「起立、礼」
 帰りのホームルームの終礼が、教室に響き渡った。
 それと同時に、あっという間に教室の中に活気が漲る。
 放課後の賑やかな教室で、その少年・小椋拓巳は大きく伸びをした。
 そして無造作にノートを鞄にしまい、席を立つ。
 その時。
「……小椋、ちょっといいか?」
 拓巳はその声を聞いて、少し怪訝な顔をする。
 そして大きく溜め息をつき、言った。
「サッカー推薦の話なら、昨日断ったはずだぜ」
 その言葉に、拓巳の担任でありサッカー部の顧問でもある松本先生は表情を険しくする。
「よく考えろ、小椋。せっかくのチャンスだろう? それを断るなんて」
「悪いけどその話、別のヤツに回してくれよ」
 ふっと先生から視線を外して、拓巳はそれだけ言ってかばんを肩に抱えた。
 そんな拓巳の腕を、先生は咄嗟に掴む。
「それは無理だ。直々におまえを是非と言ってもらっているんだぞ!? あの高校のサッカー部は名門だ、それをっ」
「……俺は、高校ではサッカーやらないって決めたんだよ」
「分かっているのか? おまえの志望校・聖煌学園は超難関進学校だ、死ぬほど勉強しないと受からないぞ!?」
「分かってるよ、だったら死ぬほど勉強してやる。決めたんだよ、俺は」
 掴まれた手を振り払い、拓巳は呆然と立ち尽くす先生に背を向けた。
 そして、同じクラスのひとりの少年に言った。
「よお、准。数学の課題で分からないところがあるんだけどよ、教えてくれよ」
「いいよ、拓巳。どれ?」
 いかにも体育会系な拓巳とは対称的の、優等生タイプの少年。
 その少年・芝草准は、その知的な顔に微笑みを浮かべる。
 拓巳はカサゴソとかばんから、数枚のプリントを取り出した。
「これとこれと、あとこれなんだけどよ」
「この問題はね、まず三角形ABCの内部に任意の点F'をとって、次に図の円内に三角形AF'Gが正三角形となるように点Gをとると、△ABF'≡△ADGになるんだよ。だからAF'=GF'、BF'=DGになるわけで……」
 ふむふむと頷きながら、拓巳は熱心に准の説明を聞いている。
 准は問題の解説をしながらも、そんな真剣な表情の拓巳を見た。
 数学が人一倍苦手で嫌いな拓巳が、こうやって自分に質問するなんて。
 数ヶ月前は、考えられないことであった。
 拓巳が変わったのは数ヶ月前、あの人と出会ってからだ。
 そしてその人との出会いは、准自身の人生をも変えるものであったのだ。
 それから一通り質問された問題を解説し終え、准は拓巳に言った。
「ねぇ、拓巳」
「ん? 何だ?」
「さっきの先生との話を聞いちゃったんだけど、サッカー推薦がきてるの?」
 拓巳はその言葉に、表情を変えた。
 鬱陶しそうに前髪をかきあげて、それから溜め息をつく。
「ああ。でも、行く気ないって断ったんだよ」
「あそこの高校のサッカー部、全国でも有名なんだろう? いいの?」
「先生にも言ったけどよ、高校ではサッカーはやらないって決めたし、それに……」
 そこまで言って、ふと拓巳は数学のプリントを見る。
 そして、ぐっと拳を握って続けた。
「絶対に俺は聖煌に入って、あの鳴海の野郎を見返してやるんだよ」
「そっか。僕は拓巳が、まだあのことを気にしているのかと思ったから」
「…………」
 准の言葉に、拓巳はふと言葉を失って俯く。
 准はそんな拓巳の肩をポンッと叩いて、言った。
「今日は6時だからね、遅れないようにね。また遅刻したら、鳴海先生に怒られるよ?」
「鳴海なんか恐くねーよっ。今日は6時だったな」
 ちっと舌打ちした後、拓巳は腕時計を見る。
 そしてその“鳴海式強化プリント”と題してある数学のプリントをかばんにしまった。
「んじゃ、またあとでな、准。数学教えてくれてサンキュー」
「また分からないところがあったら言ってね。じゃあ、またあとで」
 軽く手をあげて、准はバタバタと教室を出て行く拓巳の背中を見送る。
 そして、その表情を変えた。
「まだあの時のこと気にしているんだ、拓巳」
 中学3年になってもう引退しているが、拓巳はサッカー部に所属していた。
 そのサッカー部自体はそんなに強いチームではないのだが、エースとして活躍してきた拓巳には、たくさんの名門高校が注目しているのだと准は聞いている。
 だが、頑なに拓巳はそのオファーを断っているらしい。
 数ヶ月前に鳴海先生と出会って以来、拓巳は難関校である聖煌学園への受験を決めたが……サッカーをやめるという理由は、それだけではないと准は思っている。
 何かを考えるように、准は俯いた。
 その時。
「芝草、ちょっといいかな」
 急に誰かに声をかけられ、准はその顔を上げる。
 そして、首を傾げてから頷いた。
「あ、はい。何ですか?」
 声をかけてきたのは、担任であり先程拓巳を説得していた松本先生だった。
 はあっと大きく溜め息をついてから、先生は言った。
「仲のいいおまえからも、小椋を説得してくれないか? あいつにとってサッカー推薦の話は、大きなチャンスだと俺は思うんだ」
「でも、彼は聖煌学園の受験を希望しているんでしょう?」
「確かにあいつはああ見えて、成績はそれほど悪くはない。だが、志望校があの天下の聖煌学園となれば話は別だ。あいつは数学が極端に苦手だからな……あいつがサッカー推薦を拒むのは、まだあのことを気にしているからか?」
「…………」
 もう一度深々と息を吐く先生を見ながら、准は複雑な表情をする。
 そして、言った。
「分かりました、僕からも一応言っておきますから」
「そうかっ、おまえからも十分言っておいてくれ、悪いが頼んだぞ」
 パッと表情を明るくして、先生は教室を出て行く。
 そんな先生を見て、准は深々と嘆息した。
 そして教科書類をかばんにしまいながら、俯いた。
 ……それは、半年ほど前。
 部活の練習中、拓巳がサッカー部員のひとりに怪我をさせた。
 もちろん、故意的なものではない。
 拓巳の放ったシュートを取ろうとしたキーパーが、その勢いに飛ばされてコーナーポストに激突したのだ。
 普通のシュートならば、打撲程度の怪我だったかもしれない。
 だが、思わず力の加減を考えずに全力で打った拓巳のシュートの衝撃は大きかった。
 拓巳は、普通の人間が使えない力を持つ“能力者”である。
 成長期に入って、その身体の成長と同時に体内に宿る“気”も日に日に力を増してきている。
 力の加減を考えないと、サッカーでさえも相手に怪我をさせかねない状態になっていた。
 急速に成長する“気”の制御が、この頃の拓巳には難しかった。
 そんな中、この事件は起こったのだ。
 怪我をしたキーパーは入院を余儀なくされ、最後の引退試合に出場することができなかった。
 それ以来、拓巳はサッカー部に顔を出さなくなったという。
 以前、准は拓巳に聞いたことがある。
 もうサッカーはやらないのか、と。
 その時、拓巳はこう言った。
『もうサッカーをする気はない。全力でプレーできないなんてサッカーじゃないから』
 そして拓巳は、そのあとにこう続けた。
『俺が全力でぶつかっても、今はまだ越えられない目標を見つけた。今は無理でも、数年後には絶対に越えてみせる』
 准はその言葉に、その時何も言えないでいた。
 同じ“能力者”として、そんな拓巳の気持ちが准にも分かったからだ。
 はじめてあの人に出会った時の、彼の印象は強烈で。
 威圧的な切れ長の瞳、そしてその身体は強大な“気”を纏っていた。
 拓巳の感情とは少し違うが、その姿を見て、准も自分の運命を受け入れる決意をしたのだった。
「あ……もうこんな時間か」
 その時、ふと我に返って准は時計を見る。
 先程まで賑やかであった教室だったが、いつの間にか生徒の姿も疎らである。
 大きく溜め息をついてから、准もそんな教室をあとにしたのだった。






「恭子ちゃんに美香ちゃん、またなぁ。あ、順子ちゃん、この間は楽しかったわ、また遊んでなっ」
 そのハンサムな顔ににっこり笑顔を浮かべて、その少年・瀬崎祥太郎はクラスメートの女の子たちに愛想よく手を振る。
 そんな祥太郎の姿を見て、同じくクラスメートである立花梨華はわざとらしく溜め息をついた。
「祥太郎、あんたって本当に節操ないわね」
「梨華っち、それを言うなら節操ないんやなくて、モテモテって言って欲しいわ」
「はあ? 誰がモテモテって言うのよ?」
「そんなこと決まってるやん、このハンサムガイの瀬崎祥太郎くんに……って梨華っち、最後まで聞かんかいっ」
 言葉の途中でスタスタと歩き出した梨華を見て、祥太郎は楽しそうに笑う。
 梨華はもう一度嘆息して、そして振り返る。
「バカなこと言ってるんじゃないわよ。ていうか祥太郎、今から担任と進路指導の面談なんでしょ?」
「ああ、そうやったな。あー、かったるいわ、別に相談せんでも志望校は決めとるっちゅーのに」
 しぶしぶ席を立って、祥太郎はそう呟く。
 梨華は少し遠慮気味に聞いた。
「って祥太郎、あんたさ……志望校、どこにしてるの?」
「ん? そりゃあもう男らしく、聖煌学園一本や」
 祥太郎の言葉に、梨華は一瞬言葉を失う。
 そして驚いたようにその瞳を見開き、叫んだ。
「せっ、聖煌学園!? しかも一本ってあんた、自分の成績ちゃんと見えてる!?」
 本気で驚く梨華に、祥太郎は苦笑する。
「おいおい、そこまで言わんでも。って、そういえば梨華っちも、第一志望は聖煌やったよな?」
 まだびっくりした表情のままで、梨華は頷いた。
「え? あ、うん。聖煌が第一志望だけど、あんたみたいに無謀じゃないから数校受けるつもりよ」
「そっか、梨華っちは成績いいからなぁ。んじゃ志望校が同じよしみで、今度勉強教えてなっ」
 そう言って屈託のない笑顔を向ける祥太郎に、梨華は顔を赤らめる。
 そしてそれを悟られないようにそっぽを向き、言った。
「あんたの場合、勉強する手よりも口の方がペラペラ動いてそうよね」
「そんな、こんなに口ベタな祥太郎くんに何てコトを言うん、梨華っち」
「あのね祥太郎。聖煌受験する前に、まず日本語正しく使ってよね」
 呆れたようにそう言い放つ梨華に、祥太郎は笑った。
「相変わらずナイスツッコミや、梨華っち。ツッコミの素質あるで?」
「それ、全然嬉しくないし」
 はあっと溜め息をつく梨華から視線を外し、祥太郎は思い出したように時計を見る。
 そしてかばんを抱えて言った。
「おっ、面談の時間や。気が向かんけどしゃーないわ。じゃあまた明日な、梨華っち」
「うん、またね」
 そそくさと教室を出て行く祥太郎を見送り、梨華はふと俯く。
「私も聖煌学園目指して、頑張ろうっと」
 無意識的にセーラー服のリボンを触りながら、梨華は嬉しそうにそう呟いたのだった。
 教室を出た祥太郎は、知り合いの女の子たちに愛想よく挨拶しながらも重い足取りで進路指導室へと向かう。
 ふうっと大きく嘆息して、祥太郎は髪をかきあげた。
 祥太郎は、中学3年に進級すると同時に今の中学へと引っ越してきた。
 その理由はもちろん、祥太郎が“能力者”であるからである。
 修学旅行の引率中であった鳴海先生と大阪で出会ったのが、去年の冬で。
 自分の力の意味を知ったのも、その時だった。
 そして東京に憧れを持っていた祥太郎は、先生の言うとおりに東京の学校へと転校してきたのだ。
 だが、厳しい受験戦争に加えて鳴海先生のしごきを受ける日々は、祥太郎の理想の東京生活とはかけ離れていた。
 もちろん遊ぶところもたくさんあるし性格的にたくさんの友人もできて、楽しいといえば楽しいのだが。
「聖煌に入って、守るべき“姫”を守る……その目的に向かって、がむしゃらに頑張らんといかんのやけどなぁ、どうもなぁ」
 何度目か分からない溜め息をついて、そして祥太郎は進路指導室のドアをノックしたのだった。






 同じ頃、その少年は賑やかな繁華街を歩いていた。
 風に揺れる髪は金色に近いブラウンで、右の瞳だけ神秘的な青い色をしている。
 美少年という言葉がぴったりのその少年・蒼井健人は、その時ふと持っていたかばんを開けた。
 ブルブルと着信を知らせる携帯電話を取り出して、そして通話ボタンを押す。
「もしもし」
『健人、元気か? 今、ちょっと話してもいいかな』
「ああ、構わないよ。父さんこそ、どうしたんだ? 仕事忙しいんだろう?」
 立ち止まって、そして健人は近くのベンチに座る。
 父親から電話がかかってくるなんて、珍しい。
 健人の父親は会社の社長でありいつも仕事で忙しい人で、外国と日本を行ったり来たりしている。
 父親の母親・健人からみて祖母にあたる人がアメリカ人で、その関係で海外にも仕事の幅を広げているのである。
 今は日本での仕事をしている父親であるが、ほとんど会社にいて家には帰ってきていなかった。
 だが健人にとってそういう状況は慣れっこになっていて、大して気にしてはいなかった。
 幼い頃から忙しい父の背中を、その青い瞳で見てきたからである。
『健人、おまえは来年高校に入学するんだったよな』
「ああ。今中学3年だからな」
『おまえの高校への進学のことで、今日は話があるんだが』
「俺の進学のこと?」
 健人は父の言葉に、意外な表情をする。
 自分の仕事だけでも手一杯のはずの父親のその言葉に、健人は驚いたのだった。
 そんな健人の様子を気にせず、父親は続けた。
『高校だが、日本の学校でなくアメリカの高校に進学しないか? 今の仕事が片付いたら、しばらくの間アメリカへ行かなくてはならなくてね。アメリカに住む母さんも、健人がそばにいれば喜ぶと思うんだ』
「…………」
 健人は父親の提案を聞き、俯く。
 アメリカにいる祖母が自分に会いたがっていることは、もちろん知っている。
 父親がアメリカに行くのなら、もちろんその妻である健人の母親も一緒についていくだろう。
 幼い頃からそういう状況になることは多く、家族と離れて暮らすことには慣れている健人であった。
 家庭のことも大切に考えている父親にとって、息子と離れて暮らすことに罪悪感を感じているということも健人は分かっていた。
 だが……。
「悪いけど父さん、アメリカに行く気はないよ。日本の高校に行きたいんだ」
 自分には、日本でやらなければいけないことがある。
 普通の人には使えない力を持つ者“能力者”として、守らなければいけない人がいる。
 自分にそういう力があることは数年前から、すでに知っていた。
 だが、何故自分にそんな力があるのかは分からなかった。
 そして数ヶ月前に鳴海先生と出会い、その答えが明らかになったのだ。
 自分の力の意味を聞かされて、健人は大きな使命感を感じ、そして運命を受け入れることに決めたのだった。
『そうか……だが、健人がそう言うのなら仕方がないな』
 健人の返答に、父親は残念そうにそう言った。
 そして優しい声で続ける。
『こんなことを言ってすまなかったな、健人。今日は何とか家に帰れそうだから』
「謝ることないよ。俺もわがまま言ってごめん、父さん。それじゃあ、また」
 父の仕事が忙しいことは、知っている。
 家に帰る時間も惜しまれるほどに。
 だが父の性格上、無理をして今日は家に帰ってくるのだろう。
 父との通話を終え、健人は携帯電話をかばんにしまう。
 そしてその青い瞳を腕時計に向け、呟いた。
「遅刻したらただじゃ済まないからな、急がないとな」






 時間は、午後5時半をさしていた。
 都内某所の、高級マンション。
 准は慣れた手つきでエレベーターの17階のボタンを押した。
 このマンションの17階のフロアは、誰も住んでいない。
 鳴海先生の用意した、強化訓練のためだけの階なのである。
 この階には、勉強をするための部屋はもちろん、トレーニングルームまでもが備え付けてある。
「もともと、常識とはかけ離れている世界なんだけどね」
 そう呟いて准は、小さくなっていく車や人をガラス張りになっているエレベーターから見下ろした。
 そして17階に到着し、奥の部屋の扉を開ける。
「やあ、准。いらっしゃい」
 広くてシンプルな室内にいた少年は、優雅な微笑みを准に向ける。
「こんにちは、詩音。ほかのみんなはまだ?」
 准の言葉に、その少年・梓詩音は笑う。
「祥太郎と健人はもうそろそろ来るみたいだけど、拓巳は危うそうだよ。そう言えば、准は拓巳と同じ学校だろう?」
「遅れないようにって、学校でも言っといたんだけどね」
 はあっと嘆息して、准は椅子に座った。
 鳴海先生に集められた5人の中で、准と拓巳だけ同じ中学である。
 あとの少年たちは、皆バラバラの学校に通っている。
 5人とも現在中学3年であり、まさに受験戦争の渦中にいた。
 そして、目指す高校はみんな同じである。
 鳴海先生が教員として働いている、聖煌学園高校。
 そして少年たちが守るべき“姫”も、その聖煌学園を志望しているという。
 まだ見ぬ“姫”のため、少年たちは受験勉強と訓練に明け暮れる日々を過ごしているのだ。
 准が到着して間もなく、祥太郎と健人も姿を現す。
「よかったぁ、遅刻するかと思ったわっ。って、拓巳はまだか?」
「拓巳、本当に一体何やってるんだか」
 祥太郎の言葉に、准は心配そうに窓の外に視線を移す。
「本当に懲りないな、あいつ」
 ふっと嘆息して、健人は備え付けてある冷蔵庫から飲み物を取り出した。
「どうかな、現在地から考えると微妙なところだね」
 瞳を細めて、詩音は微笑む。
 祥太郎は悪戯っぽく笑って、言った。
「そうや、賭けしようか? 拓巳が遅刻するかどうか」
 その言葉を聞いて、少年たちは口々に呟く。
「あいつのことだ、遅刻するだろ」
「僕も、遅刻すると思う」
「ギリギリで遅刻、ってところかな」
「なんやぁ、全員遅刻に賭けたら意味ないやん」
 わははっと笑って、祥太郎は少年たちを見回す。
 准はそんな祥太郎に目を向け、深く溜め息をついた。
「笑い事じゃないよ、祥太郎。あの人のことだから、きっとただじゃ済まないよ」
 ちらりと時計を見てそう言う准に、健人はマイペースに数学の問題集を開きながら言った。
「自業自得だろ、あいつの場合」
「確かにね、あそこまであの人に反抗するなんて、勇気だけは認めるけどね」
 相変わらずその上品な顔に微笑みを浮かべ、詩音は笑う。
 健人はちらりと壁にかかっている時計を見た。
 時間は、まさに6時になろうとしている。
 その時おもむろに、瞳を細めて詩音は言った。
「おや、どうやらやっぱり拓巳は間に合わなかったようだね」
 カチッと時計の針が動いた音が、部屋に響いた。
 時間はちょうど、午後6時。
 電子的で単調な音楽が、午後6時を知らせるために鳴り響く。
 ……その時だった。
 おもむろに、その部屋のドアが開いた。
 途端に部屋の空気が、一変する。
 そして現れた人物の姿を見て、少年たちの表情が無意識に引き締まる。
「拓巳はまたいないのか?」
 切れ長の瞳を細め、現れたその人物・鳴海将吾は怪訝な表情を浮かべる。
 そして少年たちを一通り見てから、鳴海先生は准に視線を向ける。
 その瞳は、有無を言わせぬほどに威圧的なものだ。
 その視線に気がつき、准は言った。
「学校は僕よりも先に出たみたいだから、もうすぐ来るんじゃないかと……」
 そんな准の言葉に何も言わず、先生はカツカツと室内へ足を踏み入れる。
「拓巳のヤツ、ヤバイんちゃう? めちゃお怒りやん、鳴海センセ」
 小声で祥太郎は、隣にいる詩音に言った。
 詩音は祥太郎に微笑みを返したあと、ちらりとドアに視線を移す。
「そう言っているうちにどうやら到着したようだよ、拓巳」
 その詩音の言葉につられ、祥太郎も背後のドアに振り返る。
 その時、バタバタと慌しく足音が聞こえたかと思うと、部屋のドアが勢いよく開いた。
 ……次の瞬間。
「!!」
 少年たちは大きな力を感じ、一斉にその顔をあげた。
 それと同時に、鳴海先生の右手から強烈な光が放たれる。
「げっ!! なっ……!?」
 息を切らしながら部屋に駆け込んだ拓巳は、目の前に迫る光の衝撃に瞳を見開いた。
 だが時すでに遅く、鳴海先生の繰り出した衝撃が拓巳を捉える。
「くっ!!」
 ガンッと激しい音がしたかと思うと、拓巳は身体ごと飛ばされてドアに激突した。
「何度言えば分かる? 時間厳守だ」
 冷たくそう言い放つ鳴海先生に、拓巳はキッと鋭い視線を投げる。
 そして激突した時にぶつけた頭に手をやったあと、グッとその拳を握り締めた。
「つっ、いきなり何しやがるんだよっ!!」
 バッと立ち上がり、拓巳は握り締めたその拳を振り上げる。
 鳴海先生はそんな拓巳の様子に動じもせず、ちらりと切れ長の瞳を向けた。
 そして唸りをあげて襲いかかる拓巳の拳を難なく避け、スッとその右拳に力を込める。
 次の瞬間、その立派な凶器と化した先生の右拳が、拓巳の腹部に鋭い衝撃を与えた。
 ドスッと鈍い音がし、そして拓巳の身体が前のめりになる。
「……ぐっ! くそっ、てめぇっ!!」
 衝撃に耐えられず、拓巳は思わず肩膝をついた。
 そんな拓巳に切れ長の瞳を向け、鳴海先生は大きく溜め息をつく。
「おまえは毎日何をやっている? そんな闇雲に攻撃しても無駄だといつも言っているだろう。攻撃を繰り出す際は溜めを作れ。そして脇をしめて腰と肩を回転させろ。攻撃を繰り出したらすぐに腕を引け。一体何度言えば分かる? 本当に教え甲斐のないヤツだ」
「くっ、何だとっ!?」
 ケホケホと咽つつ、拓巳はギッと鳴海先生を睨みつける。
 戦意に満ちた拓巳とは対称的に、先生は冷静で威圧的な声で言った。
「さっさと席に着け。時間の無駄だ、受験勉強を始める」
 そしてまだ自分に鋭い視線を向けている拓巳の様子には全くお構いなしで、手元のプリントを少年たちに配りだす。
「なっ、なんやこれっ!?」
 げっと呟き、そのプリントを見た祥太郎は声を上げる。
 分厚いプリントの表紙には“鳴海式対策問題・制限時間90分”の文字が大きく印刷されていた。
 祥太郎の言葉に、先生は言った。
「見て分からないか? 全教科の対策問題を一通り網羅してある。表紙に書いているように時間は90分だ」
「ちょっと待てや、こんなん分厚いのを90分で解けっちゅーんかい」
「あの人が解けって言ってるんだから、きっと何が何でも解かないといけないと思うよ、祥太郎」
 諦めたように、准はそう呟く。
「…………」
 健人はそんなやりとりを黙って聞いたあと、カチカチとシャープペンシルを鳴らした。
「ちっ、覚えてろよ、鳴海のヤツ!」
 ようやく席に着いた拓巳に、詩音は微笑みかけてその課題を手渡す。
「大丈夫かい? もう少しだったのに間に合わなくて残念だったね。王子も騎士の到着がまだかと、ハラハラ待っていたんだけどね」
「あのなぁ、全然ハラハラしているように見えなかったのは俺の気のせいか? 詩音」
「うん、きっと気のせいだよ、拓巳」
 にっこりと笑う詩音を見て溜め息をついてから、拓巳も筆記用具を取り出した。
 鳴海先生は時計を見て、そして言った。
「今から90分後の19時40分まで、私は隣の部屋にいる。おまえたちは今からこの課題を解け。それから答え合わせをし、解説を行なう。そのあとに昨日出しておいた課題をひとりずつ私に見せに来い。その後、訓練を開始する。今日のスケジュールは以上だ、分かったな」
 それだけ言うと、鳴海先生は部屋を出て行った。
 パタンとドアが閉まり、少年たちは思い思いに問題に取り組みだす。
「おいおい、無理じゃねーかっ!? こんな量を90分で解けってよ」
 まだ痛む腹部を押さえながら、拓巳はぶつぶつと呟いた。
 准は、ちらりとそんな拓巳を見る。
「そんなことを言ってる時間ないよ、拓巳」
「ていうか、本当に懲りないよな、おまえ」
 健人は課題からその青い瞳を離さずに、そう言った。
「うるせぇなっ、間に合うと思ったんだよっ」
 じろっと健人に視線を向ける拓巳を後目に、祥太郎は溜め息をつく。
「はあぁ〜、早速一問目から分からんのやけど」
「これもまだ見ぬお姫様のためだよ。頑張って、祥太郎」
 くすっと笑って、詩音は祥太郎に言った。
 その言葉に、シャープペンシルをくるくると回しながら祥太郎は呟いた。
「まだ見ぬお姫様のため、なぁ」






 それから、数時間後。
 鳴海先生の立てたスケジュールをすべて消化し、少年たちは帰り支度を始めた。
 窓の外はすでに真っ暗で、あたりもシンと静まり返っている。
「詩音、おまえに話がある」
 鳴海先生は、帰ろうとしていた詩音を呼び止めた。
 そんな先生の言葉にも動じず、詩音はほかの少年たちに微笑んだ。
「じゃあみんな、また明日ね」
 優雅な笑顔を向けて、そして詩音は鳴海先生のあとに続いて隣の部屋へと向かう。
「本当にあいつの動揺する姿、見てみたいよな」
「思考回路も全く読めんしな、詩音」
「僕、詩音の言っていることが理解できない時あるし」
「芸術家ってやっぱり、みんなあんな感じなのか?」
 思い思いにそう呟いてから、そして4人はその部屋をあとにしたのだった。
「それで僕に何の用かな、先生」
 隣の部屋に呼ばれた詩音は、近くの椅子に座った。
 そんな詩音に、先生は口を開く。
「もう一度聞くが、外国に音楽留学する気はないんだな? 静香さんが心配されていたが」
「母君が? いくら自分の王子が愛しいとはいえ、母君は心配性だな」
 くすっと笑い、詩音は母親似の色素の薄い髪をかきあげた。
 母・静香は声楽家、そして父は指揮者という音楽一家に育った詩音は、世間から天才と謳われているピアニストである。
 その才能溢れた詩音に、周囲は音楽留学を勧めていた。
 だが当の本人には全くその気がなく、今日に至っているのだ。
 詩音はその上品な顔に優雅な笑顔を浮かべ、そして言った。
「確かにこの僕の旋律を世界が求めていることは分かっているよ。でもね、まだ僕は行けないんだ」
「何故、そんなに日本にこだわる?」
 鳴海先生は、切れ長の瞳を詩音に向ける。
 詩音はふっと微笑み、そして言葉を続けた。
「何故かって? だって考えてみてよ。僕はまだ一度も、僕のまだ見ぬお姫様の前で旋律を奏でてはいないだろう? 一番聞いて欲しい女性に僕の旋律は届いていない。だからだよ」
「…………」
 詩音の言葉に、鳴海先生は何かを考えるような表情を浮かべる。
 そんな先生の様子を気にとめず、詩音はその瞳を細めた。
「僕も早く、僕のお姫様に会いたいよ」






 マンションを出た祥太郎は、帰りの方向が同じ健人と歩いていた。
 すっかりあたりも暗くなり、街のネオンも疎らになっている。
「なぁ、健人」
 祥太郎は、隣の健人に視線を向けた。
「何だ? 祥太郎」
「その俺らが守るべきお姫様って、どんな人なんやろうなぁ」
「……さあな」
 青い瞳を宙に向け、健人は少し考えてそう呟く。
 祥太郎はふと表情を変え、溜め息をついた。
「実際まだ会ったこともない“姫”のために、俺は東京に来たわけやん? いや、後悔してなんかないんやけど、毎日勉強と訓練に追われて。このままどうなるんやろうって、時々思うんや」
「…………」
 健人は、黙って祥太郎の言葉を聞いている。
 ちらりと視線を健人に向けてから、祥太郎は何かを誤魔化すように悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「なーんてな。カワイイ子やといいなぁっ、お姫様。な、健人っ」
「祥太郎……」
 そんな祥太郎に青い瞳を向け、健人は言った。
「自分で決めた道だ。俺は後悔なんてしないよ」
「そうやな、今は後悔するよりもまずお勉強やしなぁ」
 ふっと笑って、祥太郎は自分にいい聞かせるかのようにそう呟く。
 そして、時計をちらりと見て言った。
「お、今日はいつも見てる雑誌の発売日やったなぁ。んじゃ俺、本屋寄って行くわ」
「そうか。じゃあ、また明日な」
 健人は軽く手をあげ、そして地下鉄の駅の階段を降りていく。
 それを見送って、祥太郎は夜遅くまで営業している本屋へと入っていった。
 目当ての雑誌があるのを発見した祥太郎だったがそれはまだ手に取らず、何かを思いついたように参考書売り場へと足を向ける。
「えっと聖煌学園の入試過去問題は、と。あ、これやな」
 そう呟き、祥太郎は志望校の入試の過去問題をチェックしようと手を伸ばした。
 その時だった。
「あっ……ごめんなさい」
 同じようにその問題集を取ろうとした細身の白い手と、祥太郎の手が重なる。
「あ、こちらこそ失礼……!」
 そう言って顔を上げた瞬間、祥太郎は言葉を失う。
 相手は、同じ年ほどの少女だった。
 肩の長さでふわりと揺れる栗色の髪、それと同じ大きなブラウンの瞳。
 その肌は白く、清楚な雰囲気を持つ子である。
 何故だかその少女から目を離すことができず、祥太郎は瞳を見開いた。
 じっと自分を見つめる祥太郎に、その少女はにっこりと微笑む。
 自分に向けられたその微笑みは月のように柔らかで、そして心を解すようなあたたかさがあった。
 少女は問題集を一冊手に取り、祥太郎へと手渡す。
「貴方も聖煌を受験するんですか? 私も受ける予定なんです。お互い頑張りましょうね」
 それだけ言って軽く礼をして、その少女は自分の分の問題集を取ってレジへと歩き出した。
 少女に渡された問題集を握り締め、祥太郎はハッと我に返る。
「あのっ! ちょっと待ってや」
 祥太郎は、咄嗟にその少女を呼びとめた。
 不思議そうな顔をして、少女が振り返る。
 祥太郎はそのハンサムな顔に照れたような笑顔を浮かべ、そして言った。
「何か俺、頑張れそうな気がしてきたわ、受験勉強」
 その言葉ににっこりと微笑んで、その少女はレジへと再び歩き出した。
 彼女の後姿をしばらく見送ってから、祥太郎は嬉しそうに少女から渡された問題集を眺める。
 そして、グッと拳を握り締めて呟いた。
「聖煌学園か、よーし頑張るでっ」






 この時の少年たちは、それぞれがそれぞれの思いを抱えながらも、受験勉強と鳴海先生という試練に負けじと日々を過ごすことに精一杯であった。
 そんな彼らが揃ってお姫様と対面するのは、数ヵ月後。
 運命の出会いを祝うかのように美しく花びらが舞う、桜の咲く4月である。
 そしてお姫様と出会った彼らは、自分の使命と自分の選んだ道に大きな誇りを感じることになる。
 だが、この時の少年たちにはまだ、そんな高校生活を想像する余裕すらもなかったのである。

 





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