みを浮かべると、先生は彼女に言ったのだった。
「さっきこの俺が言ったこと、忘れんなよ。おまえは、この俺のものなんだからな」
「……行こう、桜井さん」
 司紗は先生の言葉を聞いて立ち止まってしまった和奏に、声を掛ける。
 そんな司紗の顔を見上げてから、和奏は彼より先に国語教室を出た。
 司紗は先生にふっと鋭い視線を向けた後、彼女に数歩遅れて教室を出るとパタンとドアを閉めたのだった。
 国語教室を後にしたふたりは、自分たちの2年Dクラスの教室へ足を向ける。
 まだ呆然としたような表情で廊下を歩きながらも、和奏は先程先生に言われた言葉を思い出していた。
『俺の言うこと拒否ったら、ソッコーで祟ってやるからな。俺が来いって言ったら、すぐ来い。白と思っても、俺が黒だと言ったらおまえも黒だ。分かったな』
 そしてその後の、少し強引なキス。
 耳にかかる吐息の感覚を思い出し、和奏は恥ずかしくなってカアッと顔を赤くした。
「桜井さん、いきなりで驚いたよね。大丈夫?」
 司紗は普段通りの柔らかな表情で、優しく和奏に声をかけた。
 憧れの司紗の瞳が自分を映していることに気がつき、和奏は耳まで真っ赤にする。
 そして数回瞬きをした後、こくんと頷いた。
「え? あ、うん。大丈夫……」
 司紗は隣で慌てる和奏をじっと見つめ、何かを考えるような仕草をする。
 それから、穏やかな印象の声で言ったのだった。
「今日、一緒に昼食べようか。桜井さんと、話したいこともあるし」



 ……これは、本当に現実なのだろうか。
 人の少ない、学校の中庭。
 その中庭で、和奏は昼食用に買ったサンドイッチを手に取る。
 そして、そんな彼女の隣には。
 ずっと憧れていた彼――白河司紗がいる。
 和奏はパクッとひとくちサンドイッチを口にしながら、隣にいる司紗に目を向けた。
 漆黒を帯びるサラサラの前髪が、同じ色をしている瞳にかかっている。
 上品で整った綺麗な顔が今、自分のすぐ近くにあるのだ。
「桜井さん、落ち着いた?」
 和奏の視線に気がつき、司紗は彼女に訊いた。
 その視線にドキッとしながら、和奏は頷く。
「う、うん、ちょっと落ち着いたかも」
 そう言って和奏は、はあっと深呼吸をする。
 その後、ふと思い出したように続けて口を開いた。
「何だか驚くことばっかりだったけど……でも、さっき白河くんの身体から見えた光、すごく綺麗だったね」
「……え?」
 和奏のその言葉に、司紗は漆黒の瞳を見開く。
 そしてきょとんと小首を傾げる彼女に、再び訊いたのだった。
「桜井さん、僕の霊気が見えてたの? じゃあ、先生の妖気も?」
「あ、うん。マリちゃん……雨京先生の妖気って、あの黄金の光だよね?」
「そうだよ。それよりも、思ってた以上に霊感が強いみたいだね。どうりで、狙われるわけだよ」
 そう言ってふうっと小さく息をついた後、司紗は続ける。
「桜井さん、さっき国語教室での会話を聞いてたと思うけど、僕は妖怪を退治する霊力を持つ術師なんだ。そして雨京先生の正体は、強い妖力を操る妖狐。それは、分かるよね」
 司紗の言葉に、和奏はゆっくりと首を縦に振る。
 司紗は和奏が頷いたのを見てから、声のトーンを変えて言った。
「くれぐれも、雨京先生には気をつけて。先生が何を企んでいるかはまだ分からないけれど、先生から感じた妖気は大きかったから」
 ふっと無意識に引き締まった彼の表情を見て、和奏はおもむろに俯く。
 それから、遠慮気味に彼に訊いた。
「あのね、白河くん。白河くんは、妖怪を退治する人なんだよね? じゃあ、正体が妖狐なマリちゃんのことも……」
「僕のことは、司紗でいいよ。桜井さん」
 にっこりと和奏に微笑んでそう言ってから、司紗は言葉を切る。
 そして使命感に満ちた瞳を彼女に向け、はっきりと言ったのだった。
「術師である僕の使命は、妖怪を滅することだから」
「…………」
 強い意志を感じる彼の瞳の色に胸の鼓動を早めながらも、和奏は複雑な表情を浮かべる。
 確かに先生は妖怪で、しかも自分でも悪妖だと言っていた。
 でも……。
『おまえのこと、守ってやる』
 耳元でそう囁く、雨京先生の声。
 何故か彼のその言葉が、和奏の頭から離れないのだった。
 俯いたまま黙ってしまった和奏に、司紗は心配そうに目を向ける。
 そして、訊いた。
「桜井さん、何か先生にされなかった? 大丈夫?」
「えっ? な、何かって……」
 司紗の言葉に和奏はハッと顔を上げて、顔を赤らめる。
 先生に、されたこと。
 それは……柔らかで気持ちいい、キス。
 雨京先生と唇が重なった時の感触を思い出し、和奏は恥ずかしそうに俯いた。
 司紗はそんな彼女の様子をじっと見つめながら、何かを考えるように表情を変える。
 それからおもむろに聞こえ始めた授業5分前の予鈴に気がつき、和奏にいつも通りの笑顔を向けた。
「あ、もうすぐ昼休みも終わるみたいだね、桜井さん」
「うん。それとあの、私のことも……和奏で、いいから」
 ふと立ち上がった司紗に、和奏は一生懸命にそう口を開く。
 司紗はこくんと頷き、そして彼女に言ったのだった。
「じゃあそろそろ教室に戻ろうか、和奏ちゃん」
 和奏はそんな司紗の言葉に、照れたように頬を赤らめる。
 そしてようやくその顔に笑みを宿し、立ち上がった。
「そうだね、教室に戻ろう……司紗くん」
 嬉しそうにそう言って、和奏は彼の隣に並ぶ。
 そして、まだ信じられない様子で瞳をぱちくりさせた後、思ったのだった。
 本当にいろんなことが起こって、驚いてばかりだけど。
 今までただ見ているだけだった憧れの彼が、自分の隣で自分の名前を呼んでくれた。
 これはやはり、夢かもしれない。
 こんな幸せな気持ちになれるなんて、たとえ夢であってもいい。
 でも、お願いだから……。
 あともう少しだけ、覚めないでくださいと。