――12月3日・金曜日。
 12月に入って一層冷たくなってきた風に、その少女・清家眞姫は一瞬身を縮める。
 そんな眞姫の様子に、隣にいる少年・蒼井健人は右目のブルーアイを彼女に向けた。
「もう12月だからな、寒くなってきたな」
「そうだね、朝夕なんて特に冷えるもんね」
 そう言って、眞姫は冷たくなった両手にはあっと息を吹きかける。
 この日眞姫は、自宅の方向が同じ健人とふたりで下校していた。
「ねぇ、今日の英語のテスト、最後の選択問題の答え何にした? アかウですごく迷ったのよね」
「あの答えはアだよ。ウと迷うところだけどな」
「本当? よかったぁっ、悩んだんだけどアにしたんだよねっ」
 ホッとした表情の眞姫に、健人はブルーアイを嬉しそうに細める。
 健人は自分の隣でくるくると表情の変わる眞姫を見ることが、とても好きなのだ。
 他愛のない日常の会話でも、眞姫はいつも楽しそうによく笑う。
 そんな眞姫を見るたびに、健人は彼女のことを好きだと改めて感じるのだった。
 そしてふたりは、楽しく話をしながら地下鉄の階段を降り始めた。
 夕方の駅は、制服姿の学生や会社帰りのサラリーマンの姿が多く見られる。
 ホームで電車がくるのを待ちながら、眞姫はふわっとひとつ小さくあくびをした。
「昨日結構遅くまで試験勉強してたから、さすがに今日の授業中は眠かったわ」
「まぁ、明日試験休みだからな。それにしてもテストが終わってすぐ通常授業なのはキツかったな」
 今日は期末試験最終日であった眞姫たちだったが、2時間のテストの後、通常通り夕方まで授業が行われたのだ。
 その代わり、本来なら休みではない明日の第1土曜日が休日になっているのである。
 眞姫の栗色の髪が微かに揺れ、電車が音を立ててホームに入ってきた。
 ふたりは人の波に逆らわず、足を進める。
 座われこそしなかったものの、思ったほど車内は混んでいなかった。
「それにしても、やっとテスト終わってよかったよねぇっ。期末って教科多いから大変だったし。特に2日目の数学、難しかったよね」
「数学は、あの鳴海の作った問題だからな……」
 いつも映研部員たちに行う指導も容赦ない鳴海先生だが、数学の試験問題も同じく難しいものだったのである。
 眞姫は栗色の髪をかきあげ、言った。
「やっと試験終わったから、どこかに遊びに行きたいね」
「そうだな。姫は、どこか行きたいところあるのか?」
 健人にそう聞かれ、眞姫はうーんと考える仕草をする。
 それから思いついたようにふと顔を上げ、微笑んだ。
「観覧車に乗りたいかな、何となくそんな気分」
「観覧車?」
 眞姫の意外な答えに、健人は驚いたように聞き返す。
 それからちらりと時計を見て、そしておもむろに眞姫の手を取った。
 急に感じた健人の手の感触に、眞姫はブラウンの瞳を見開く。
 そんな眞姫に構わず、健人は言った。
「次で降りよう、姫」
「えっ? け、健人?」
 眞姫が言葉を発しようとしたと同時に電車が駅に到着し、扉が開く。
 健人は眞姫の手を引き、電車を降りた。
 眞姫たちが下車した駅は、本来降りる駅よりも少し手前の駅だった。
 健人は眞姫を伴い、スタスタと歩き出す。
「健人、どこに行くの?」
 急いで彼に遅れまいと早足で歩く眞姫に、健人は青い瞳を向ける。
 そして、表情を変えずに答えた。
「観覧車乗りたいんだろう? ここから乗り換えれば、観覧車あるところまで行けるからな」
「えっ、今から!?」
 まさか今から行くことになろうとは思ってもいなかった眞姫は、驚いた表情を浮かべる。
 健人はそんな眞姫の言葉に立ち止まり、言った。
「今からじゃ、都合悪いか?」
 眞姫は腕時計を見て時間を確かめ、それから健人に視線を移す。
 そして、にっこりと微笑んで言った。
「まだ時間もそんなに遅くないし……せっかくだから観覧車乗りに行こうか、健人」
「ああ。まだこの時間なら余裕で観覧車も動いてるだろうしな」
 眞姫の返事に、健人は本当に嬉しそうな表情を浮かべる。
 そしてふたりは別の線の電車に乗り換えながら、観覧車のある目的地へと向かったのだった。

 


 それから、数十分後。
 ふたりは観覧車のある公園に到着した。
「わあっ、見て! 観覧車!」
 きゃっきゃっと嬉しそうに、眞姫は大きな瞳を輝かせる。
 そんな眞姫に微笑み、健人は買ってきた乗車券を眞姫に手渡した。
 そして、おもむろに眞姫の頭を少し乱暴に撫でる。
「ほら、子供みたいにはしゃいでないで乗るぞ」
「あっ、もーうっ! いつも髪ぐちゃぐちゃにするんだから……あっ、待ってよ健人っ」
 わざと早足で歩く健人に、眞姫は駆け足で追いつく。
 健人は楽しそうに笑って、青い瞳を細めた。
「本当に姫って反応が面白いよな。鈍いし、単純だし。まぁ、姫のそういうところが……」
 そこまで言って、健人はふと言葉を切る。
 眞姫は小首を傾げ、健人を見つめた。
「そういうところが、何?」
「ん? そうだな……そういうところが、姫らしいなって」
 少し考えて、健人はそう答える。
「私らしい? そんなに私って鈍くて単純かな……自覚ないんだけど」
 うーんと考え込む眞姫の肩をぽんっと叩き、健人は笑った。
「ほら姫、前空いてるぞ、進もう」
 前に並んでいる人と間隔が空いたことに気が付き、眞姫は慌てて歩を進める。
 そんな眞姫の姿を見つめて、健人はもう一度微笑んだ。
 鈍くて単純な眞姫のそういうところが、健人にはとても可愛くそして愛おしく思えたのだ。
 平日の夕方ということもあり、そんなに待たずにふたりは観覧車に乗ることができた。
 観覧車の中に乗り込み、眞姫は大きな瞳をさらに大きく見開く。
「何かすごくいいね、観覧車! 来てよかったーっ」
 次第に見えてはじめる都会の風景に、眞姫は瞳を移して興奮気味に言った。
 健人は目の前で子供のように目を輝かせる眞姫を見つめ、満足そうに頷く。
「ああ。来てよかったよ」
「私の家ってどの辺かな? あそこがここなら……こっちかな? 高いところってすごく大好きなんだ、私っ」
 そんな眞姫の言葉に、健人はふっと笑って言った。
「姫、猫と何とかは高いところが好き、ってよく言うよな」
「あっ、もう健人ってばっ」
 そう言って笑う健人に、眞姫はむくれたような表情を浮かべた。
 そんな眞姫の膨れた頬を軽く摘み、健人はさらにくっくっと笑う。
「そんな顔するな、姫。姫が高いところが好きって言うからだぞ」
「もうっ、健人の意地悪っ」
 ぷいっとわざとらしく健人から視線を逸らし、眞姫は顔を背ける。
 そんな拗ねた様子も可愛らしく、健人はもう一度満足そうに微笑みを浮かべた。
「ところで姫、どうして観覧車に乗りたかったんだ?」
 健人の言葉に、眞姫は少し考える仕草をする。
 それから、言った。
「今までテスト勉強で机に向かってばかりで、ずっと下を向いてたでしょ? だから、目の前にパーッと広がるような景色とか見たいなぁって」
「だから観覧車か」
「うん。でもまさか、今日乗れるとか思ってもなかったけどね。あ……見て! 街の方も綺麗だけど、海側も綺麗よ?」
 都心とは逆方向に視線を移した眞姫は、夕陽の光を反射してキラキラと輝く海の風景に感嘆の溜め息をつく。
 徐々に高度の上がってきた観覧車の視界を遮るものは、すでに何もない。
 左右の窓の風景は、まるで別の世界かのようにそれぞれ違う表情をしている。
 眞姫はしばらく都会の風景に背を向け、ただ静かに広がる海の様子をじっと見ていた。
 健人はふと、そんな眞姫に言った。
「姫、こっち側見てみろ」
「え? ……あっ、すごく綺麗!」
 健人に言われて振り返った眞姫は、わあっと手を叩く。
 都心の高層ビルの中を、真っ赤な夕陽が今にも沈まんとしていたのだ。
 その夕陽の赤が、見慣れた街並みを幻想的なものに変えている。
 空の色と溶け合うその様に、眞姫はしばし言葉を失い、目を奪われていた。
 そして健人は、そんな夕陽に照らされた眞姫の横顔を見て、この瞬間の幸せを噛み締めていたのだった。




 それから、数分後。
 ふたりの乗った観覧車がちょうど頂上付近に差し掛かった、その時。
「!?」
「きゃっ!!」
 急にガタンッと観覧車が大きく揺れ、眞姫は驚いたように瞳を見開く。
 健人は眞姫を気遣うように、青い瞳を向けた。
「大丈夫だったか、姫?」
「あ、うん。ていうか、この観覧車……もしかして、止まってない?」
 恐る恐るそう言う眞姫に、健人はひとつ嘆息して頷く。
「ああ、どうやらそのようだな……」
 先ほどの衝撃のためか、ふたりの乗っていた観覧車はその場でピタリと動きを止めていた。
 空を赤く染めていた夕陽もいつの間にか水平線の向こうに沈み、夜の闇が変わりに空を支配し始めている。
 ネオンで輝きを増した街の風景と対照的に、海側は真っ暗で何も見えなくなっていた。
 眞姫は不安そうな表情を浮かべながら、そっと腕を擦った。
「やっぱり日が落ちたら寒いね。観覧車に乗っていられる時間が長くなるのは嬉しいけど、でもいつ動くようになるんだろう?」
「姫……」
 健人はそんな眞姫の言葉を聞いて、おもむろに立ち上がる。
 そして眞姫の隣に座り、自分の着ているコートを彼女にそっとかけた。
「これで少しは寒くないか? 姫」
「うん、すごくあったかいよ。でも、これじゃ健人が寒いよね?」
 そう言ってから、眞姫はふと何かを思いついたようにポンッと手を打つ。
 そして。
「じゃあ……こうやったら、健人もあったかいでしょ?」
「姫……」
 健人は青い瞳を、隣の眞姫に向けた。
 眞姫は健人との距離を詰め、かけられたコートの半分を健人の肩にもかぶせたのだった。
 自然と身体を寄せ合う体勢になり、眞姫の体温が健人にも伝わってくる。
 ふわりと揺れる栗色の髪が、健人の顔を優しくくすぐった。
「健人、すごくあったかいね……」
「姫もあったかいよ。それにしても、いつ動くんだろうな」
 健人は眞姫の肩をそっと抱き、すっかり暗くなった外に視線を移す。
 地上では、観覧車の整備士らしき人たちが慌しく作業をしていた。
 この調子ではもうしばらくすれば復旧するだろうと、健人はひとつ嘆息する。
 それよりも、こういう状況下で眞姫を不安にさせないようにしないといけない。
 彼女を安心させるため、健人は眞姫の身体をより自分の方へ引き寄せる。
 むしろ……このまま、眞姫とふたりきりでいられればいいと健人は思っていた。
「……姫?」
 健人はその時、ふと自分の胸に身体を預ける眞姫に視線を向ける。
 急に口数の少なくなった眞姫の顔を覗き込んだ健人は、青い瞳を細めた。
 ……健人の胸の中で眞姫は、いつの間にかスヤスヤと寝息を立てて眠っていたのだった。
 連日の試験勉強の疲れが、今になって出たのであろう。
 寒くないようにもう一度改めてコートを眞姫の身体にかけ直し、健人は間近にある彼女の顔をじっと見つめる。
 閉じられた瞳にかかるまつ毛は長く、肌は透き通るように白い。
 ピンクの唇は潤いがあり瑞々しく、安心したような表情で無防備に自分に身体を預けている。
「そんな可愛い顔して寝て……」
 健人は、寝ている眞姫を起こさないようにそっと顔を近づけた。
 少し眞姫の顎を持ち上げ、おもむろに青い瞳を閉じる。
 そして健人の唇が、眞姫のものと重なる……ほんの数センチ前。
「!!」
 再びガタンッと、大きく観覧車が揺れた。
 健人は閉じていた瞳を見開き、思わず眞姫から顔を遠ざける。
「きゃっ……あ、あれ? 私、寝ちゃってた? あ、観覧車動いたんだね」
 ゆっくりと目をこすり、眞姫は再び動き出した景色に瞳を向けた。
 健人は肩を落とし、はあっと大きく嘆息する。
「そうだな、動くようになったみたいだな……」
 あまり復旧したことが嬉しそうではない健人に、眞姫は首を傾げる。
「どうしたの、健人?」
「いや……それにしても、よく止まった観覧車の中で寝られるな、姫。さすが鈍い……」
「なっ、鈍いっていうか、最近試験勉強で夜が遅かったから、つい……」
 むうっと拗ねるように顔を健人から背け、眞姫は恥ずかしそうに頬を赤くした。
 そんな眞姫にふっと笑い、健人は寝ている時に乱れた眞姫の髪を手ぐしで整える。
「ていうか姫、もうすぐ地上だろう? 髪の毛、ボサボサだぞ」
「えっ!? あっ」
 慌てて髪を整え、眞姫は自分の肩にかかっている健人のコートを手に取った。
 そしてにっこり微笑んで、それを健人に返す。
「コート、ありがとうね。寝てたからどのくらい観覧車が止まってたか分からなかったけど……健人のコート、すごく暖かかったよ」
「止まってたのは、5分くらいだったよ。もう寒くないか?」
「うん……っくしゅんっ!」
 コクンと頷いた途端、眞姫は小さくくしゃみをした。
 健人は、そんな眞姫の様子に笑顔を向ける。
「おい、本当に大丈夫か?」
 眞姫は照れたように笑い、もう一度頷いた。
 それから数分後、ふたりは無事に観覧車から地上に降りた。
「すごく楽しかったね! 観覧車止まっちゃった時は驚いたけど、そういう非常事態って滅多に経験できないし、面白かったよ」
「ていうか、その非常事態にグーグー寝てたのは誰だ?」
 最寄の駅に向かいながら、健人は隣を歩く眞姫にそう言って笑う。
「もうっ、寝てたっていってもちょっとだけでしょ? 寝不足だったんだからっ」
「そう怒るな、本当のことなんだしな」
「健人ってば……」
 恥ずかしそうに俯く眞姫を見て、そして健人はひとつふうっと嘆息する。
 それからすっかり暗くなった空に瞳を向け、小声で呟いた。
「もう少し、観覧車止まってる時間が長かったらよかったんだけどな……」
「え? 健人、何?」
 健人の言葉が聞こえなかった眞姫は、きょとんとして瞳をぱちくりとさせる。
 健人は優しく青い瞳を細め、そっと眞姫の頭を撫でた。
「姫、今日のことはふたりだけの秘密だからな。姫が寝てたことも黙っておいてやるから」
「うん、秘密ね。寝てたこと、本当に誰にも言わないでよ?」
「じゃあ、指きりだな」
 健人はそう言って、眞姫の目の前に小指を差し出す。
 眞姫はにっこりと微笑み、彼の小指に自分のものを絡めた。
「すごく楽しかったよ、また乗ろうね」
 指きりをした後、眞姫は健人に満面の笑顔を向ける。
 健人はその言葉に大きく頷き、そして彼女だけを映す綺麗なブルーアイを嬉しそうに細めたのだった。

FIN





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