――6月2日・木曜日。
 放課後の雑踏で賑やかな廊下を歩きながら、その少年・相原渚はふと時計を見た。
 それからふうっとひとつ溜め息をつき、漆黒の色を湛える瞳を伏せる。
 入学して2ヶ月が経過し、ようやく学校に慣れて校舎内で迷わなくなった渚だが。
「ったく、これじゃ愛しの清家先輩に会いにいく時間がないじゃない……」
 ジャニーズ系の可愛らしい顔に似合わず、渚は眉を顰める。
 それから小さく舌打ちし、ちらりと手に持っているものに目を移した。
 それは――可愛らしいピンクの封筒に入っている、一通の手紙。
 今朝、渚の靴箱の中に置かれていたものである。
 渚はもう一度嘆息した後、確認するようにその手紙を開いた。
 その内容とは。
『突然の手紙、ごめんなさい。相原くんに伝えたいことがあります。今日の放課後、中庭で待っています。 1年Dクラス 明石孝子(あかし たかこ)』
 癖のある、お世辞でも綺麗とは言えない今時の女子高生っぽい字で書かれたその手紙を見て、渚はふうっと溜め息をつく。
「ていうかそれ以前に、明石さんってどの人だっけ? それすら分かんないし」
 手紙を見る限り送り主はどうやら自分と同じクラスらしいが、まだクラスメイトの大半の顔と名前が一致していない渚は、うーんと考える仕草をした。
 だが、どうせ考えても知らないものは知らないと思い直し、とりあえず指定場所である中庭へと向かう。
 普段の渚は、その毒舌全開な本性を隠している。
 彼と毎日のように話をしている眞姫でさえ、彼の猫かぶりな様子に騙されているくらいである。
 そのため、ジャニーズ系の可愛らしい容姿と学年トップの優秀な成績、そして運動神経もいい彼は、昔から今回のように女の子から呼び出されることも少なくなかった。
 普通ならそれは喜ばしいことなのかもしれないが、渚にとってはただ面倒なこと以外の何物でもない。
 大抵、渚を呼び出した女の子の言う言葉は決まっていた。
 自分と付き合ってほしい……すなわち俗に言う、恋の告白である。
 興味のない女の子たちに告白されるたび、渚は正直うんざりしていた。
 断るにしろ、本性を隠している事情上、無下に彼女たちを突き放すわけにはいかないからである。
 心にもない言葉で優しく断らないといけない上に、相手が泣き出しでもしたら面倒この上ない。
 渚の性格からして、興味のない人に対しては名前さえも覚えようともしない。
 そんな自分の知らない人に対して過度に気を使わないといけないことが、渚には冗談じゃないことなのである。
 それに今の彼は、先輩である眞姫に夢中なのだ。
 眞姫以外の女の子が全く眼中にない渚は、たぶんされるであろう告白をどう断ろうかと思考を巡らせる。
「ほかに好きな人がいるからってのも後で面倒なことになりそうだし、まぁ無難にテキトーに言っとけばいいかな。あー僕みたいに顔も頭もいい完璧な人間って、本当に大変だよ」
 ブツブツそう呟きながら、渚は漆黒の前髪をかき上げた。
 そして、中庭へと足を踏み入れる。
 校舎から出た瞬間、生ぬるい風がふわりと彼の黒髪を揺らした。
 きょろきょろと周囲を見回し、渚は風で揺れる前髪をかき上げる。
 放課後の中庭には、数人の生徒の姿があった。
 だが相手の顔を知らない渚にも、自分を呼び出したのがどの人かすぐに分かった。
 渚の姿を見つけて、タッタッと急いで駆け寄ってくるひとりの女生徒が目に入ったからである。
「相原くん、ごめんね。いきなり呼び出しちゃって」
 カアッと顔を赤くしながらそう言った少女は、いかにもミーハーそうで派手な印象を受ける少女だった。
 肩より少し長めの髪は、校則に引っかからない程度にほのかに茶色に染められている。
 今から告白するからか、その顔はうっすらと化粧がしてあった。
 微かに漂う甘い香水の香りからも、告白にかける彼女の気合いが見て取れる。
 そういえばクラスの女の子たちの集団の中に、この彼女の姿もあった気がする。
 そう思い出しながら、渚は可愛らしい顔に得意の作り笑顔を浮かべて言った。
「ううん、気にしないで。それよりもどうしたの? 明石さん」
 渚の心にもない優しい言葉に、その少女・孝子はホッとしたように微笑む。
 そしてすぐに表情を引き締め、意を決したように口を開いた。
「あっ、あのねっ。私、その……私ね、相原くんのことが好きなのっ。だから、よかったら付き合ってくれないかなって思って……」
「え? 僕と?」
 告白されるだろうと分かっていた渚だったが、わざとらしく驚いた表情を浮かべてみる。
 そんな渚の本性を知らない孝子は、耳まで真っ赤にしながら大きく頷いた。
「う、うん。いきなりこんなこと言って迷惑だよね、ごめんね」
「迷惑だなんて、そんなことないよ。少し驚いたけど、とても気持ちは嬉しいから」
 迷惑と思うなら言うなよと心の中で思いつつも、渚は大きく首を振って可愛らしい声でそう言った。
 それから無難に断ろうと、再び口を開こうとする。
 ――その時だった。
「……!」
 ふと渚は、その漆黒の瞳を一瞬大きく見開く。
 そして口を噤み、言いかけた言葉を飲み込んだ。
 孝子は微妙に表情の変わった渚を見つめ、小首を傾げる。
「あの、相原くん。どう、かな?」
「え? あ……」
 ハッと我に返り、渚は孝子に向き直る。
 それから彼女に視線を向けたまま、何かを考える仕草をした。
 そして数秒後、渚はにっこりと作り笑顔を浮かべて、彼女の告白にこう答えたのだった。
「僕、まだ明石さんのことよく知らないから、すぐには付き合えないけど……でも明石さんのこと、もっとよく知りたいなって思っているよ。僕なんかでよかったら、まずは友達として仲良くしたいな」




 ――同じ頃。
 2年Bクラスの教室で帰り支度をしていた眞姫に、同じクラスの拓巳は声をかけた。
「なあ、姫。今日だけどよ、一緒に帰りにカラオケでも行かないか? 何か最近行ってなかったからよ、ガンガン歌いたい気分なんだよな」
「え? 今日?」
 拓巳のその言葉に、眞姫は大きな瞳をぱちくりとさせる。
 きょとんとしている眞姫の隣に移動して、帰り支度の済んだ准は呆れたように嘆息した。
「拓巳、今日って部活の日だろう? まったく、すぐ忘れるんだから……」
「げっ、今日って木曜だっけ? あぶねー、すっかり忘れてたぜ」
「本当に何回先生にボコられても、全然懲りないんだから」
 はあっともう一度溜め息をつく准を見てから、眞姫は残念そうな表情をしている拓巳に視線を移し、にっこりと微笑む。
「今日は部活だけど、近いうちにカラオケ行こうね、拓巳。私も最近行ってないから、行きたいなって思ってたんだ。あ、そろそろ視聴覚教室に行こうか」
 腕時計を見てから席を立ち、眞姫はカバンを持った。
 拓巳は彼女の言葉に大きく頷き、無邪気に笑顔を浮かべる。
「おう、約束だからな、姫っ。楽しみにしてるぜっ」
 何気に愛しのお姫様とカラオケの約束した拓巳は、上機嫌で笑った。
 ……だが、次の瞬間。
「私も楽しみにしてるよ、拓巳。あ、そうだ、せっかくだからほかのみんなも誘う?」
 全く悪びれのない様子で、すかさず眞姫は楽しそうにそう言ったのだった。
 その言葉を聞き、拓巳は思わずガクリと肩を落とす。
「え? ああ、そうだな……ほかのみんなも、な」
「拓巳も拓巳だけど、姫も姫だよね」
 ふたりのやり取りを聞いて、准は思わずそう呟いて笑った。
 そんな准の言葉に、眞姫は不思議そうな顔をする。
「私、何か変なこと言ったかな?」
「ううん、姫らしくていいんじゃないかな。いつみんなでカラオケ行こうか、姫」
 優しく眞姫に微笑みを向け、准は彼女の肩を軽くぽんっと叩いた。
「そうね、いつがいいかな。みんなに聞いてみないとね」
 眞姫は准の言葉の意味が分からずに小首を傾げつつも、うーんと考える仕草をする。
 思惑通りにいかなかった拓巳は漆黒の前髪をかき上げると、ぼそっと呟いた。
「まぁ、そういうところが姫らしいんだけどよ……それにしても鈍すぎだぞ、姫……」
 それから2年Bクラスの教室を出た3人は、部室である視聴覚室へと到着する。
 ほかのクラスのメンバーは、すでに部室に来ていた。
 健人は眞姫の姿を見つけると、ふっと美形の顔に嬉しそうな表情を浮かべる。
 そしてさり気なく彼女の隣を位置取り、言った。
「姫、今日部活終わってから、どこか寄って帰らないか?」
「あ、健人」
 ふっと大きな瞳で健人を見上げた眞姫は、栗色の髪をそっとかき上げる。
 それから満面の笑みを浮かべ、言ったのだった。
「ちょうどよかった、健人。さっき拓巳とも話してたんだけど、今度みんなでカラオケに行きたいなって言ってたの。今日は部活で遅いし、せっかくなら長い時間遊べた方がいいから、休みの日にでも行かない? あ、いつだったら都合いいかな、みんな」
「姫……ちょうどよくないぞ、全然」
 眞姫の鈍さゆえに肩透かしをくらった健人は、そう呟いて深々と嘆息する。
 そんなふたりの会話を聞いて、祥太郎はわははっと笑った。
「みんなでカラオケか、俺はお姫様と一緒ならいつでもオッケイやでっ。それでもってこいつらの目を盗んで、こっそりふたりで抜け出そうなぁっ、姫っ」
 何気に眞姫の肩を抱いて悪戯っぽく笑う祥太郎に、健人は無言でじろっと目を向ける。
 眞姫は今度は祥太郎に目を向け、小首を傾げた。
「いつがいいかな、今週は土曜日も学校あるから、日曜日? あ、でも次の日休みの方がいいから、来週の土曜日とかは?」
「俺は構わんで、来週の土曜で。ふたりで駆け落ちしようなー、姫っ」
「駆け落ちかよっ。ったく、元はといえば俺が姫とふたりきりでカラオケ行こうと思ってたのによ。ま、俺も来週の土曜でいいぜ」
 ブツブツとそう呟いた拓巳を見た後、准も眞姫に視線を移して頷く。
「僕も来週の土曜日でいいよ、姫」
 眞姫はそれから、ふと普段通り優雅な微笑みを絶やさない詩音に目を向けた。
「詩音くんはどうかな? あ、カラオケじゃないほうがいい?」
「王子はお姫様と一緒なら、どこでも場所はこだわらないよ。それに王子の行くところは、自然と王子色に染まるだろうしね」
 ふふっと笑みを浮かべてそう言った詩音に、少年たちは思い思いに口を開く。
「そういえば今まで、詩音とカラオケって行ったことないよな。ていうか、詩音がカラオケ歌ってるのって、全然想像できねーんだけど」
「そうやな、どう考えても結びつかんわ、王子様とカラオケ。ある意味、めっちゃ興味あるけどなぁ」
「王子色って何だ……ていうかまさか、カラオケで妖精と合唱とかするんじゃないだろうな」
「妖精なら、まだいい方だよ。ていうか僕、架空の生き物が現れたら、ついていけるかどうか自信ないんだけど」
 眞姫は思い思いに呟く少年たちをぐるりと見回し、瞳をぱちくりさせた。
 それから楽しそうににっこり微笑みを浮かべ、ぽんっと手を打つ。
「じゃあ、来週の土曜日にみんなでカラオケ行こうね。今から、すっごく楽しみだな」
 少年たちは全員一斉に言葉を切り、そんな心から楽しそうな様子の眞姫の笑顔に思わず見惚れてしまう。
 そして、どうにかして抜け駆けしてやろうと考えながらも、愛しのお姫様の言葉に頷いたのだった。




 ――その日の夜。
 繁華街を歩きながら、その少年はブルブルと着信を知らせる携帯電話をカバンから取り出した。
 そして着信者の名前を確認し、はあっとひとつ溜め息をつく。
 それから、仕方がないように電話を取った。
「もしもし? どうしたんだよ、また嫌がらせの電話か?」
『この僕からわざわざ電話してやってるってのに、何だよその言い草。むしろ有難く思えよな』
 予想通り態度のデカい電話の相手・渚の言葉に、携帯電話を耳に当てたままその少年・智也はもう一度嘆息する。
「有難くってな、第一声からそれかよ、おまえは。それで、どうしたんだ?」
『あ? どうしたもこうしたもないっての。まったく、よりによって何でこの僕が、こんな厄介なことしなきゃいけなんだってカンジなんだけどさ……』
 電話の向こうで不機嫌そうにそう呟き、そして渚はあることを智也に話したのだった。
 智也はその渚の話を聞き、ふと表情を変える。
 それから漆黒の瞳を細め、笑った。
「珍しいな、おまえがそんなことしようとするなんて。ていうかその件なら、俺じゃなくてつばさちゃんに直接言えばいいだろう?」
 楽しそうにそう言う智也とは逆に、渚は面白くなさそうに答える。
『仕方ないだろ、気が付いちゃったんだから。僕だってこんな面倒なこと、本当は御免なんだけど。それに直接つばさに言うのがイヤだからおまえに言ってるんだ、そのくらい理解しろよな。つばさに電話なんてしようものなら、ピーピーうるさく説教されるのがオチだし。冗談じゃないっての』
「本当におまえって、つばさちゃんのことが苦手だよな。ていうか、説教されるようなことばっかりしてるからだろ。自業自得だ」
 智也の言葉にチッと舌打ちした後、渚は大きく溜め息をついた。
『ったく、うるさいな。この僕にそんなコト抜かすなんて何様のつもりだよ、おまえは』
「何様って……そっくりそのまま、その言葉おまえに返すよ」
 ふっと笑う智也に、渚は気に食わない様子で口を開く。
『ていうか、僕の言ったこと分かったのか? この僕が、こんなに丁寧に頼んでるってのに』
「丁寧ねぇ。ま、俺は別に構わないけどな。でも結局行動を起こす時は、つばさちゃんとふたりなんだぞ?」
 はあっと再び嘆息し、渚は仕方がないと言ったような声で言った。
『そんなこと、おまえに言われなくても分かってるよ。でもちょっとでも、つばさに説教される時間が少ない方がいいに決まってるだろ。そんなわけで、おまえからあいつにこの件、言っといてくれよな』
 智也は足を止め、ふと近くの壁に背を預ける。
 それから漆黒の前髪をかき上げ、こくんと頷いた。
「分かったよ、俺からつばさちゃんに言っておくよ。それよりも渚、来週の水曜日は杜木様から四天王に集合かかってるだろう? 遅れるなとは言わないから、せめて杜木様より早く来いよ」
『分かってるよ、いちいちうるさいな。人の電話代使って、ごちゃごちゃ言ってんじゃないっての』
「本当におまえと話してると、肩掴んで思いっきり膝蹴り入れたくなる衝動に駆られるよな」
 智也は渚の言葉に嘆息してそう言った後、ちらりと腕時計に視線を移す。
 そして再び、ゆっくりと賑やかな繁華街を歩き出した。
 渚は智也の様子に全くお構いなしで、相変わらず可愛げのない声で言った。
『そーいうわけだから例の件、つばさにおまえから話しといてよ。頼んだからな』
「ああ、分かった。おまえがこういう厄介なことやるってのも珍しいしな。じゃあまた、水曜日」
 そこまで言って、智也はピッと携帯の通話終了ボタンを押す。
 それからふっと笑みを浮かべ、漆黒の瞳を細めた。
 そして、ぽつりと呟いたのだった。
「あの渚がああ頼むくらいだから、今回はよほどなんだろな……ちょっと楽しみかも」