第一章 金色九尾



 第2話 幸か不幸か

 ――次の日。
 今は、昼休み前の4時間目。
 和奏は黒板をノートに取ることも忘れ、目の前で古典の授業をする彼に目を向ける。
 そのつり上がった瞳は、相変わらず近寄り難い冷たい印象で。
 たまに、ふっと自分にそれが向けられる。
 その度に、和奏はドキッとしてしまっていた。
 雪のように白い肌は、窓から差し込める太陽の光で透き通っているかのように見える。
 女生徒に人気があるのも、彼の綺麗な顔を見たら納得なのであるが。
 だが……彼・雨京先生は、人間ではないのである。
 彼の金色の長い髪と真紅の瞳、そして九本の尻尾を思い出し、和奏は小さく首を振る。
 一体あれは、何だったのだろうか。
 夢か、はたまた幻か。
 いくら自分が霊感が強いとはいえ、こんなことは生まれて初めてで。
 どうこの信じ難い状況を整理すればいいのか、和奏は混乱していた。
 しかも、その上。
 太陽に照らされて輝いた、天気雨の降る中。
 先生の唇が、スッと自分のものと重なった。
 いわゆるそれは、キスをされてしまったということなのである。
 彼の柔らかで優しい唇の感触を思い出し、和奏はカアッと頬を赤くした。
 ドキドキと胸が鼓動を刻み、身体が熱くなる。
 はあっと大きくひとつ息を吐くと、和奏はダークブラウンの髪をそっとかき上げた。
 そして、改めてもう一度教卓の彼を見る。
 その時。
「……っ」
 ふと教壇に立つ雨京先生と、目が合った。
 先生はブラウンの瞳をスッと細め、意味深にニッと笑う。
 それから、何事もなかったかのように授業を続けた。
 和奏はそんな先生の視線に、再び胸の高鳴りを感じる。
 それに、自分に先生が言った言葉。
『今日からおまえは、この俺の女だ』
 有無を言わせぬような、彼の口調。
 いきなりそう言われたその時の和奏は、何も返せずにただ何度も瞬きをするしかできなかった。
 恋愛経験もそれほど豊富でない彼女は、先生のその言葉をどう取っていいのか分からないのである。
 素直に、そのままの意味でいいのだろうか。
 でも、そんなことを急に言われても。
 第一、ろくに雨京先生とは話をしたこともないのに。
 それに自分には……好きな人が、いる。
 そう思い直し、和奏は先生から視線を外してひとりの少年へと向けた。
 誠実そうで穏やかで、優しい印象の上品な容姿。
 真面目にノートを取っているクラスメイトの少年・白河司紗をちらりと横目で見て、和奏はほっと溜め息をつく。
 確かに、雨京先生は神秘的な雰囲気を持つ端整な美形だが。
 でも和奏の好みのタイプは、先生とは逆の穏やかな雰囲気を持つ司紗なのである。
 ……そんなことを和奏が考えているうちに。
 おもむろに終業のチャイムが鳴り始め、終礼がかけられる。
 授業が終わって席に着いた後、和奏は大きく溜め息をついた。
 その時。
「おい、桜井。桜井和奏」
 急に名前を呼ばれ、和奏は驚いたように顔を上げる。
 彼女のダークブラウンの瞳に飛び込んできたのは、真っ直ぐ自分に向けられた先生の両の目。
 そんな彼の視線にドキッとしながらも、和奏は彼を見た。
 動揺する彼女とは対称的に、雨京先生は淡々と口を開く。
「今から国語教室に来い。分かったな」
 和奏に返事をする間も与えず、それだけ言って先生はスタスタと教室を出て行った。
 きょとんとしながらも、和奏はとりあえず教科書とノートを机にしまう。
 そして、何度目か分からない溜め息をついた。
 ……その時だった。
「どうしたの、桜井さん? 何か困ったことでもあるの?」
 ふっと穏やかな声が、そう彼女に問いかける。
 和奏はその声に、ハッと顔を上げた。
 それから、耳まで真っ赤にさせて呟く。
「し、白河くんっ」
「何かあった? 何だか困っているみたいだなって思ったから」
 優しく微笑みかけるのは、あの憧れの彼・白河司紗であった。
 司紗の方から、声をかけてくれるなんて。
 信じられない状況に、和奏はただ瞳をぱちくりとさせることしかできないでいた。
 そして、ようやく何とか彼の問いに答える。
「えっ、いや……困ったことっていうか、何て言っていいのか」
 まさか、先生の正体を見てしまった上に、キスされてどうしていいか分からないなんて、言える訳がない。
 和奏自身、自分に何が起こっているのかも分からない状況なのに。
 困ったような表情をする和奏に、司紗はにっこりと上品な顔に笑顔を浮かべる。
 それから、優しく彼女に言ったのだった。
「何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってね。桜井さん」
「えっ? あ、う、うんっ。ありがとう、白河くん」
 何だか運がいいのか悪いのか、分からない。
 憧れの司紗に、心配してもらえるなんて。
 そう嬉しく思いつつ、和奏は先程雨京先生に言われたことを思い出した。
 彼はそういえば、先ほど自分に国語教室に来いと言っていた。
 どうしようかと考えた和奏だったが、昨日のことも聞きたいし、言われた通りに国語教室へ行こうと席を立つ。
 それから昼休みで賑やかな教室を出て行ったのだった。


 その後……教室から、和奏の姿が見えなくなって。
 2年Dクラスの教室で、司紗はふとその穏やかだった表情を変える。
 そして、ポツリとこう呟いたのだった。
「狐憑(きつねつき)、か? でも、それにしては……」