第一章 金色九尾



 第3話 俺様とキスと抱擁と

 教室を出た和奏は、雨京先生の待つ国語教室の前までやってきた。
 それから、スウッと深呼吸をしてドアをノックし、遠慮気味に開ける。
「何ボーッとしてんだ、さっさと入れ」
 入り口付近で戸惑っている和奏にそう言って、雨京先生は仕事に使っていたペンのふたをする。
 そして、クールな印象の瞳を彼女に向けた。
 和奏はそんな先生に数歩近づいたものの、どうしたらいいのか分からない表情を浮かべる。
「そこに座れ」
 そんな彼女に愛想なくそう短く言って、先生は自分の目の前の椅子を指差した。
 言われた通りの椅子に座った和奏は、おそるおそる口を開く。
「あの、先生。昨日のことなんですけど」
「昨日? ああ、おまえがこの俺の正体見たことか?」
「え? あ、はい。ていうか、正体って……」
 首を傾げてそう聞く和奏に、雨京先生は表情を変えずにすぐに答えた。
「あ? おまえ、見ただろ? 妖狐だよ、妖狐。それが、この俺の正体だ」
「妖、狐?」
 和奏は思いがけずすぐに返ってきた答えに、きょとんとする。
 そんな彼女を切れ長の瞳でちらりと見た後、先生は続けた。
「おまえ、妖狐も知らないのかよ。簡単に言えば、狐の妖怪だ」
「よっ、妖怪っ!? じゃあ、人間じゃないってこと!?」
 和奏は驚いて、思わず声を上げる。
 その言葉にはあっと大きく溜め息をつき、呆れたように雨京先生は色素の薄い前髪をかき上げた。
「だからさっきから、妖怪だって言ってんじゃねーか。だいたい、九尾の尻尾がある人間がいるか? 考えても分かるだろ」
「いや、そうだけどっ。でも、えっ?」
 完全に混乱した様子で、和奏は瞳を見開く。
 昨日の出来事が現実だと考えたら、先生が人間ではないことくらいは見て分かっていた。
 だが、あまりにもそれは現実離れしすぎていて、すぐに受け止められない。
 軽い眩暈さえ覚えながら、和奏は頭を抱えた。
 雨京先生はそんな和奏に目を向けると、おもむろに椅子から立ち上がる。
 それから、彼女のダークブラウンの髪を右手で撫で、左手で彼女の顎をくいっと持ち上げた。
 そして、ニッと口元に笑みを浮かべて言ったのだった。
「昨日も言ったけどな、おまえはこの俺の女だからな」
「え……?」
 間近に迫ってきた先生の綺麗な顔に、思わず和奏は胸の鼓動を早める。
 ドキドキという心臓の音が、彼に聞こえてしまうのではないか。
 和奏は急に照れくさくなり、ふと俯いた。
 だがそうはさせまいと、彼の左手がすぐに彼女の顎を持ち上げ、再びダークブラウンの色を帯びる和奏の瞳が綺麗な先生の容姿を映し出す。
 雨京先生はそのつり上がった瞳をふっと細め、口元に笑みを浮かべた。
 それからゆっくりと顔を彼女に近づけて、言った。
「キスする時くらい、目ぇ瞑れ」
「えっ? ん……っ」
 言葉を発しようとした和奏の唇を塞ぐように、先生は彼女に自分の唇を重ねた。
 昨日とは違い、少し強引なキス。
 和奏は驚いたように瞳を見開いたまま、抵抗することもできずに固まってしまう。
 そんな彼女の目に映るのは。
 ぼうっと淡い、金色の光。
 雨京先生の身体から、キラキラと輝く光のようなものが見える。
 彼の色素の薄いブラウンの髪が、ふわりと揺れた。
 そしてその黄金の光は和奏の身体をも包み込み、同時に不思議な心地良さを感じる。
 雨京先生は伏せていた瞳を開いてゆっくりと彼女から唇を離し、おもむろにぽんっと和奏の肩を叩いた。
 それから、ふっと瞳を細めて笑う。
「おまえって、思った以上に霊力持ってんだな。あーご馳走さん」
「……へ?」
 満足気なその先生の言葉に、和奏は表情を変えた。
 もしかして、これって。
 妖怪が人の生気を吸い取るっていう、つまりそういうことなのだろうか?
 サアッと青ざめる和奏の表情の変化に気がつき、先生は眉を顰める。
「あ? 何獲って喰われるみたいなツラしてんだよ。言っただろ、おまえは俺の女だってな。獲って喰う気なら、とっくに喰ってるってんだよ」
「とっ、獲って喰うってっ」
 物騒なことを言う先生に、和奏は警戒したように彼に目を向けた。
 雨京先生ははあっと嘆息し、突然ぐりぐりと大きな手で乱暴に彼女の頭を撫でる。
 それから自分の胸の中にその身体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめたのだった。
 いきなりのそんな先生の行動に、和奏は再び固まってしまう。
 先生のあたたかな体温を全身で感じ、カアッと体温が上昇する。
 そんな和奏の様子にも構わず、彼女を抱きしめたまま先生は耳元で言った。
「金毛九尾狐って、知ってるか?」
「金毛、九尾?」
「ああ。おまえも見ただろ? この俺の、金色の髪と九尾の尻尾。妖狐って言ってもいろんな種類があってよ、俺はその中の金毛九尾の狐なんだけどよ」
 和奏は、昨日見た先生の正体を思い出す。
 その名の通り、先生の伸びた長髪は美しい金色を帯びていた。
 そして、九本の尻尾。
 霊の類を見ることは多かったが、妖怪なんて今まで見たことがなかった。
 妖怪は伝説上だけの生き物で実在しないものだと、怖いものだと和奏は今まで思っていた。
 でも、金色に輝く彼の姿を見たあの時……不思議と、怖いという感覚はなかった。
 むしろその光は綺麗で、力強さを感じたのだった。
 先生は自分の胸の中で何かを考える彼女に目を向け、話を続ける。
「金毛九尾狐ってのはよ、人に災いをもたらすって言われてる悪妖だ。でもな、ただの悪妖とはちょっと違ってよ、信仰すれば崇むヤツを助ける幸福の存在なんだよ。だから逆に言えば、崇まないヤツには災いや不幸を及ぼすってことだ。桜井和奏、俺の言いたいことが分かるか?」
 そこまで言って、ニッと先生は口元に笑みを浮かべる。
 和奏はそう言われ、きょとんとした。
 そんな彼女に、先生は瞳を細めて言ったのだった。
「俺の言うこと拒否ったら、ソッコーで祟ってやるからな。俺が来いって言ったら、すぐ来い。白と思っても、俺が黒だと言ったらおまえも黒だ。分かったな」
「えっ!? そ、そんな」
 これって、いわゆる脅しではないか。
 有無も言わさぬ彼の言葉に何も返せず、和奏はただ瞳をぱちくりとするしかできなかった。
 それから先生は、さらに強く和奏の小さな身体を抱きしめる。
 包み込まれるようなあたたかさを感じ、和奏は思わずドキドキしてしまう。
 そして先生は、ゆっくりと耳元でこう囁いたのだった。
「俺のことを、何よりも一番に考えろ。そしたらおまえのこと、守ってやる」
「……え?」
 ふっと耳にかかる吐息に、ゾクリと鳥肌が立つ。
 和奏は今まで体験したことのない気持ち良さに、軽い眩暈を覚える。
 それから、おそるおそる彼に訊いた。
「あの、雨京先生……どうして私なんですか?」
「あ? 決めてたんだよ。最初に俺の正体見た女が、この俺の女だってな」
 そんな勝手に決めないで欲しい、と思った和奏だったが、到底言える訳はなかった。
 どう見ても、和奏の意思は彼にとってはどうでもいいことのようであるし。
 だが……こうやって抱きしめられていて、不思議と嫌な気持ちは全くない。
 相手は妖怪で、それも悪妖だというのに。
『おまえのこと、守ってやる』
 耳元で響く、先生のバリトンの声。
 力強く自分を抱きしめる彼のその言葉に、和奏はカアッと耳まで真っ赤にする。
 耳にかかる優しい吐息を思い出して、和奏は恥ずかしくなって俯いた。
 ……その時。
 雨京先生はふっと和奏から離れ、表情を険しいものへと変える。
 そしてチッと舌打ちし、鬱陶しそうに前髪をかき上げて言い放ったのだった。
「コソコソ気配消して、覗き見か? 出て来い、いるのは分かってんだよ」
「……え?」
 怖いくらいの鋭い眼光でドアを見据える先生に、和奏は小首を傾げる。
 それから、ふと先生の視線を追った。
 同時に、ガラリと国語教室のドアが開く。
 その瞬間。
「ええっ!? な、何で……!?」
 突然目の前に現れた人物の姿を見た和奏は、思わずそう声を上げずにはいられなかった。
 そして、その人物に射抜くような鋭い視線を向けている先生の顔を見つめ、瞳をぱちくりとさせたのだった。