※ 番外編を読む前に ※


 この番外編は、本編第5話まで読まれていない方にとってのネタバレが多数含まれています。

本編第5話まで読まれていない方でネタバレがイヤな方は、本編から読んでください。

また、より詳しく人物関係を知りたい方は、番外編「月の道」から読まれることをお勧めします。


尚、ネタバレがイヤな方で誤ってこの番外編を読まれた場合の苦情などは受け付けません。

どうぞそこのところご注意いただき、楽しんでいただけたら嬉しいです。






 広いトレーニングルームを支配しているのは、異様なくらいの静寂。
 そして目の前にいる、ある人物。
 ――俺には世の中で苦手な人間が、ふたりいる。
 目の前にいる人物は、そのうちのひとり。
 いつも柔らかな笑顔を絶やさず、その身は一見穏やかな空気を纏っているように見える。
 だが俺は、全身で嫌というほどに感じていた。
 ピンと張りつめる緊張に満ちた空気、そして見えない威圧感。
「さあ、始めようか。どこからでもおいで、将吾」
 物腰柔らかなその声が、一瞬にして静寂を破った。
 俺はその言葉に敢えて何も言わず、スッと構えを取る。
 あの人は俺のそんな様子を見ると、満足そうに目を細めた。
 そしてブラウンの瞳が、ふっと俺の姿を映す。
 ……刹那、全身にザワッと鳥肌が立った。
 優しげな雰囲気を持つ瞳の奥底に揺らめく、凄まじい闘気。
 この時点で、勝負はもうついている。
 そう分かってはいるが、ひくわけにはいかない。
 俺はグッと拳を握り締めると、ダンッと思い切り地を蹴った。
 俺は、分かっている。
 どう足掻いても――自分には、この人のような生き方はできないと。










 あれは、いつだっただろうか。
 確か、母さんが天に召される1年ほど前。
「将吾」
 ふと顔を上げた目に飛び込んできたのは、俺を見つめるダークブラウンの瞳。
 少しキツめの印象を受ける、母のその両の目。
 だが、俺は知っている。
 一見厳しい雰囲気を醸し出している母の瞳はとても澄んでいて、そして慈愛に満ちた優しさを隠していることを。
 ふっと無言で視線を返した俺に、母は言葉を続けた。
「将吾、普通こういうものは、母ではなく父と書くものではないのか?」
 母が見ているのは、俺の小学校の卒業アルバム。
 俺は母の言葉に、すぐにこう答えた。
「普通かどうかはともかく、俺はただ思った通りに書いただけです」
「何だい、私にも見せてくれないかな? 目標にしている人は……母? ふふ、将吾らしい答えだね」
 父は母の開いている卒業アルバムを覗き込むと、のん気にそう言って笑う。
 そんな父に呆れたように目を向け、母は溜め息をついた。
「こういうものは、普通は父と書かれて当然のものだろう? それを母と書かれて、よくのん気に笑っていられるな」
「普通も何も、将吾がそう思ったんだろう? 思ってもいないことを書くことはないよ。そうだろう? 晶」
 にっこりと紳士的な微笑みを浮かべ、父は息子の前だということを気にすることもなく、母の腰に手を回して顔を近づける。
 そんな父とは正反対に真面目な母は、その手を振り払うと切れ長の瞳で彼を睨んだ。
「こんな調子だから、息子にも目標にされないのではないのか? まったくっ」
「本当に晶は照れ屋さんだな。将吾も君に似てシャイなんだよ、晶」
 カッと照れたように頬を赤くする母と、そんな反応を楽しむかのように微笑んでいる父。
「…………」
 そんな両親を後目に、俺はふと瞳を伏せる。
 確かに俺が目標にしているのは、卒業アルバムに書いた通り父ではなく母である。
 自分の命が削られることが分かっていても尚、“浄化の巫女姫”としての使命を全うしようとする母の姿。
 神々しいまでに凛としている母の、その精神力の強さが俺の目標であった。
 だが……。
「晶、君も知っているように将吾は頭の良い子だ。将吾はちゃんと、分かっているんだよ」
 父はふっとブラウンの瞳を細め、俺の頭をぽんっと軽く叩く。
 その大きな手の感触に、俺は伏せていた目を開いた。
 優しく俺を見つめる、父のその瞳。
 何だかその柔らかな印象の瞳にすべてを見透かされているような気がして、俺は思わず視線を逸らす。
 そんな父親のことが……俺は昔から、苦手なのであった。
 そして父は、分かっているのだ。
 俺の、父親に対する気持ちを。
 尊敬していても、偉大だと思っていても――目標には、決してできないと思っていることを。
 父は雲のようにつかみ所がなく、風のように自由奔放な人だ。
 自分の気持ちに、とても素直に生きている。
 そしてそれは、俺には到底出来ない生き方である。
 妙に前向きで夢見がちな言動は時々理解できないが、そんな父の楽しそうな生き方が時々羨ましく思うこともあった。
 だが、俺には絶対に真似できない。
 それが分かっているから……尊敬はしていても、決して目標にはできないのだった。
「将吾……あまり気負わず、将吾は将吾らしい生き方をすればいい」
 俺と性格のよく似ている母は、俺の気持ちを察してか、ダークブラウンの瞳を細めてそう言った。
 父はさり気なく母の肩を抱くと、無邪気な笑顔を浮かべて俺にウインクする。
「晶と将吾は似ているからね。ふふ、不器用なところが可愛いよ、ふたりとも」
「なっ、子供の前でベタベタするなっ。それに私たちが不器用というよりも、おまえが器用すぎるだけだろうっ」
「照れなくてもいいよ、晶。それに夫婦仲睦まじいところを子供に見せるのも、親としての責務だろう?」
「何が責務だっ、それよりも父親としての威厳を少しでも見せたらどうだ?」
 はあっと嘆息し、母は顔を真っ赤にして父から視線を外す。
 見る人に厳しい印象を与える母の表情がいつも緩む、この瞬間。
 その表情を見るたび、つくづく俺は母似だと感じるのである。
 苦手だが、かけがえのない存在。
 口に出しては決して言えないことだが……俺にとっても父は、そういう存在なのである。




「……ちゃーん、なーるーちゃんっ」
「ん……由梨奈、か?」
 薄っすらと開けた瞳に飛び込んできたのは、友人である由梨奈の姿だった。
 由梨奈は俺の意識が戻ったことを確かめてふっと微笑むと、無邪気にひらひらと手を上げる。
「気がついた? おはよー、なるちゃんっ」
「俺は、一体……つっ!」
 ゆっくりと身体を起こした俺を襲ったのは、激痛。
 何故か腹部がズキズキと痛み、堪らずにケホケホと咽(むせ)て前のめりになる。
「あ、急に動いたらダメよぉっ。あーんなにモロ鳩尾を拳で打ち抜かれたんだからさぁ。今ダメージ消してあげるから」
「モロに、拳で……?」
 ダメージを癒す淡い由梨奈の“気”を見つめながら、俺は記憶の糸をゆっくりと辿る。
 そして、ようやく思い出したのだった。
 さっきまで俺は、父と体術の訓練をしていた。
 空を切る俺の攻撃の間隙を縫って放たれた、父の強烈な鳩尾への一撃。
 その攻撃をまともに受け、俺は気を失ったのである。
「おじさまって、本当にすごいわよねぇ。あんなに穏やかで紳士的なのに、戦ったらめちゃめちゃ強いんだもん」
「……あの人はああ見えて、あらゆる格闘技に精通しているからな」
 由梨奈の“気”によってダメージが消えていくのを感じながら、俺は小さく溜め息をつく。
 そんな俺の様子に気がついた由梨奈は、笑って言った。
「確かにおじさまは体術においては天才的だけど、“気”はなるちゃんの方が大きいでしょ? 今回は“気”を使わない組み手だったんだから、まぁそう落ち込まないのっ。ね?」
 由梨奈の言う通り、“浄化の巫女姫”であった母の血を受け継いでいる俺の“気”は、普通の“能力者”のものよりも大きいものがあった。
 だが……。
「たとえ“気”を用いた組み手だったとしても、まだ俺はあの人には勝てない。戦いにおいて重要なのは、力の大きさだけではないからな」
 俺は大きく首を振り、ぎゅっと唇をかみ締める。
 それから続けて、ぽつりと呟いた。
「いや……たとえいずれ力で勝てるようになったとしても、俺はいろいろな意味で一生あの人には勝てないだろうな……」
「なるちゃん……」
 俯いている俺に、由梨奈はふっと瞳を細める。
 それから気を取り直すようににっこりと笑い、バシッと乱暴に俺の肩を叩いた。
「はいっ、終わりよぉっ。ダメージ完璧に消えたでしょ? 感謝してよねー。あ、隣の部屋に慎ちゃんとおじさまいるから、私たちも行きましょうよ」
 由梨奈のその言葉に、俺はふと表情を変えた。
「杜木もいるのか?」
「うん。なるちゃんが気を失ってる時に来て、今おじさまとお茶してるわよ」 
「俺が気を失っている時って……まったく、あいつはどうしていつも時間が守れないんだ? 今日学校でも散々釘をさしておいたというのに。その上やっと訓練に来たかと思ったら、のん気に父さんとお茶か?」
 親友であり“能力者”の仲間である杜木は、訓練開始時刻にはまだトレーニングルームに姿を見せていなかった。
 あいつの気まぐれな性格をよく知ってはいるものの、私には時間に平気で遅れるという行為がどうしても理解できない。
 しかも遅刻しておいて、全く悪びれがないのである。
「やあ将吾、気がついたかい?」
 勢いよく隣の部屋のドアを開けた俺に、杜木はいつも通りの柔らかな笑顔で軽く手を上げる。
 俺はじろっと杜木に視線を向けた後、わざとらしく部屋の時計に目を移した。
「やあ、じゃない。まったく、今日の訓練時間は学校で事前に伝えておいたはずだ。どうしてそう時間にルーズなんだ、おまえは」
「そう怒るな、とりあえず座ってお茶でもしないか? おじさまの淹れる紅茶は美味しいからね」
 美形の顔に微笑みを湛え、杜木は自分の隣の椅子をポンポンと叩く。
 どんな時でも、一切杜木は自分のペースを変えない。
 俺が世の中で苦手だと感じる、もうひとりの人物。
 それが――親友でもある、この杜木なのだった。
 整った顔には、いつも物腰柔らかな優しい笑みが宿っている。
 だが、その深い漆黒の瞳は神秘的な雰囲気を持ち、カリスマ性に溢れていた。
 今、学校で俺は副生徒会長という役職に就いている。
 そしてカリスマ性をいかんなく発揮しているこの杜木が、誰でもない聖煌学園の現・生徒会長なのであった。
 頭も切れ、要領も良い器用な男。
 そういうところは、もうひとりの苦手人物・父と共通しているかもしれない。
 大きく溜め息をついて怪訝な顔をしつつ、俺は仕方なく言われた通りに杜木の隣に座る。
 それと同時に、カチャリと部屋のドアが開いた。
「おや、将吾。ちょうど君の分の紅茶を今淹れてきたところだよ」
 穏やかな声で、父はにっこりと俺に笑いかける。
 俺の前に紅茶を出した後、父はちらりと杜木を見た。
 そして俺の前に座り、ふっと笑う。
「ちょうど杜木くんと、将吾のことを話していたところだったんだ」
「なるちゃんのこと? どんなこと?」
 俺とは逆側の杜木の隣に座り、由梨奈は杜木の顔を覗き込むように聞いた。
 杜木は漆黒の瞳を俺に向け、意味ありげに微笑む。
 そして、由梨奈の問いにこう答えたのだった。
「それは秘密と言っておこうかな、由梨奈」
「秘密? えーっ、気になるーっ。おじさま、どんなこと話してたんですか?」
 今度は由梨奈は、父にそう問いかける。
 父は由梨奈に紳士的な優しい視線を投げた後、おもむろに俺にブラウンの瞳を向けた。
 それからくすっと笑い、言ったのだった。
「どんなことかって? ふふ、秘密だよ」
「…………」
 明らかにからかうような父の言動に、俺は思わず眉を顰める。
 訓練とはいえ息子を殴って気絶させた挙句、今度はこれである。
 そんな父や杜木の言動には、昔から慣れているのだが。
 はあっと大きく溜め息をつく俺に、ふたりは目を見合わせる。
 そして、言ったのだった。
「将吾といると本当に楽しいよ、いろいろ」
「将吾は私の自慢の息子だからね、可愛いだろう?」
 由梨奈はウエーブのかかった髪をふっとかき上げると、この状況を楽しんでいるかのように笑う。
「愛されてるわねぇっ、なるちゃんっ」
「全く嬉しくないぞ、由梨奈」
 はあっと大きく溜め息をつき、わざと冷めた口調で俺はそう返した。
 だが、彼らがこの程度で怯むなんてことは当然ない。
「そんなに照れなくてもいいよ、将吾」
「本当は嬉しいんだろう、将吾は。素直じゃないところも母親にそっくりだ」
「……もういい、勝手に言ってろ」
 ふいっと視線を逸らす俺を、ふたりは相変わらず穏やかな表情で見つめている。
 そんな視線を感じながら、俺は改めて思うのだった。
 やはり俺は、このふたりのことが苦手であると。
「冗談だよ、将吾。おじさまの美味しい紅茶でも飲んで、機嫌直してくれよ」
「杜木くんの言う通りだよ。お茶でも飲みながら、みんなで楽しい時間を過ごそうじゃないか」
 俺は顔を上げ、無言でじろっとふたりに視線を向ける。
 それから妙に和やかな空気にもう一度嘆息した後、父の淹れた紅茶をひとくち飲んだ。
 紅茶のいい香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
 そして口に広がった程よい濃さの紅茶の味に、俺は思わずふと瞳を細めたのだった。




 確かに俺にとって、父と杜木の言動は理解し難い。
 そんな彼らのことが、正直言うと苦手である。
 だが、苦手だと感じると同時に……大切な存在であることもまた、紛れもない事実。

 





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