第一章 金色九尾



 先程まで薄暗かった視界が、パアッと明るく開けた。
 途切れた雲間から太陽が顔をみせ、再び世界を明るく照らす。
 私はふとその眩しさに瞳を細めながら、天を仰いだ。
「あの日と、同じ……」
 ――運命を変えた、あの日と同じ。
 ポツポツと青空から落ちてきた雨を頬で感じながら、私は少しずつ記憶の糸を辿る。
 第一印象は、とても綺麗だと思った。
 彼の纏う光は、強くて眩くて。
 そして天から降ってくる雨がその黄金の光と混ざり合い、キラキラと幻想的に輝いていた。
 あの時の私は、ただその場に立ち尽くすことしかできなかったけれど。
 でも、今は……。
 私はおもむろに瞳を閉じ、彼の黄金の輝きをもう一度思い出す。
 あの日――すべての始まりの時も、澄んだ青空からは黄金(きん)色に輝く天気雨が降っていた……。


 第1話 始まりは、甘い接吻


「和奏(わかな)、また明日ねっ」
 すれ違った仲の良いクラスメイトのそんな言葉に手を振り、その少女・桜井和奏(さくらい わかな)は生徒の声で賑やかな放課後の廊下を歩き出した。
 肩より少し短いダークブラウンの髪に、同じ色の瞳。
 目を引くほどではないが、幼さの残る顔は可愛らしい印象を受ける。
 学校の成績も中の上で、特にクラスでも目立つようなこともない、ごく普通の高校生。
 和奏は、そんなどこにでもいそうな17歳の少女である。
 そして。
「あっ、白河くん!」
 靴箱で偶然一緒になった少年の姿を見て、和奏はパッとその表情を変えた。
 彼女の声に、その少年・白河司紗(しらかわ つかさ)は顔を上げ、にっこりと笑みを浮かべる。
 サラサラの黒髪に、品のいい穏やかな印象の整った容姿。
 彼は成績も優秀で運動神経も抜群な、クラスの優等生である。
 司紗はパタンと靴箱を閉め、軽く手を上げて和奏に言った。
「桜井さん、また明日ね」
「あ、うんっ。またねっ」
 和奏は大きく頷き、慌てて手を振り返す。
 それから歩き出した彼の後姿を見つめ、はあっと溜め息をついた。
「白河くんと、話しちゃった……」
 交わした言葉は、ほんの僅かだったけれど。
 あれだけの会話でも、和奏の気持ちを昂ぶらせるのには十分であった。
 何を隠そう和奏は、同じクラスの彼・白河司紗に恋をしているからである。
 だが、元々大人しい彼女にとっては、何でもできる優等生の彼は高嶺の花もいいところで。
 見ているだけで、他愛もない挨拶だけで、それだけで十分だった。
 そんな憧れの司紗と挨拶が交わせて、和奏はご機嫌な様子で靴を履き替える。
 それから、校舎を出た。
 雨雲のかかっている薄暗い空からは、小雨が降っている。
 和奏は持っていた青空色の傘を差し、校門に向かって雨の中を歩き出した。
 ポツポツと傘に降る雨の音が、耳に聞こえる。
 そしてちらりと腕時計で時間を確認した、その時。
 和奏はふと足を止めて表情を変えると、突然Uターンしたのだった。
「あっ、忘れてた。図書館で借りた本の返却日、今日だった」
 そう呟いて、和奏はカバンから1冊の本を取り出す。
 それから来た道を戻り、足早に図書館へと向かう。
「あーよかった。間一髪のところで思い出して」
 和奏は本をぎゅっと抱きしめると、ホッと胸を撫で下ろす。
 そして、図書館へ向かう途中にある中庭に差し掛かった。
 さすがに雨の中庭には、人の姿は見当たらない。
 いや、見当たらないと思ったのだが……。
「……?」
 和奏はその時、ふと顔を上げて足を止めた。
 そして――次の瞬間。
「!」
 ゾクリと鳥肌が立つのを感じ、和奏は表情を変える。
「いやだな、何かいるのかな……」
 そう言ってきょろきょろと周囲を見回すと、彼女は中庭に足を踏み入れた。
 どこにでもいる、ごく普通の女子高生。
 だがそんな彼女にも、ひとつだけ普通の人よりも長けているものがあった。
 彼女は人一倍、霊感が強い体質なのである。
 金縛りは日常茶飯事、人魂や幽霊の類もすでに見慣れてしまっているほどで。
 母や祖母も霊感の強いため、どうやらその血を継いでいるらしい。
 かと言って、そんな霊たちに対して何かできるわけでもなく、ただ見えるだけなのであるが。
 それに霊と言っても、人に害を及ぼすものは極稀なので、大して普段は気にしていない。
 だが今回は、何かがいつもと違う。
 不思議とそう感じ、和奏は鳥肌の立った腕を擦りながら、歩みを進める。
 それからふと人の存在に気がつき、首を傾げた。
「あれ? あれって……マリちゃん?」
 おもむろにそう呟いて、和奏は足を止める。
 雨の中庭に傘も差さず立っているのは、ひとりの青年。 
 それは、雨京真里(うきょう まさと)という古典教師だった。
 神秘的なブラウンの瞳に色素の薄い髪、雪のように真っ白な肌。
 そのつり上がったシャープな印象の瞳は、何だか近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
 だが都会的な印象の彼の容姿は端整で、女生徒からも人気が高い。
 そして真里という名前の漢字から、生徒たちの間で彼はマリちゃんと呼ばれている。
 和奏のクラスの古典も彼が担当しているが、あまり積極的でなく大人しい彼女は、今まで事務的なことしか目の前の雨京先生と話をしたことがなかった。
 それに人気の高い先生とはいえ、穏やかで知的な和奏の想い人・白河司紗とは感じる印象も全く逆で。
 どちらかと言うと、和奏はクールで鋭い瞳を持つ雨京先生のことが正直少し苦手だった。
 それにしても、先生は雨の中庭で一体何をしているのだろうか。
 和奏はもう一度首を傾げて、雨京先生に目を向ける。
 それと同時に、ふと雲間から太陽が顔を出した。
 再び差した太陽の光が、彼の綺麗な色素の薄い髪と降り注ぐ雨粒を、キラキラと照らす。
 そして雨京先生は、ふっと天を仰いで、その切れ長の瞳をゆっくりと閉じる。
 ……その瞬間。
「!?」
 和奏は目の前の光景に、大きく瞳を見開く。
 目の前の先生から感じるのは……黄金の光。
 カアッと眩いばかりの光が目の前で弾け、和奏は思わず手で瞳を覆った。
 そして。
「ええっ!? な、なに……」
 ふっと目を開いた和奏は、唖然とその場に立ち尽くす。
 それから、まじまじと目の前の雨京先生を見つめた。
 そんな彼の姿は、和奏の知るものとは全く違うものに変わっていたのである。
 背中を流れる美しい金色の長髪に、燃ゆる炎のような真っ赤な瞳。
 そして……ピンと立った2本の耳に、九本の金色に輝く尻尾。
 彼の纏う黄金の光は、今まで感じたことのないような神々しさがあった。
 和奏は瞳を何度もぱちくりとさせ、首を小さく横に振る。
 こんなことがあって、いいのだろうか。
 目の前の雨京先生の姿は、金色の髪と真紅の瞳を持つ、まるで狐の化身か何かのようである。
 和奏は気持ちを落ち着かせるため、大きく深呼吸をして目を閉じた。
「いや、ちょっと待って。落ち着け、和奏っ。だってこんなこと、有り得ないしっ」
 自分に言い聞かせるかのように、和奏はそう呟く。
 それから、もう一度大きく息を吐いた。
 その時。
「……おい、おまえ」
 ふいに背後から声が聞こえ、和奏はハッと顔を上げて振り返る。
 そんな彼女の、すぐ目の前にいたのは。
「う、雨京先生っ!?」
 いつの間に移動したのか、和奏の目の前には雨京先生その人の姿があった。
 だがそんな先生の姿は、いつもの見慣れた彼のものである。
 自分を見つめる彼のつり上がったブラウンの瞳を見て、やっぱりさっきのは見間違いだったんだと、和奏はホッと胸を撫で下ろす。
 だが、次の瞬間。
 クールな印象を受ける瞳を和奏に向けた先生は、慌てることもなくこう言ったのだった。
「おまえ、見たな? この俺の正体」
「えっ!? しょ、正体ってっ」
 驚いたような表情を浮かべる彼女の様子を気にすることなく、雨京先生は和奏をじろじろと見つめる。
 そして、独り言のようにブツブツと呟いた。
「2年Dクラスの桜井和奏か。普通よりも、少し霊感強いヤツだなとは前から思ってたけどな。ま、いいだろう」
 納得したように頷き、雨京先生は改めて和奏の顔にふっと目を向けた。
 その彼の切れ長の神秘的な瞳に、和奏は思わずドキッとする。
 真っ白な肌は透き通るようで、つり上がったシャープな目は魅力的な色を湛えている。
 鼓動の早くなった胸を手でぎゅっと押さえ、和奏は何だか照れくさくなり、先生から視線を外して俯いてしまった。
 そんな和奏に向かって、雨京先生はゆっくりと口を開く。
「おい、顔上げろ」
 急にそう言われ、和奏は小首を傾げながらもおそるおそる顔を上げた。
 ――その時だった。
「え……っ!?」
 綺麗な先生の顔が、すぐ近くまで近づいてきたかと思った瞬間。
 ふわりと柔らかな感触が、唇を覆う。
 彼の唇が……自分のものと、ひとつに重なったのだった。
 和奏は突然の出来事に、瞳を見開いて唖然とする。
 彼の唇の感触を感じながらも、和奏は一生懸命状況を整理してみる。
 先生に言われるまま顔を上げたら、その綺麗な顔が近づいてきて。
 そして彼の唇が、自分の唇と重なり合って。
 ということは、要するに今……雨京先生と、キスをしているわけで。
「……っ」
 そう考えた途端、カアッと和奏は、急激に自分の体温が上がったのを感じた。
 ふっと手から離れた青空色の傘が、ゆっくりと地面に落ちる。
 はらはらとその身に降り注ぐ天気雨が、火照った身体にひやりとした気持ち良さを与えた。
 そして、羽のような優しいキスの後。
 雨京先生は色素の薄い髪をかき上げ、ニッと口元に笑みを浮かべた。
 それから、まだ呆然としている和奏に言ったのだった。
「今日からおまえは、この俺の女だ」