柔らかく照る太陽と爽やかな青空が広がる、春の陽気。
 眞姫は、優しく栗色の髪を揺らす生ぬるい風に瞳を細める。
 そして隣を歩く少年・健人に目を向けた。
「晴れてよかったね、今の時期なら桜もきっと綺麗だよ」
「ああ。雨が降らなくてよかったな」
 楽しそうに笑う眞姫の姿を見て、健人も嬉しそうにブルーアイを細める。
 ――春休みの、3月下旬。
 映画研究部員のメンバーはこの日、眞姫の提案でお花見をしようということになっていた。
 ポピュラーな桜の名所だと人も混雑しており場所取りなどもしなければいけないので、場所は穴場である学校の近くの公園である。
 それぞれ住んでいる場所もバラバラであるために、集合は現地にしている。
 眞姫は、家が近くの健人と一緒に桜の咲く公園へと向かっている途中だった。
 ここ数日は暖かい日が続いており、桜もほぼ満開に近い。
 眞姫はブラウンの大きな瞳を腕時計へと向けた。
 時間は、もうすぐ正午である。
「着いたらちょうどお昼だね。お弁当たくさん作ってきたけど、足りるかな?」
 うーんと小首を傾げる眞姫を見つめ、健人は嬉しそうに言った。
「人数多いから作るの大変だっただろう? 姫は見かけによらず料理上手いから、楽しみにしてるよ」
「見かけによらずって、もーうっ。そんなこと言うなら、健人にはお弁当あげないわよ?」
「料理上手いって褒めてるんだぞ、姫」
 むうっとした表情の眞姫の様子に微笑んで、健人は金色に近いブラウンの髪をかき上げる。
 そんな健人を上目遣いで見てから、眞姫も笑顔を浮かべた。
「すごく楽しいよ、みんなのお弁当作るのって。作り甲斐があるんだ。みんな美味しそうに食べてくれるでしょ?」
 以前、夏合宿の際に一度少年たちのために手作り弁当を作った眞姫であるが、その時も少年たちはきれいに完食したのだった。
 それはもちろん、眞姫の料理が美味しかったということもあるのだが。
 愛しのお姫様の手作り料理を、少年たちが少したりとも残すはずはないのである。
「姫の料理は美味いからな。特に玉子焼きの甘さが控えめで、ちょうどいいんだ」
 健人はぽんっと眞姫の頭に手を添えて瞳を細める。
「あ、今日も玉子焼き入れてきたよ。玉子焼きって家庭によって甘さも味も違うでしょ? だからどうかなって心配だったんだけど、そう言ってもらえてよかったぁっ」
 嬉しそうな表情をして眞姫は満面の笑顔を浮かべた。
 健人はそんな眞姫の様子を満足そうに見つめる。
 それから、眞姫に聞こえない程度の小声で呟いた。
「姫の料理を毎日食べられたら、幸せだろうな……」
「え? なぁに、健人?」
 その声が聞こえなかった眞姫は、不思議そうな顔をして首を傾げる。
 そんな眞姫の問いには答えずに微笑みを向け、それから健人は顔を上げた。
 眞姫もつられて顔を上げ、そしてパッと明るく表情を変える。
「おっ、お姫様のご到着やなぁっ。ささっ、お姫様はハンサムくんの隣の特等席にどうぞっ」
 眞姫と健人の姿を見つけ、祥太郎はハンサムな顔に笑みを浮かべる。
「おはよう、姫に健人。これで全員が揃ったね」
 時計をちらりと見て、准はメンバー全員を見回した。
「お姫様、見てごらん? 王子とお姫様の再会を桜の妖精たちも喜んでいるよ」
 ひらひらと舞う桜の花びらをそっと手に取り、詩音は満足そうに笑う。
「よぉ、姫っ。姫が来るの待ってたぜっ」
 はしゃいだように手をぶんぶんと振り、拓巳は嬉しそうに瞳を細めた。
 健人はそんな拓巳にブルーアイを向け、意外そうに言った。
「珍しいこともあるもんだな、拓巳が集合時間に来てるなんて。明日は雨か?」
「うるせーなっ。今日遅れてみろ、姫の手作り弁当おまえらに全部食われてるだろ?」
「今日に限ったことじゃなくて、いつも待ち合わせ時間に遅れないように努力してよね」
 じろっと横目で拓巳を見て、准は大きく溜め息をつく。
 そんな様子を見て笑って、祥太郎は言った。
「まぁまぁ、全員揃ったことやし。楽しく始めようや」
「そうだね。お姫様と王子と桜の妖精たちの、宴の始まりだね」
 ふふっと笑ってそう言う詩音に、祥太郎は苦笑する。
「それってもしかして、思いっきり俺たちの存在無視か? 王子様」
「そんなことはないよ。騎士たちは騎士たちで、楽しくやってもらっても構わないよ」
「王子様には敵わんなぁ。ま、お姫様もとりあえず座った座ったっ」
 にっこりと悪びれなく微笑みを絶やさない詩音にはあっと嘆息した後、祥太郎は用意していた座布団をぽんぽんっと叩いた。
 眞姫は言われた通りに靴を脱ぎ、すでにお花見の準備万全であるシートに座る。
 祥太郎はそんな眞姫に缶ジュースを手渡した後、准を見てニッと笑った。
「んじゃあ、いつも通り部長に仕切ってもらおうかっ」
「部長は部長でも、宴会部長は祥太郎のような気がしないでもないけどね」
 そう言いつつも全員に飲みものが渡って一通り落ち着いたのを確認し、准はコホンと小さく咳払いをした。
 それからぐるりと全員を見回し、言った。
「えっと、今日は天候にも恵まれたことだし、みんなで桜を楽しもうということで。じゃあ、乾杯!」
 准の乾杯の音頭と同時にカチンと缶ジュースの合わさる音が響き、眞姫は楽しそうに微笑む。
 それから、少しぬるめの缶ジュースのお茶をひとくち飲んだのだった。




 それから、数時間後。
「たっくーん、喉が渇いたわぁ。パシッて……もとい、買ってきてくれへん?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、祥太郎は拓巳を見た。
「何で俺が買ってこないといけねーんだよっ。ていうか、パシリかよっ」
「さっきやったババ抜きで、たっくんダントツ最下位だったやろ? 罰ゲームやで、罰ゲーム」
「んな罰ゲームあるなんて聞いてねーぞ!? ていうか、何で誰もババ引かねーんだよっ」
 チッと舌打ちする拓巳をブルーアイで見て、健人はわざとらしく嘆息する。
「おまえは単純だからバレバレなんだよ。飲み物、俺の分もな」
「あ、当然僕のも買ってきてね、拓巳」
「悪いね、騎士。王子はハーブティーがいいな」
 全員に一斉にそう言われ、拓巳は鬱陶しそうに漆黒の前髪をかきあげた。
 そして渋々立ち上がり、靴を履きながら言った。
「あー分かったよっ! 買ってくりゃいいんだろっ。ていうか詩音、ハーブティーなんてないから午後ティーで我慢しろっ」
 ぶつぶつ言いながら、拓巳は近くの自動販売機に向けて歩き始める。
 ひらひらと頭に落ちてきた桜の花びらを手に取り、拓巳はふと大きな漆黒の瞳を頭上に咲く満開に近い桜の花に向けた。
 それからふうっとひとつ嘆息し、呟いた。
「桜の花びら、か……」
 その時。
「拓巳」
 名前を呼ばれてハッと我に返り、拓巳は振り返る。
 そしてふっと微笑みを浮かべた。
「おう、姫。どうしたんだ?」
「手を洗って戻ってきてる途中に拓巳の姿見つけたから。拓巳、どこに行くの?」
 拓巳のそばにタッタッと駆け寄り、眞姫はにっこりと笑う。
 その言葉に苦笑しつつも拓巳は言った。
「さっきババ抜きしただろう? あいつら、最下位の俺に缶ジュース買って来いってパシらせやがったんだよ。あ、姫は何かいるか?」
 眞姫はうーんと考える仕草をした後、ぽんっと手を打つ。
 それから拓巳の隣に並んで言った。
「じゃあ、一緒に買いに行こうよ。ね?」
「えっ?」
 眞姫の意外な言葉に、拓巳は大きな瞳をぱちくりさせる。
 それから嬉しそうな表情を浮かべて大きく頷いた。
 そしてちらりと眞姫を見て、さらに続ける。
「じゃあよ、せっかくだからぐるっと桜でも見て回るか?」
「うん。綺麗に咲いてるしね、見て回ろうか」
 思いがけなく眞姫とふたりきりになれて、拓巳は今回だけはパシリという名の罰ゲームに感謝した。
 ふたりは桜の咲く公園をゆっくりと並んで歩き始める。
 天気の良い公園には、眞姫たち以外にもたくさんの人が花見に来ていた。
 眞姫はふと何かを見つけ、拓巳の手を引く。
「ねぇ、拓巳。あそこのベンチに座らない? 目の前が桜並木で、すっごく綺麗そうだよ」
「えっ? お、おう。綺麗そうだな、姫」
 急に感じた眞姫の指先にドキッとしつつ、拓巳は頷いた。
 ふたりは空いているベンチに座り、眼前に広がる桜並木を見つめる。
 春風が優しく吹くたびに、桜の花びらがはらはらと舞った。
 拓巳はふと、隣に座っている眞姫に視線を向けた。
 そして漆黒の瞳を細め、眞姫の髪についている桜の花びらを取ろうと手を伸ばす。
「桜の花びらがついてるぞ、姫」
「え? あ、ありがとう」
 あたたかくて大きな拓巳の手の感触を感じ、眞姫は少し照れたように微笑んだ。
 拓巳はふと桜の花を見上げ、はあっと嘆息する。
 それからゆっくりと口を開いた。
「桜ってよ、何だか見てるといろんなこと思い出しちまうんだよな……」
「いろんなこと?」
 小さく小首を傾げる眞姫に視線を戻してから、拓巳はふっと瞳を伏せて続ける。
「去年の桜の時期は入学式で姫と会えて嬉しかっただろ、それでその前の年の桜の時期は……はじめて鳴海のヤツと会ったんだ」
「鳴海先生と初めて会った時? そうなんだ、ちょうど2年前なんだね。先生と初めて会った時って、どんな感じだったの?」
 眞姫の問いに、拓巳は思わず苦笑する。
 それから再び大きく溜め息をついて言った。
「本当に最悪だったんだぜ、あいつと初めて会った時。マジで死ぬかと思ったくらいだからな」
「え?」
 拓巳のその言葉に、眞姫はきょとんとした表情を浮かべる。
 ちらりとそんな眞姫を見て、拓巳は思い出すように話をし始めた。
「あいつと初めて会った時も、今日みたいに桜が満開だったんだよ……」




 ――2年前、中学3年に進級する直前の春休み。
 暖かくポカポカしている天気とは裏腹に、拓巳の表情は何故か冴えない。
 満開に咲いた桜の花も、そんな彼の漆黒の瞳には映っていなかった。
 拓巳は、怪我で入院している同じサッカー部活の仲間のお見舞いに病院へ行った帰りであった。
 だが……結局拓巳は、その友達に会えなかったのである。
 その理由は。
『ごめん、拓巳……正直今はまだ、おまえと会うのは辛いんだ』
 この間お見舞いに行った時に言われた、その言葉。
 そう言われはしたものの仲間の怪我の具合が気になって、この日再び病院に足を運んだ拓巳であったが。
 彼の入院している病室まで行く勇気がなく、引き返してきたのである。
 ――事件は、数週間前に起こった。
 部活の練習中、拓巳がサッカー部員のひとりに怪我をさせた。
 もちろん、故意的なものではない。
 拓巳の放ったシュートを取ろうとしたキーパーが、その勢いに飛ばされてコーナーポストに激突したのだ。
 普通のシュートならば、打撲程度の怪我だったかもしれない。
 だが、思わず力の加減を考えずに全力で打った拓巳のシュートの衝撃は大きかった。
 拓巳は、普通の人間が使えない力を持つ“能力者”である。
 成長期に入って、その身体の成長と同時に体内に宿る“気”も日に日に力を増してきている。
 力の加減を考えないと、サッカーでさえも相手に怪我をさせかねない状態になっていた。
 急速に成長する“気”の制御が、この頃の拓巳には難しかった。
 そんな中、この事件は起こったのだ。
 怪我をしたキーパーは入院を余儀なくされ、最後の引退試合に出場することができなかった。
 この事件で拓巳は強く責任を感じていた。
 そして、自分がサッカーを続けていくことに疑問を感じてもいたのだった。
 サッカーに対しての気持ちの変化は、もちろんこの事件も理由のひとつであるのだが。
 自分の持つ非凡な力に、拓巳は悩んでいたのだった。
 まだ“気”の制御がままならない拓巳は、何をするにも力加減に気をつけなければいけなかった。
 それは今まで一生懸命してきたサッカーに対しても、例外なく。
 力を加減しなければいけなくなり全力でプレイできなくなった今、自分がサッカーを続ける意味があるのだろうかと拓巳は疑問に思っていたのだ。
 拓巳の中学のサッカー部はそれほど強豪ではなかったが、エースとして活躍してきた拓巳には注目が集まっていた。
 まだ中学3年になる前だったが、すでにサッカーの名門高校からスポーツ推薦の話も聞こえ始めているほどである。
 だが今の拓巳には、到底そんなことを考えられる状況ではなかった。
 自分が怪我をさせた仲間のことを考えると、喜んでなんていられないのである。
 拓巳は人の気配のない路地に入り、足を止める。
 それからポツンと置かれた自動販売機を見つけ、気を紛らわせるためにコーラを買ってぐいっと飲んだ。
 そしておもむろにその場にしゃがみ、まだ中身の残っているコーラの缶をグシャッと握りつぶす。
「くそっ! 何で俺には、こんなワケ分かんねー力があるんだよっ」
 ぐっと唇をかみ締め、拓巳は右拳をぎゅっと握り締めた。
 それと同時に、バチバチッと眩い光がその手に宿る。
 そして不安定な“気”の光の漲った拳を、おもむろに地に叩きつけた。
 ……次の瞬間。
 ドンッという衝撃音が響き、衝撃の痕が地に刻まれる。
 拓巳は握りつぶした缶を投げ捨てると、立ち上がって漆黒の前髪をかき上げた。
 そして漆黒の瞳を背後に向けて見据え、言った。
「どこの誰か知らねーけどよ……さっきから人のこと、コソコソつけてんじゃねぇぞっ」
「まだ“気”も不安定で制御できないようだが、それなりには使えるということか」
 拓巳の言葉には答えず、いつの間にか現れたその人物はそう呟く。
 拓巳はキッとその人物に視線を投げ、怪訝な顔をした。
「“気”? ていうか、この周りを取り囲んだ妙な壁みたいなのもおまえが作ったのかよ!?」
「この周囲に張られている壁は、おまえの言う通り私の張った“結界”だ。おまえも使える“気”によって作り出したものだ」
 そう答えて、その人物・鳴海将吾先生は切れ長の瞳を拓巳に向ける。
 それから大きく嘆息し、言葉を続けた。
「中途半端な力ほど、愚かなものはないな」
「……んだと?」
 ピクッとその言葉に反応を示し、拓巳はギッと鳴海先生に鋭い視線を向ける。
 先生はそんな拓巳の様子にも構わず、先生はさらに続けた。
「中途半端で使い道を知らない力ほど、人だけでなく自分までも傷つける。今のおまえのようにな」
「なっ、おまえっ!!」
 カアッと頭に血がのぼり、拓巳はグッと再び右拳を握り締める。
 そしてその拳を先生目がけて放った。
 先生はふっと切れ長の瞳を細め、それを難無くかわす。
「く……っ!!」
 攻撃を避けられて崩れた身体のバランスを立て直し、拓巳は再び拳を先生に放った。
 先生は左の掌でバシッとそれを受け止め、ブラウンの切れ長の瞳を拓巳に向ける。
 そして。
「! う、ぐっ!!」
 刹那、重い衝撃が拓巳の腹部を襲い、息ができなくなる。
 気がつけば、いつの間にか繰り出されていた先生の右の膝蹴りが絶妙の角度で入っていた。
 その衝撃に耐えられず、ずるりと拓巳の身体が地に崩れる。
 ケホケホとむせたまま立ち上がれない拓巳に視線を向け、先生は言った。
「先程のように手に漲らせた“気”で、この私を攻撃してみろ」
「かはっ……何、だと?」
 まだ立ち上がることのできない拓巳は、驚いたように視線だけを先生に向ける。
 先生は表情を変えないまま、言った。
「遠慮はいらん。それとも……怖いのか?」
「怖い、だと!? くそっ!!」
 痛む腹部を左手で庇いながら立ち上がり、そして拓巳は右手をグッと引く。
 そして、バチバチと音を立てて不安定な“気”がその手に漲る。
 まだ“気”を使い慣れていない拓巳は、手に伝わる痺れるような感触に眉を顰めた。
 それからギリッと歯を食いしばり、“気”を先生目がけて放ったのだった。
 唸りを上げて襲いかかる衝撃にも、先生は表情ひとつ変える様子はない。
 そして拓巳の放った“気”が先生を捉えんとした、その時。
 先生はスッと掌を軽く目の前に翳した。
 次の瞬間、拓巳は目の前の先生の姿に思わず目を見張る。
「なっ!?」
 先生の身体から、眩い大きな光を感じたのだった。
 それは自分の持つ非凡な力と、同じ光。
 だが自分のものとは違い、先生から感じる“気”は思わず鳥肌が立つ程に大きい。
 拓巳の放った光は一瞬にして先生の光に飲み込まれ、その衝撃が跳ね返ってくる。
「うあっ!!」
 正面から光の衝撃を受けて、拓巳の身体が吹き飛ばされる。
 壁に身体を強くぶつけ、拓巳は全身を駆け巡る痛みに表情を歪めた。
 先生はゆっくりと拓巳に近づき、そして言った。
「おまえのその力、人や自分を傷つけるためでなく、大切なものを守るために使う勇気はあるか?」
「大切なものを、守るだと? くっ、何言ってやがるっ。こんな力なんて、いらねーよっ!」
 壁にもたれながらも、拓巳はゆっくりと立ち上がった。
 肩を大きく上下させて息をし、懸命に力の入らない足を踏みしめる。
 だが、その漆黒の瞳に宿る輝きは失われていなかった。
 そんな拓巳の瞳を見て、先生は言った。
「立て。もう終わりか?」
「うるせぇっ! まだまだだっ!」
 残っている力を振り絞り、拓巳は再び拳を握り締める。
 だがそれも先生に軽々と避けられ、勢い余って無様に地に倒れた。
 拓巳はそれでも立ち上がり、再び先生へと向かっていく。
 先生は拓巳の攻撃を受け止めた後、彼に拳を叩き込んだ。
 ガッと鈍い音がし、拓巳の身体が再び地に倒れる。
 拓巳は全身の痛みに耐えながらも、霞んでいる漆黒の瞳をぐいっと手で拭った。
 仰向けで天を仰ぐ漆黒の瞳にただ映っているのは――青い空と満開の桜。
 そしてはらはらと自分に降る桜の花びらは、まるで雪のようだった。
 拓巳は溢れ出した涙を隠すように両手で瞳を覆い、クッと唇を噛み締める。
「ぐっ……くそっ!! く、そ……っ!」
 力強く噛んだ唇にじわりと血が滲み、口の中に血の味が広がった。
 心の中から悔しさが溢れ出し、漆黒の大きな瞳から涙となって流れる。
 青い空と雪のように舞う桜の花びらも、霞んでじわりと滲んでいた。
 立ち上がれないまま声を押し殺して悔し泣きする拓巳に、先生は切れ長の瞳を向けて言った。
「悔しいか? 悔しければ、私に向かって来い。そして私を見返してみろ。おまえに力を使う覚悟があればの話だがな」
「ちくしょうっ、ざけんな……っ! 言われなくても、おまえを絶対に見返してやるっ。絶対に力を自分のものにして、おまえをぎゃふんと言わせてやるっ!」
 先生はその拓巳の言葉を聞き、ふっと小さく口元に笑みを浮かべる。
 そんな先生の様子にも気がつかず、拓巳はぐいっと涙の溜まった瞳を拭う。
 悔しさでいっぱいな反面、不思議と心の中がすっきりとした感覚も何故か拓巳は感じていた。
 そして全力でぶつかっていけるものを、この時見つけた気がした。
 自分に降り積もる桜の花びらを振り払うこともせず、拓巳は目の前に広がる青い空を決意の漲った漆黒の瞳でじっと見つめたのだった。




 あの時と同じ青く澄んだ空を見つめ、拓巳は大きく溜め息をつく。
「ったく、昔からめちゃめちゃしやがってっ。鳴海のヤツ」
「何だかすごく、拓巳と鳴海先生らしいよね」
 ブラウンの瞳を細め、じっと話を聞いていた眞姫はそう言った。
「ていうか、訓練も受けてないヤツをボコボコにした上に“気”まで放つか!? くそっ、思い出しただけでムカついてきたっ」
「でもその時拓巳は、全力でぶつかれるものを見つけたんでしょう? 超えるべき目標を見つけられたんだよね」
 眞姫のその言葉に、拓巳はふと言葉を切る。
 そして視線を天に向け、青い空に舞う桜の花びらをそっと手に取った。
 それをグッと握り締めた後、拓巳は漆黒の瞳を再び眞姫に向ける。
「俺はまだまだ未熟だけどよ、いつかきっと鳴海のヤローをぎゃふんと言わせてみせるからなっ」
「うん。頑張ってね、拓巳」
 にっこりと微笑み、眞姫はこくんと頷いた。
 拓巳はそんな眞姫を見つめ、そして言葉を続ける。
「鳴海のヤツを見返すってのはもちろんだけどよ、俺はこの力で大切なものを守ろうってあの時決めたんだ。だから姫……おまえのこと、守ってやるからな」
「拓巳……」
 眞姫は拓巳の言葉を聞いて、真っ直ぐ彼に視線を向けた。
 それから嬉しそうに笑顔を浮かべ、大きく頷いた。
「うん、ありがとう。私も自分の力を使えるようになって、大切な人たちを守りたいよ。拓巳、一緒に頑張っていこうね」
 そんな眞姫にふっと微笑み、拓巳は座っていたベンチから立ち上がる。
「もうそろそろ戻るか、姫。そういえば、あいつらの缶ジュースも買わないといけねーしな」
「そうだね、戻ろうか」
 眞姫も立ち上がり、拓巳の隣に並んで歩き出す。
 拓巳は漆黒の前髪をかき上げた後、歩調を眞姫に合わせながら口を開いた。
「あ、姫の弁当めちゃめちゃ美味かったぜ。特に唐揚げの味付けが最高だな」
「本当に? よかった、そう言ってもらえたら私も嬉しいよ」
 拓巳の言葉にホッとしたように笑い、眞姫は上目遣いで隣を歩く拓巳を見つめた。
 拓巳はそんな眞姫に笑顔を向けた後ふっと天を仰ぎ、そして爽やかな春の青空に瞳を細める。
 それからふたりは、雪のように桜の花びらが舞う桜並木をゆっくりと歩き出したのだった。

 





>> 番外編「蒼天桜雪」 あとがき<<