※ 番外編を読む前に ※


 この番外編は、本編第5話まで読まれていない方にとってのネタバレが多数含まれています。

本編第5話まで読まれていない方でネタバレがイヤな方は、本編から読んでいただけたら幸いです。


尚、ネタバレがイヤな方で誤ってこの番外編を読まれた場合の苦情などは受け付けません。

どうぞそこのところご注意いただき、楽しんでいただけたら嬉しいです。






 ――私立・聖煌学園高校。
 職員会議が終了し、彼女は会議室から職員室へと戻っている途中であった。
 肩より少し長めのダークブラウンの髪を靡かせ、カツカツと階段を下りる。
 切れ長の瞳が近寄りがたい雰囲気を醸し出してはいるものの、いかにも聡明そうなその容姿は美しい。
 25歳とまだ教師になって間もない彼女であったが、そうは思えない程にしっかりと日々数学教師としての職務を全うしている。
 そして意思の強そうな濃い茶色の瞳は、真っ直ぐに前を見据えていた。
 その時。
 早足で階段を下りていた彼女の足が、ふいにピタリと止まる。
「こんにちは、晶(あきら)先生」
 背後から聞こえてきたその声に、晶は美人な顔に怪訝な表情を浮かべた。
 それから振り返り、切れ長の瞳を声の主に向ける。
「……鳴海君」
「晶先生、職員会議終わったんでしょう? 先生に質問があるんですけど」
 にっこりと晶に微笑んでいるのは、ひとりの少年。
 ブラウンの髪とそれと同じ色の瞳を細め、彼は数歩彼女に近づく。
 その少年の名は、鳴海秀秋(なるみ ひであき)。
 上品な顔立ちに柔らかな物腰、成績優秀で運動神経も抜群という、非の打ちどころのない優等生。
 その上、聖煌学園をはじめ都内の複数の私立学校を持つ、学校法人・観月学園の経営者の一人息子でもあった。
 そんな一見優等生の鑑である彼を、教師たちは特別な目で見ている。
 だが、彼を目の前にした晶のその表情は何故か冴えない。
 逆にわざとらしく大きく溜め息をつき、訝しげに言った。
「……質問?」
 彼は晶とは逆に楽しそうに笑い、彼女の反応を見るように視線を向ける。
 それから、口を開いたのだった。
「先生って、どんなタイプの男性が好きなんですか?」
「…………」
 やっぱり、と呟き、晶は無言で回れ右をする。
 彼がする質問は、大体この手のものであった。
 何かと彼は晶の前に現れ、そしていつも彼女を困らせるようなことを言うのである。
 ほかの先生たちは彼のことを一目置いているようであるが、晶は違っていた。
 性格的に真面目である彼女にとって、彼の言動は全く理解不能なものであった。
 ほかの生徒は見た目だけでなく完璧主義な性格の晶に近寄りがたい印象を持っているのであるが、彼は逆のようである。
 むしろ、晶の反応を見ることが楽しそうな様子なのだ。
 質問には答えず、くるりと身を翻して再び階段を下り始めた晶に、彼はくすくすと笑い出した。
「あ、待ってよ、晶先生。本当に可愛い反応するよね、先生って」
「数学の質問ならいつでも受け付けるが、それ以外はほかをあたってくれ」
「えー、僕は晶先生の好みのタイプが知りたいのに」
「えー、じゃない。大体、どうして君は私のことを下の名前で呼ぶんだ? まったくっ」
 足を止めないまま振り返り、晶は切れ長の瞳を彼に向ける。
 晶を追いかけるように階段を下り始め、彼は悪びれなくにっこりと笑った。
「だって、晶って名前が綺麗で可愛くて大好きだから。先生にぴったりだよ」
「…………」
 はあっと深く嘆息した後、晶はダークブラウンの瞳を閉じる。
 それから周囲に人の気配がないことを確認し、顔を上げた。
「そんなくだらないことはどうでもいい。それよりも、先日から幾度か学校内で感じている“邪気”の出所は掴めたのか?」
 晶のその言葉に、彼はふと表情を変える。
 それから首を横に振り、ブラウンの前髪をそっとかき上げた。
「いや、まだだよ。それよりも先生、くだらないことなんてひどいな。僕はこんなに真剣なのに」
 そんな彼の言葉を聞いて、晶は怪訝な顔をした。
 そして切れ長の瞳を細めて続ける。
「“能力者”としての仕事もそれくらい真剣に取り組んでもらいものだな。それよりも……本当に“邪気”の出所は掴めていないのか?」
「疑り深いな、そんなに僕って信用ない?」
 わざとらしく苦笑し、彼は小首を傾げた。
 晶は切れ長の瞳を彼から逸らさずに、さらに言った。
「君は“能力者”の中でも特殊な“空間能力者”だ。そんな君がまだ“邪気”の出所を掴めていないなど、普通に考えればおかしなことだろう? 一体、何をしようと考えている?」
「僕のこと信用してよ、先生。まだ“邪気”の出所は分かっていないよ。何度か校内で感じた“邪気”は小さなもので、すぐに消えたからね」
「……本当か?」
 彼の言葉を頭から信用していない様子で、晶はじろっと視線を向ける。
 そんな晶の様子にも微笑みを絶やさず、彼は笑う。
「それよりも、今度僕とデートでもしませんか? 晶先生」
「何か“邪気”に関して分かり次第、すぐに私に報告すること。くれぐれも私に無断で動かないこと。いいな」
 彼の言葉を無視してから淡々とそう言った後、晶はスタスタと階段を下りて行った。
 彼はそんな晶を敢えて追わず、背中でふわりと揺れる彼女のダークブラウンの髪を見つめる。
 それから、楽しそうに上品な顔に笑みを浮かべた。
「本当に可愛い反応するよね、晶先生って」
 そう呟き、彼はおもむろに晶とは逆に階段を上り始める。
 それから今いる職員室棟から教室のある本館へと歩きながら、表情をふと変えた。
「“邪気”の出所、か……悪いけど、晶先生には教えられないよ」
 彼は“邪”と対抗すべく特別な力“気”を操ることができる“能力者”である。
 そして彼の教師でもある晶こそ、唯一無二の強大な“正の力”を持つ“浄化の巫女姫”であった。
 普通の“能力者”と違い、“浄化の巫女姫”の能力開花には時間がかかる。
 大体二十歳程度で“浄化の巫女姫”の能力は完全に覚醒すると言われており、晶もちょうど二十歳の誕生日に能力の完全覚醒を果たした。
 だが、彼女にとって“浄化の巫女姫”として生きるということは、寿命を確実に縮めるということでもあった。
 昔から晶は、心臓が悪かった。
 日常生活を送るには支障はないが、激しい運動などをするとたまに発作が起こるのである。
 そんな晶にとって“浄化の巫女姫”の力は、身体に多大なる負担を与えるものである。
 今まで、周囲は散々晶に“浄化の巫女姫”としての宿命を放棄するようにと説得してきた。
 現世に降臨した“浄化の巫女姫”は、自分で自分の能力を封印することができる。
 現世の“浄化の巫女姫”が能力を自ら封印してその宿命を放棄したその時、次代の巫女姫が世に生まれるのである。
 次代の“浄化の巫女姫”が生まれる条件は、前代の“浄化の巫女姫”が宿命を放棄した時か、天に召された時かのどちらかの場合なのだ。
 だが晶は、自分の身体に限界があることを知っても尚、“浄化の巫女姫”として生きていくことを選択した。
 たとえその選択が命を縮めると分かっていても、自分に課せられた宿命を全うしたいとそう思ったのだった。
「……先生の身体のこと考えると、これ以上力を使わせるわけにはいかないよ」
 彼はそう呟き、ブラウンの瞳を閉じる。
 最近ごく僅かであるが、学校内で“邪気”を感じることがあった。
 もちろん“能力者”である彼も、能力覚醒を果たした“浄化の巫女姫”である晶もそれに気がついていた。
 もしもその“邪気”が“憑邪”のものである場合、憑依された人間と“邪”を引き離すには“浄化の巫女姫”だけが使える“憑邪浄化”の能力が必要である。
 普通の“能力者”には、媒体の人間ごと“邪”を消滅させる方法でしか“憑邪”を退治できないのだ。
 それでも、自分の手を汚してでも、彼は晶に“浄化の巫女姫”としての力を使って欲しくはなかった。
 彼女は真面目で責任感が強く、そして頑固な性格である。
 自分の寿命が縮まろうとも、それが使命だと割り切ることのできる女性なのだ。
 だからこそ……彼は、晶に嘘をついた。
 普通の“能力者”よりも“邪気”や“気”に敏感な“空間能力者”の彼には、学校内で感じる不穏な“邪気”の出所が誰から感じるものなのか、実はもう分かっていたのだった。
「本当に晶先生って、不器用な人なんだから……」
 ふっとブラウンの瞳を細め、そして彼は自分の教室へと足を踏み入れた。
 それから顔を上げ、まだ教室に残っているひとりの生徒の存在に気がつく。
 帰りのホームルームが終わってから結構な時間が過ぎており、廊下にも教室にも生徒の姿は疎らであった。
 そんな中、教室でひとり浮かない顔でじっと席に座っているクラスメイトに彼は話しかけた。
「どうしたんだい、毛利さん? 帰らないの?」
「あ……鳴海くん」
 そのクラスメイトは、毛利優美(もうり ゆうみ)という少女であった。
 社交的で協調性のある彼は、大体誰とでも人見知りすることなく話のできるタイプである。
 そんな彼は、優しく彼女に微笑んで言った。
「何だか顔色も良くないようだけど、大丈夫?」
「え? あ、うん。体調とかは何ともないんだけど……」
 それだけ言って優美は言葉を切る。
 それから、困ったように俯いた。
 彼は優美の様子を見て首を傾げ、再び彼女に聞いた。
「何かあったの? 僕でよければ、相談に乗るよ」
「ありがとう、鳴海くん。あのね、実はね……」
 遠慮気味にゆっくりと、彼女は口を開く。
 そしてそんな彼女の話を聞いて、彼は何かを考えるようにもう一度ブラウンの瞳をふっと細めたのだった。 



  
 ――次の日の放課後。
「どうして私が、君と一緒にお茶などしなければいけないんだ?」
「そう言わないで、晶先生。ふたりで愛を語り合いながらお茶でも飲もうよ」
 はあっと大きく嘆息する晶に、彼はにっこりと上品な微笑みを浮かべる。
 一層怪訝な顔をし、晶はじろっと切れ長の瞳を彼に向けた。
「いつも言っているはずだ、数学の質問以外は受け付けないと。数学教室まで押しかけて、どういうつもりだ?」
「どういうって、晶先生に会いたかったから」
 ストレートにそう言って二重のブラウンの瞳を自分に真っ直ぐ向ける彼に、晶は一瞬言葉を失う。
 それから彼の綺麗な顔から視線を外して気を取り直し、時計をちらりと見た。
「生憎だが、私は10分後に行われる学年会議に出席しないといけない。そのお茶を飲んだら教室に戻りなさい」
「昨日も会議だったじゃない、今日くらい行かなくていいでしょ? 一緒に愛を語り合おうよ」
「昨日は職員全体の会議で、今日は学年の会議であるため、ふたつの会議は全くの別物だ。大体、愛を語り合うなどと戯言を」
 改めて彼に視線を向け、晶は深々と溜め息をつく。
 そんな晶の様子に、彼は楽しそうに笑った。
「ふふ、ムキになって。本当に可愛いな、お姫様」
「お姫様と言うなと言っているだろう!? まったくっ」
 カアッと顔を赤くして、晶は彼を睨みつける。
 彼はくすくすと笑った後に言った。
「はいはい。あ、そろそろ会議に行かないといけないんじゃない? 残念だけど、愛のティータイムも今日はお開きかな。後片付けは僕がやっておくね。鍵はいつも通り先生の机の右の引き出しにいれておくから」
「君がどうして私の机の中の事情を知っているのか、本当に不可解だ」
 ダークブラウンの髪をかき上げ、それだけ言って晶は数学教室を出て行く。
 彼は笑顔で手を振って彼女を見送る。
 それから湯呑みを片付け、晶に遅れて数学教室を後にした。
 そんな彼の表情は……先程までのものとは、全く雰囲気が違っていた。
「先生が会議中の時がチャンスだからね」
 そう呟き、彼は早足で階段を駆け下りる。
 そして辿り着いたのは、校舎の中庭であった。
 先にその場に来ていた人物の姿を確認し、彼はふっとブラウンの瞳を細める。
「お待たせ。呼び出してごめんね」
 彼の声に、その人物は顔を上げる。
 先に中庭に来ていた人物は、がたいのしっかりした男子生徒だった。
 その男子生徒は、井上芳郎(いのうえ よしろう)という隣のクラスの少年である。
 井上は中庭に到着した彼の姿を確認し、首を傾げた。
「鳴海か、何で俺をこんなところに呼び出した?」
「んー、僕のクラスの毛利優美さんのことって言えば分かるかな?」
 彼の言葉に、井上は途端に怪訝な顔をする。
 それから睨み付けるように彼を見据え、言った。
「優美のことだと? 何でおまえが」
 険しい表情の井上とは逆に、相変わらず微笑んだまま彼は言葉を続ける。
「何でって、昨日毛利さんに相談されたんだよ。何度も断っているのに、君が付き合ってくれってしつこいって」
 そこまで言って、彼はスッとブラウンの瞳を細めた。
 そして、ゆっくりと再び口を開く。
「それでやっと分かったんだよ。彼女に対する執着心が“邪”を呼んで、“契約”を交わしたんだね」
「なっ!?」
 次の瞬間、井上はハッと顔を上げた。
 彼の掲げた右手がボウッと光を放ったかと思うと、周囲の空気がその表情を変えたのである。
 強力な“結界”を張り、彼は井上に視線を向けた。
「実は僕は“邪”を退治する“能力者”なんだよ。というわけで、“憑邪”を退治しなきゃいけないんだ」
 その言葉に、井上は薄笑いを浮かべる。
「ふっ、俺を退治するだと? 俺が空手部の主将だって知ってるだろう? その上“邪”と“契約”して大きな力を手に入れたんだぞっ」
「ああ、そうだったね。君って、この間の空手の県大会でベスト8まで進んだんだったっけ?」
 息巻く井上ににっこりと笑顔を作り、彼は余裕の表情でブラウンの前髪をかき上げる。
 そんな彼の態度を見て気に食わない顔をし、井上はチッと舌打ちをする。
「そうだっ、そんな俺を退治するだと? “能力者”がどうした、笑わせるなっ!」
 井上はぐっと拳を握り締めると、ダッと彼との間合いを一気につめた。
 そんな井上のスピードは、“邪”と契約をして“憑邪”となっているため人間離れしている。
 身体に“邪”を宿している彼の身体能力は、普通の状態より著しく上がっていたのだ。
 グワッと目の前の相手を捉えんと、井上の大きな拳が唸りを上げる。
 だが彼のブラウンの瞳が、ちらりと拳を振り上げた井上に向けられたと思った……その瞬間。
「!? ぐっ!」
 ドサッという音がし、ひとりの少年の身体が地に崩れる。
 地に倒れたのはほかでもない、井上の大きな身体の方であった。
「かはっ……! くっ、一体、何がっ!?」
 いつの間に放たれたのか、井上の拳が届くよりも早く、彼は重い一撃を井上の腹部に叩き込んでいたのである。
 そんな彼の動きが全く見えなかった井上は、まだ立ち上がれない様子で驚きを隠せない。
 ふっと笑顔を浮かべ、彼は地を這う井上に言った。
「僕も小さい頃から空手やってたんだよ。昔、ジュニアの世界大会で優勝したこともあったかな? それに合気道や剣道や柔道、ほかにもいろいろ格闘技やってたんだ。それに僕、極めつけ“能力者”だしね」
 にっこりと微笑みを作り、彼は井上に近づく。
 それから強烈な一撃をもらって完全に戦意を失っている井上に、“気”を漲らせた右手を掲げた。
 そして穏やかだった表情をふっと変化させ、言ったのだった。
「お姫様が来る前に片付けたいからね。悪いけど、もう退治させてもらうよ」
「な……っ!」
 井上は恐怖に顔を引きつらせ、彼の掌で球体を形成する眩い光を見つめ、大きく目を見開く。
 そしてその大きな“気”の塊が井上に放たれんとした……その時だった。
「……!」
 バチッとプラズマがはしり、彼はハッと顔を上げる。
 一瞬にして、その手に宿っていた眩い光がその輝きを失った。
 そして小さく嘆息した後ゆっくりと振り返り、現れた人物を確認して思わず苦笑する。
「これはまた、随分と早かったんだね」
「私に無断で動かないようにと、あれだけ言っておいたはずだ。おかげで会議を抜け出す羽目になっただろう?」
 彼を見つめるのは、ダークブラウンの切れ長の瞳。
 同じ色の髪をかき上げ、駆けつけた晶は深い溜め息をついた。
 それからまだ地に倒れている井上に視線を向ける。
「! 晶先生、まさか“憑邪浄化”を使う気じゃ……」
 井上にゆっくりと歩み寄る晶に、彼は表情を変えた。
 そんな自分に駆け寄ろうとする彼を制してから、晶はふっと掌を天に翳す。
「……!」
 それと同時にカアッとその掌から神々しい光がほとばしり、彼の“結界”内をあっという間に満たした。
「晶先生、力を使ったら先生の身体がっ」
「私は“浄化の巫女姫”だ。私は私の宿命を受け入れ、その使命を全うする」
 そう言った彼女の瞳に漲るのは、凛とした意思の強さ。
 彼は神々しい光を放つ晶の両の目を見て、それ以上その場を動けないでいた。
 先生は光の宿った掌で、そっと井上の身体に触れる。
「! うわあっ!!」
 次の瞬間、バチバチと音をたてて眩い光が弾ける。
「くっ、今取り憑いた“邪”を身体から引き離すからっ」
「先生っ!」
 もがく井上と彼に手を翳す晶に近づこうと、たまらずに彼は足を踏み出そうとした。
 その時だった。
「!」
 カアッと今までで一番大きな光が“結界”内を包み込む。
「……っ!」
 光が弾けた瞬間、今まで暴れていた井上の動きがピタリと止まった。
 そしてそのまま、気を失ったようにガクリと倒れたのである。
 そんな眠ったように大人しくなった井上の表情は、心なしか穏やかなものに変わっていた。
 彼はそれを横目で確認すると、今度は心配そうに晶に視線を向ける。
「くっ……私のことはいい。後は、“能力者”である君の仕事だろう?」
「晶先生……」
 苦しそうに胸を押さえて片膝をつく晶を見てから、彼はふとその視線を上げる。
 倒れている井上の身体の上に見えるのは、“邪”の実態。
 黒い霧のような邪悪な気配に顔を顰め、そして彼は掲げた右手に“気”の光を漲らせる。
 そして。
「……消えろ」
 一言、それだけだった。
 冷たく発せられたその言葉と同時に“気”が放たれ、漆黒の霧は跡方なく消え失せたのだった。
 彼はバッと振り返って表情を変えると、晶のそばに駆け寄る。
「先生っ、大丈夫!?」
「“憑邪浄化”程度だ、何ということもない」
 そしてふうっと大きく息をついた後、晶はじろっと彼に視線を向けた。
「それよりも、これは一体どういうことだ!? 私は勝手に動くなと言ったはずだぞ。おかげで私は会議を途中で抜け出してきてだな……わっ!」
 眉間にしわを寄せ、彼に小言を始めた晶だったのだが。
 突然起こった出来事に、その表情を変える。
 そして顔を真っ赤にし、怒鳴るように言った。
「なっ、何をするっ、降ろしなさいっ!」
「まったく、お姫様は騎士に守られるものだろう? って、そんなに暴れないで、先生」
「降ろせと言っているのが分からないのか!? それに、お姫様と言うなと言っているだろう!?」
 自分の腕の中で耳まで真っ赤にしてそう言う晶に、彼は優しい視線を向ける。
 そして、くすくすと笑い出した。
「ふふ、これが本当のお姫様だっこ……」
「っ、くだらん! 本当に君というやつはっ」
 先程、晶が小言を始めようとした、まさにその時。
 そんな晶の身体を、彼の腕がひょいっと持ち上げたのだった。
 文字通りのお姫様だっこに満足したように、彼はゆっくりと歩き出す。
 それからブラウンの瞳を細め、言った。
「先生の決意の強さは分かってるんだよ。でもね、騎士はお姫様のことが心配なんだ。誰よりも僕は、先生のこと愛しているからね」
「え……?」
 今まで彼の腕の中で抵抗していた晶は、その言葉を聞いてふと動きを止める。
 そして間近に迫っている彼の綺麗な顔に、思わず見惚れてしまった。
 そんな晶に柔らかい微笑みを浮かべ、彼は笑う。
「晶先生。目、閉じて」
「鳴海君……」
 晶は彼に言われるまま、素直にそっとダークブラウンの瞳を閉じた。
 そして、次の瞬間。
 柔らかくて優しい彼の口づけが……晶の唇に、そっと触れたのだった。
 羽のように軽いキスの後、晶はゆっくりと瞳を開く。
 彼はそんな晶に視線を向け、そしてにっこりと微笑んで言ったのだった。
「晶先生、僕たち結婚しようね」
「どうしてそう、いきなり話が飛躍するんだ? まったくっ」 
 口ではそう言いつつ、晶はその顔に月のような美しい微笑みを浮かべる。
 そしてこの時、自分を抱きかかえる彼の肩越しに、晶はふたりの未来を見た気がした。
 彼はそんなお姫様の様子を優しく見つめ、ふっと幸せそうにその綺麗なブラウンの瞳を細めたのだった。




      




「将吾、見てごらん? 今日は月がとても綺麗だよ」
 にっこりと微笑む父に、実家に到着したばかりの息子ははあっと大きく嘆息する。
「何を言っているんですか。人を急に呼び出しておいて、第一声がそれですか?」
 じろっと母親譲りの切れ長の瞳を向け、鳴海先生は父親譲りのブラウンの髪をかき上げる。
 そんな先生の様子にもお構いなしで、紳士はコンポにCDを入れた。
 広い部屋に流れ出したのは、“月照の聖女”。
 愛する妻の作曲した美しい旋律に瞳を細めた後、紳士は再び窓の外に視線を向ける。
 先生もしばらく幻想的な演奏に耳を傾け、それから言った。
「それで今日は、何か用ですか?」
「用かい? 君の顔が急に見たくなってね」
「…………」
 全く悪びれのない父に言葉を失った後、気を取り直して先生は口を開く。
「本当に貴方の思考は理解し難い。私にも予定があるといつも言っているでしょう?」
 じろっと視線を向ける先生を後目に、紳士は突然くすくすと笑い出した。
 急に笑い出した父の様子に先生は眉を顰める。
 そしてそんな息子に、紳士は言ったのだった。
「本当に君は、言うことまで晶とそっくりなんだからね」
「貴方に対してなら、誰だってそう言いたくなります。母さんも大変だったでしょうね」
「ふふ、晶と僕はお妃様と王様だからね。ということは、君は王子様だね、将吾」
「……今の会話が全く噛み合っていないと思うのは、私だけでしょうか?」
 呆れたように首を振って瞳を伏せる息子の顔を、逆に紳士は楽しそうに見つめる。
 そして再び、窓の外で柔らかに世界を照らす月に目を向けた。
 それからもう一度息子ににっこりと微笑んで、紳士は言った。
「さて、親子の愛を語りながらお茶でも飲もうか、将吾」
「まったく、貴方という人は」
 再び大きく溜め息をつきながらも、先生はいつも座るリビングのソファーに座った。
 耳に優しく聞こえる旋律が、夜の闇と溶け合うかのように美しく響いている。
 そして窓から差し込める月光がまるで手を差し伸べる母のように、優しく部屋の中に満ち溢れる。
 そんな妻のような凛とした慈愛に満ちた輝きにブラウンの瞳を細め、紳士は満足そうに優しい笑顔を浮かべたのだった。

 





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