黄金の天気雨・番外編 「恋妃」
――宴が終わった後、満月の夜。
その少女は小間使いとして遣われ、シンと夜の帳が下りた京の都を早足で歩いていた。
少女も一員である白拍子の一行は今まで、各所の村や町を転々と回っていたが。
今回、京の偉い貴族に偶然目をとめてもらった。
もちろん、目にとまったのは舞を舞う花形白拍子の彼女なのであるが。
田舎の白拍子一団が偉い貴族と繋がりを待てるかもしれないという、千載一遇の機会が巡ってきたのだ。
あわよくば、もっと身分の高い貴族の目に留まるかも知れない。
一行もそういつも以上に気合が入っていたが、それはまだ見習いであるこの少女も一緒だった。
だが、自分が貴族に取り入ろうなどとは思っていなかった。
一行の花形である白拍子の彼女が認められれば、一緒に頑張ってきた自分はそれで嬉しい。
花形白拍子である彼女には、それだけの華と人を惹きつける美しさがあるのだから。
逆に自分は、特にこれといって特出したものがあるわけではない。
白拍子の見習いである立場上、やはり美しく華やかに舞いたいという気持ちは強いが。
自分には、そんな技術も容姿も魅力もない。
それが、この少女にはよく分かっていた。
だがそれに関して、決して悲観的になどはなっていなかった。
彼女にとっては花形白拍子を影で支え、自分は好きな舞を楽しく舞えればそれだけで十分であったのである。
大勢の拍手喝采を浴びたい気持ちももちろんあるが、少女はゆっくりとひとつひとつの動作を大切に丁寧に舞うことが好きだった。
そんな舞と同じように、彼女は見た目も性格も穏やかで柔らかな印象を持っていた。
派手さはないが、不思議と人を癒すような、そんな雰囲気を醸し出している。
彼女自身は……そんな自分の魅力に、気がついていなかったのであるが。
月明かりの照らす京の都を、少女は一行の泊まっている宿屋へと急ぐ。
彼女の髪がそのたびに小さく揺れ、月光を浴びて薄っすらと淡い輝きを放っていた。
――その時だった。
少女はピタリと足を止め、数度瞳をぱちくりとさせる。
それから、ほうっと思わず溜め息をついてしまった。
そんな彼女の目の前に、いつの間にか現れたのは……ひとりの人物。
年は少女よりも少し年上の、17,8といったところか。
身なりからして、京の貴族であることが分かるのだが。
それより何よりも、何て綺麗なんだろう。
少女はひと目その人物を見て、そう思わずにはいられなかったのである。
その容姿は端正で美しく、神秘的な切れ長の瞳がとても印象的で。
長い睫毛がふわりと薄茶色を帯びる両の目にかかっている。
そして雪のような真っ白な肌は、まるで月の光に透けているかのような儚さと、そして生命力に溢れた強さを同時に持っていた。
少女はそんな貴族の少年に、ただじっと見惚れてしまっていた。
……その時。
「そこのおまえ、名は?」
愛想のカケラもない表情で、少年がそう彼女に訊く。
少女は突然訊かれて少し驚きながらも、おそるおそる答えた。
「私は、白拍子の見習いの若菜と申します。貴方様は……」
若菜と言ったその少女は小さく首を傾げ、その少年・雨京に訊き返す。
だが雨京は彼女の問いを無視し、こう言葉を続けたのだった。
「おまえ。ここで今すぐ、この俺のためだけに舞を舞え」
「……え?」
若菜はさらに瞳を見開き、どうしていいか分からない表情をする。
いきなり現れたかと思うと、ここですぐに舞を舞えだなんて。
若菜は何度も瞳を瞬きさせながらも、彼に言った。
「あの、舞うのは構わないのですが、私なんかでよろしいのでしょうか? 貴方様は貴族様でいらっしゃいますよね、私のような見習いの舞で満足いただけるか……それに今、このような身なりですし……」
「聞こえなかったか? この俺様が今ここで舞えと、おまえに言っているんだ」
有無を言わせぬ、威圧的な口調。
だが、まだ戸惑いながらも、若菜は素直に彼の言うことに従うことにした。
そして月明かりの照らす中、ゆっくりと舞を舞い始めたのだった。
外見と同じく、その舞いは決して派手なものではない。
派手で煌びやかなものを好む貴族たちは、きっと彼女の舞を見てもつまらぬと言うだろう。
だが彼女から受ける印象は非常にたおやかで女性らしく、柔らかなものであった。
まるで雲間から差し込める月光のように、その雰囲気は淡く優しい光を宿している。
雨京は切れ長のブラウンの瞳で、そんな彼女の舞を黙って見つめていた。
そして……数分後。
一通り舞い終えた若菜は、おそるおそる彼に視線を向ける。
そんな彼の表情に、相変わらず変化はない。
自分はまだ未熟な見習い白拍子だし、何よりも小間使いに出た帰りであるために格好もみすぼらしい。
やはり、自分の舞はお気に召さなかったのだろうか。
何も言わない雨京の様子に、若菜は申し訳なさそうに俯いた。
だが、その時だった。
「おまえ、若菜と言ったな」
静かな夜の静寂を破るように、そう低い響きの声が彼から発せられる。
「えっ? あ、はい」
若菜は慌てて顔を上げ、雨京の言葉に大きく頷いた。
そんな彼女を見て瞳を細めた後、雨京はこう言ったのだった。
「おまえが京にいる間、毎晩この俺様のためだけに舞を舞え。分かったな」
「……え?」
思わぬ雨京の言葉に、若菜は思わずきょとんとしてしまう。
雨京は数歩近づき、スッと彼女の頬に大きな手を添える。
それからニッと綺麗な顔に笑みを宿し、わざと吐息をかけるように彼女の耳元で囁いた。
「聞こえなかったか? 毎晩、俺様の前で舞を舞えって言ってるんだよ。それとも何だ、さっきの舞の褒美でも欲しいのか?」
耳をくすぐる彼の言葉に、若菜は思わず顔を真っ赤にさせる。
そしてふっと視線を上げた、その瞬間。
「! ん……っ」
若菜は大きく瞳を見開き、驚いたような表情を浮かべた。
彼の柔らかな唇が――自分のものと重なったからである。
キスを落とされた唇が途端に潤いを増し、身体の芯がカアッと熱を帯び始めるのを感じる。
そして恥ずかしさと気持ち良さが同時にこみ上げ、若菜は動くことができずに彼のキスをただ受け入れることしかできなかったのだった。
それから雨京は余韻を持たせるようにゆっくり唇を離すと、まだ呆然としている彼女の顎をくいっと持ち上げた。
若菜は真っ直ぐに自分に向けられているそのブラウンの瞳に、さらに胸の鼓動を早める。
そんな耳まで真っ赤にさせている彼女とは対称的に、雨京は相変わらず淡々としたように口を開く。
「都の北の外れに、小さな稲荷神社がある。毎晩そこに来い。分かったな」
それだけ言うなり、雨京はくるりと若菜に背を向けて歩き出す。
若菜はそんな彼の後姿を、ただ何も言わずに見つめることしかできなかった。
それにしても、毎晩舞を舞えだなんて。
自分の舞を彼が気に入ってくれたということなのだろうか。
でもどうして、よりによって見習いの自分なのか。
自分よりももっと美しく綺麗に舞を舞える白拍子はたくさんいるのに。
そう疑問に思いつつ、若菜は狐につままれたような表情を浮かべる。
そしてふと彼から与えられたキスの感触を思い出し、再び顔を真っ赤にさせて俯いたのだった。
――それから、数日。
若菜は雨京に言われた通り、毎晩白拍子の見習いとしての仕事が終わってから都の外れの稲荷神社に赴き、彼のためだけに舞を披露した。
彼は神社の境内に背中を預けたまま、そんな彼女の姿を見つめていた。
賛美の言葉も不満の言葉もなく、ただじっと黙って。
最初はそんな彼の様子に、自分の舞を見てどう思っているのかと不安だった若菜だったが。
日が経つにつれ、そんなことはどうでもよくなっていた。
彼の前で、彼のためだけに好きな舞を舞うことができる。
いつの間にかそのことが、若菜にとって嬉しく感じるようになっていたのである。
そして――必ず、舞った後に与えられるもの。
「っ、雨京様……っ」
強引に身体を引き寄せられた後、彼のキスが容赦なく唇に落とされる。
程なくスルリと難なく侵入する舌に、若菜は眩暈さえ覚えた。
淡い光を宿す月光が、そんな彼女の火照った横顔をほのかに照らす。
雨京は若菜の唇にスッと指を這わせて再びキスを与えた後、彼女の髪を大きな手で梳いた。
このまま、時が止まってしまえばいい。
若菜は彼の大きな手の感触に幸せそうに微笑みながらも、日を追うごとにそう強く感じていたのだった。
――その理由は。
「…………」
若菜は喉まで出かかった言葉を、グッと飲み込む。
それから雨京に視線を向け、ペコリと頭を下げた。
「では雨京様、今宵はこれで失礼します」
それだけ言うなり、若菜は彼に背を向けて歩き出す。
そんな彼女を特に止めることもなく、雨京は黙ってその後姿を見送った。
それから空に浮かぶ月を見上げ、ブラウンの瞳を細める。
だが――次の瞬間。
ふと表情を変えて視線を別の場所へ向けると、雨京は途端に眉を顰める。
そんな、彼の両の目に映っているのは。
月の光さえもぼやけてしまうほどの、神々しく眩い光。
その光は次第に形を成していき、人型へと変化する。
雨京は目の前に現れた人物をちらりと見て、気に食わないような声で言った。
「何だ、何か用か?」
「今晩も月が綺麗だねぇ、雨京」
ふふっと楽しそうに笑い、現れた人物・聖は風に揺れる髪をそっと触る。
それから、息子である彼にこう訊いたのだった。
「ていうか、いいの? もう数日後には彼女たち、京を離れるんでしょ?」
「……俺には関係ねぇよ」
父から視線を外し、雨京はぽつりとそう言葉を返す。
聖は息子の様子に小さく首を傾げた後、再び口を開いた。
「まぁ関係ないっていえば関係ないけど。でもあの雨京お気に入りの若菜ちゃんって子、このまま行かせてもいいのかなー?」
「あ? ガタガタうるせーんだよ、黙れ」
じろっと睨み付けるように視線を投げ、雨京は鬱陶しそうに前髪をかき上げる。
聖の言う通り、若菜も一員である白拍子一行は、数日後に京を離れることになっていた。
最初は物珍しく重宝され、宴にも引っ張りだこの白拍子だったが。
流行り廃りの激しい京の都で、ずっと貴族たちの興味をひきつけておくことはそう容易ではなかったのである。
次第に貴族たちの関心も薄れ始めたために宴への声も掛からなくなり、ついに白拍子一行は京を離れることを決意したのだった。
もちろん、その一行の一員である若菜も一緒に京を離れることになる。
だが雨京も若菜も、そのことについては一切話をしていなかった。
このまま京にとどまりたいとも、京にいろとも……お互い、言い出せなかったのである。
聖はふっと笑みを宿し、言った。
「一緒にいたいなら、そう素直に言ったらいいのに。別にお互いが惹かれあったならいいんじゃないの、人間と妖怪でも」
「人間と妖怪でもいいだと? 人間と俺たち妖怪は、あまりにも生きる時間が違いすぎる。それにあいつは、俺が妖狐だと知らないんだぞ」
「だから、何なの? 別にいいじゃない。現に僕だって人間のお嫁さんを貰って、可愛い息子まで授かってる。確かに人間と妖怪は寿命の長さは違うけど、僕はそれでも幸せだったよ」
「おまえと俺は違うんだ。これ以上ガタガタ言うと、ぶっ殺すぞ」
もう話すことはないと言わんばかりに、雨京は威圧的な声でそう一方的に言い放つ。
聖は仕方ないようにふっと嘆息した後、その身体に淡い妖気の光を纏う。
そして空気に溶けるかのように妖狐体に変化し、言った。
「まぁ、君がいいんならいいんだけど。もっと気楽に考えて長い人生楽しまなきゃ損だよ、雨京」
それだけ言うなり、眩い光を放つ黄金の神獣は夜の空を翔けていく。
雨京はブラウンの瞳を細め、チッと舌打ちをした。
そして、何かを考えるように目を伏せる。
――人間である母親が天に召されたのは、自分がまだ幼い頃。
母は自由気ままな父親にとても従順で、何より控えめな女性だった。
だがそんな母も、流行り病にかかってすぐに死んでしまった。
その時、人間とは何と脆くて儚い存在なのだろうかと。
それに比べて自分は、一体あとどのくらい生きるのか。
雨京はそう幼いながらに感じたのである。
そして、よくそんな人間と一緒になろうと思ったなと、父の思考が不思議でならなかった。
人間の一生なんて自分たちと比べればあっという間のものであるし、第一惚れただのどうだのと面倒この上ない。
そんな手間をかける価値のある女もいないし、ひとりでいた方が余程煩わしくない。
ついこの間までは……そう、思っていたのだが。
「…………」
雨京はふっと小さく嘆息すると、神社の境内に背を預ける。
そして風に揺れる髪をかき上げた後、自分を静かに照らす月の姿をその綺麗な瞳に映した。
それからもう一度舌打ちし、ザッとブラウンの髪をかき上げたのだった。