4-5.お人好し同士



 校舎の窓から見上げる空は爽やかな青をしていて。
 梅雨空から夏空へと、その表情を変えようとしている。
 まだそれほど暑くもなく、開け放った窓を通り抜ける風が気持ち良い季節。
 梅雨と同時に憂鬱な学期末試験も終わった今、生徒たちは目前に迫った夏休みに心躍らせていた。
 そんな、開放感に満ちた放課後。
 用事を済ませて職員室を出た美央と聖子は、楽しそうに雑談を交わしながら、教室へ戻るべく進路を取る。
 そして階段に差し掛かった、その時だった。
「おっ! 俺の女神、発見っ」
 突然頭上から降ってきたそんな言葉に、ふたりは足を止めて視線を上げる。
 美央はわざとらしく溜め息をつくと、足早に階段を駆け下りてくる彼に言った。
「あんたのストーカーには慣れてるけど。公衆の面前で、あまり恥ずかしいこと言わないでよね」
「まーまー、今更大丈夫だって、美央。なんてったって俺は、誰もが認めるおまえの公認ストーカーだからな」
 わははっと暢気に笑う彼・塚田憲二の様子に、美央はもう一度嘆息する。
「そーいう問題じゃないわよ、全く」
「その堂々たる開き直り様、ある意味天晴れね。それで、貴方の女神に、何かご用があるようだけど?」
 聖子は漆黒の瞳を細め、小さく首を傾けた。
 憲二の言動から、彼が美央のことを探していたようであったためである。
 そして憲二の気持ちを知っている聖子は、必要であるならば、気を利かせて自分は退散しようと。
 そう思い、彼の様子を窺ったが。
 どうやら憲二の反応からして、このまま美央と一緒にいても何ら問題なさそうである。
 憲二は聖子の言葉に頷いた後、ポケットからあるものを取り出す。
 それからそれを、美央に差し出した。
「じゃーん、これ何だと思う? 正解は、映画のペアチケットでしたーっ」
「てか、正解言うの、早っ」
 絶妙なタイミングでツッコミを入れてから、美央は綺麗な顔に笑みを宿す。
 彼が手に持っているのは、人気恋愛小説が原作で今話題の、映画鑑賞券であった。
 そして、この流れからして。
 憲二が意中の美央を映画に誘う気らしいと、誰もが予想するだろう。
 現に美央と聖子も、そう思ったのだったが。
 次に彼の口から出た言葉は、意外なものであったのだった。
「んで、このチケットだけど。せっかく2枚あるからさ、航星誘って観て来たらどうだ?」
「……え?」
 憲二の思いがけない提案に、美央はきょとんとする。
 そして数度瞬きをしつつ、彼に訊いた。
「でも、あんたは? 憲二のチケットでしょ?」
「ああ、俺もこれタダでもらったんだ。それにこーいう恋愛映画とか、俺っぽくないだろ? だからさ、気にせずあいつと行って来いよ」
 ハンサムな顔に笑顔を宿し、憲二は美央にチケットを手渡す。
 美央はそっと憲二からチケットを受け取ると、何かを考える仕草をした。
 自分に対する憲二の気持ちは、美央なりに知っている。
 普段は軽い口調で三枚目の印象が強い彼であるが。
 だが、本当に自分のことを大切に考え、好きでいてくれているのだと。
 そのことが伝わってくるし、逆に憲二のそういう気持ちが、美央にはよく分かるのだった。
 自分も逆の立場に立ったら……同じようなタイプだからである。
 美央はふと顔を上げて憲二に微笑む。
「ありがとう、憲二。その気持ちは本当に嬉しいよ」
 それから意を決したように、こう続けたのだった。
「でもこのチケット、2枚とも会長にあげていい? 琴実を誘ってみたらって、言ってみるよ」
「えっ?」
 今度は憲二が驚いたような表情をし、美央を見つめる。
 だがすぐに彼女の心境を察し、優しく頷いた。
「ああ。それは2枚とも美央にやるから、あとは好きにしてくれていいけど……でも本当に、それでいいのか?」
「うん。会長とふたりで恋愛映画なんて柄でもないし、どうしていいか分からないしね。それにこの間、竜星が琴実とデートしたんでしょ? 会長も琴実も映画好きだし、いいきっかけになるかなって」
「…………」
 聖子は敢えて何も言わず、親友の横顔を黙って見守っている。
 美央はちらりと時計を見てから、何気に心配そうに自分を見ているふたりに、笑顔で言った。
「あ、今だったら会長、生徒会室にいると思うから、早速渡してくるね。じゃあ憲二、ありがとっ」
 美央はくるりと方向転換をし、足早に生徒会室へと向かう。
 憲二と聖子はそんな美央のことを止めることなく、彼女の背中を見送った。
 そして、その姿が見えなくなって。
「どこまでお人好しなんだよ、美央のやつ」
 ふっと息をつき、ぽつりと憲二は言った。
 そんな彼の言葉に、聖子は小さく笑う。
「それは貴方もでしょう? 本当にお人好しなんだから」
「うーん、でもまさか美央が、ああ出るとは思わなかったな」
「貴方たち、何気に考え方が似ているもの。それに竜星くんが先日、琴実とデートしたばかりだしね」
 相手のことを本当に心から好きだからこそ、その恋を応援してあげたい。
 それが、憲二や美央の恋愛スタイル。
 人の気持ちや恋愛に対する考え方は千差万別で、正解や不正解などはない。
 だが……憲二や美央のような思考は、恋愛においては損をするタイプである。
 複雑なそれぞれの恋愛模様に口を出すような野暮なことこそしないが。
 聖子は友人として、そんな彼女らのことが密かに心配なのであった。
 とはいえ、結局は本人の意思に任せるしかない。
 自分にできることは、友人らの恋の行く末を見守り、必要とされるのならば少しだけ手を差し伸べるくらいである。
 聖子はいつにもなく真剣な表情で美央の去った方向を見つめている憲二を、ふと見上げた。
 そして彼の背中をぽんっと労うように軽く叩き、ひとり教室へと歩き始めたのだった。


 生徒会室に辿り着いた美央は、“在室”のプレートがドアに掛かっていることを確認し、軽くノックをする。
 そして一度大きく息を吐いた後、ドアを開けた。
 分厚いファイルに目を通していた彼の漆黒の瞳が、一瞬美央に向けられる。
 美央はそんな彼・航星に小さく微笑んでから自分の席へと着き、彼の邪魔をしないよう、次回の会議の議案に何気に目を向けた。
 自分の恋心よりも、航星の恋を精一杯応援したい。
 そう思っている美央ではあるが。
 やはり、密かに想いを寄せる航星とふたりだけのこの空間は、特別で。
 何も彼と言葉を交わさなくても、この空気だけで幸せな気持ちになるのだった。
 ……そして、しばらくして。
「あ、会長」
 航星がファイルを見終わって棚に片付けたタイミングを見計らい、美央はさり気なく彼に声を掛ける。
 航星は再び黒を帯びる瞳を彼女へと向けた。
 すかさず美央は、憲二から貰った映画のチケットを机に置く。
 それから、こう言ったのだった。
「映画のチケットがあるんだけど、会長行かない? 2枚あるから、琴実誘ってさ」
「映画? 夏川と?」
 航星は少し興味を持ったように、置かれたチケットをふと手にする。
 美央は彼の反応を見ながら、明るい声で続ける。
「うん。せっかくだから、琴実誘っちゃいなよ。恋愛映画を竜星と観るのもなんでしょ?」
「恋愛映画を竜星と……それは確かに、勘弁して欲しいな」
 美央の言葉に苦笑しながらも、航星はチケットに目を落とす。
 それから少し考えた後、顔を上げて口を開いた。
「このチケット、貰ってもいいのか?」
「うん、もちろん。それさ、タダで貰ったのはいいんだけど余っちゃって、誰か貰ってくれないかなーって思ってたところだから。琴実も映画好きだし、一緒に行って来たら?」
 彼が遠慮しないようについた、小さなウソ。
 自分と航星のためにこのチケットをくれた憲二には、本当に申し訳ないと思いつつも。
「……そうだな。有難くいただくよ」
 普段あまり見せることのない、航星の柔らかな表情。
 そんな彼の顔を目の当たりにすると、やはりこの選択でよかったのだと。
 美央は自分にそう言い聞かせる。
 そして綺麗な顔に微笑みを作り、そっとしなやかな長い髪をかき上げたのだった。