「お帰りなさい、先生」
 リビングに足を踏み入れた瞬間、絶妙のタイミングで向けられたのは。
 まるでそこが彼の家かと錯覚してしまいそうな、柔らかな印象の微笑み。
 だが優雅にジャスミンティーを口にする詩音を一瞥しただけで、鳴海先生は本来の豪邸の主へと視線をやって。
 端的に、もう何度目になるか分からないこの言葉を紡いだ。
「いつも言っていますが、いい加減、急に呼び出すのはやめていただけませんか」
「まぁまぁ、そう言わずに座って。美味しいジャスミンティーでもいかがかな?」
 そうにこりと微笑む父の表情は、すぐ隣でやたら寛いでいる従兄弟のものとやはり雰囲気がそっくりであると。
 二人の笑顔を見つつ大きく嘆息しながらも、先生はそれ以上何も言わずにソファーに腰を下ろした。
 ……いや、分かっているのだ。
 人一倍どころか二倍も三倍もマイペースで掴みどころのない父や従兄弟に、何を言っても無駄だということは。
 ただ、それは重々承知しているものの。
 性格的に毎回言わずにはいられないのである。
 そして息子がいつもの場所に座ったことを確認した傘の紳士は。
「お帰りなさい、将吾」
 良い香りのするジャスミンティーを置きながら、そう嬉しそうにブラウンの瞳を細めたのだった。
 ……この人のこんなところが、小さい頃からずっと今でも苦手で。
 同時に、ここに帰ってくると何故か不思議と落ち着くのは……昔から、変わらない。
 毎度急に呼び出されることは確かに困るが。
 今日も狙ったかのように放課後の職員会議が終わった瞬間に連絡してくるあたり、良くも悪くも父らしい。
「それで、今日はどんな用件ですか」
 鳴海先生は、にこにこと自分を見つめる傘の紳士にもう一度溜め息をついて。
 小さく首を傾けつつ紳士は飄々と答える。
「用件? 今日は詩音くんも遊びに来てくれたからね。皆で楽しい会話とお茶なんて素敵だろうなと」
「楽しく会話とお茶、ですか……明らかに人選ミスと思うのは私だけでしょうか」
「さ、先生も冷める前にジャスミンティーをどうぞ。ゆっくり寛いでね」
 ……だからおまえが客人だろう、と。
 そうツッこむことは最早せずに鳴海先生は今度は詩音へと目を向けて。
「父はいざ知らず……おまえは、楽しい会話をしに来たわけではないのだろう?」
 そう、彼へと言ったのだった。
「ん? 僕も伯父様や先生と、お茶と会話を楽しもうと来たんだよ?」
 詩音はそんな言葉にくすりと笑んで。
 そっとティーカップをソーサーに置いてから、逆に先生へと訊き返す。
「ねぇ、それでさ。先生はどうするの?」 
「どうするとは……質問の意図がよく分からないな。よって、それには何とも答えられない」
 楽しい会話をしに来たのではないのかと、じろりと厳しい印象の視線を向けられても。
 何ら変わらず優雅な微笑みを絶やさない詩音。
 鳴海先生はそんな彼を見据え、今までで一番大きな溜め息をついた後。
 再び口を開く。
「祥太郎の件に関して言っているのならば、関与する気は一切ない」
「うん、まぁ今の時点ではそうだろうね」
 詩音は先生の返答に素直に頷く一方で。
「じゃあ、それ以外のことに関しては?」
 さらに、そう質問を重ねた。
 鳴海先生は再び向けられたそんな具体性のない問いにあからさまに眉を潜めるも。
 今度は、答える気はないと言わんばかりに口を噤む。
 そんな先生の様子に詩音は穏やかな印象の瞳をそっと細めてから。
 ふと暗くなり始めた窓の外に一瞬意識を向け、立ち上がりつつ、先生へと視線を戻す。
「もっと楽しい会話やお茶を楽しみたかったのは山々だけど。どうやら、王子は行かなきゃならないみたいだね」
「…………」
「……詩音くん」
 窓の景色を見つめているのは、何も詩音だけではなかった。
 先生や紳士も微かにその表情を変えている。
 詩音は二人を交互に見つめ、もう一度笑んで。
「先生の判断はね、それで正しいよ。でも安心してて。王子や他の騎士達が、させないから」
 美味しいジャスミンティーご馳走様、と笑むと。
 鳴海邸のリビングを、後にしたのだった。




 容赦なく降り注ぐは、漆黒を帯びた弾丸の雨。
「……くっ!」
 避けることなど許さぬと言わんばかりに次々と唸りを上げ迫る光を見据えて。
 祥太郎はグッと地を踏みしめ、気の防御壁を成す。
 そしてぶつかり合う異なる輝きが大気を劈く程の衝撃音を生んで。
 微かに痺れる手の感触に苦笑しつつも、咄嗟に身を翻した。
 そんな祥太郎の首があった位置を的確に狙い繰り出されたのは、鋭き漆黒の手刀。
 だがその空を割いた斬撃はすぐに拳へと変わり、彼を追従して放たれる。
「っとと! さすがに、軽口言う暇もないわ……!」
 繰り出された攻撃を避けた位置に飛んできた蹴りを紙一重でかわし、さらに再び襲いくる拳を何とか掌で受け止めて。
 祥太郎は彼女の次の攻撃に備え、身構える。
 美味しいタルトデート後の彼の状況はといえば。
 強い結界内で、邪者として自分を殺さんと仕掛けてくる綾乃の猛攻に必死で耐えている最中。
 そして――ヒュッと風が鳴った、次の瞬間。
「……あれ? 綾乃、ちゃん?」
 ピタリと何故か寸止めされた拳に、祥太郎は思わず瞳をぱちくりとさせて。
 そんな彼を目の前にした綾乃は、ふっと笑むと、こう言ったのだった。
「ねぇ、祥太郎くん。今のまま手ぇ出さないんだったらさ……そろそろ死んじゃうよ?」
「! ……ぐっ!!」
 刹那放たれたのは、身体を貫くかのような重い衝撃。
 至近距離で繰り出される漆黒の気の塊が標的である彼の身体を捉えて。
 反射的に両腕を組んで咄嗟にガードしたものの、その威力を消すことができず、体勢を崩した祥太郎の足が一瞬止まる。
 そんな生じた僅かな隙を決して逃さず、綾乃は大きく地を蹴って。
 強烈な膝を彼の腹部へと鋭角に突き上げ、前のめりに揺れるその顎を狙いすまし、今度は漆黒の光纏う掌で身体ごと宙へと跳ね上げたのだった。
「かはっ……く、うッ!!」
 祥太郎は飛びそうになる意識を何とか気力で保ち、さらに放たれた蹴りこそ間一髪で避けたが。
 綾乃の手からすかさず放たれた漆黒の衝撃をモロに受け、数メートル背後の壁に強く叩きつけられる。
 そんな彼に立ち上がる隙すらもう微塵も与えぬと。
 次々と容赦なく唸りを上げて爆ぜるは、黒き光の連打。
 そして綾乃はスッと手刀に輝きを宿して。
 余波で満ちる中、一気にターゲットを仕留めるべく、掌を天高く振り翳した。
 だが――その時。
「……!」
 綾乃はハッと瞳を見開き、動きを止めて。
 天へと掲げた掌に急に纏わりついてきたそれらを振り払った。
 祥太郎へと、最後の一撃を振りおろさんとしていた彼女の動きを止めたもの、それは。
「てか……何で音符っ?」
 そう、沢山の音符であったのだ。
 いや、綾乃の周囲だけではない。
 いつの間にか結界中に、無数の音符が飛び回っていたのである。
「あ……そっか、これってアレでしょ、祥太郎くん。あの彼の、ワンダーランド」
「ワンダーランドねぇ……ま、王子サマのお出ましっちゅーわけやな」
 何度も瞬きしつつ周囲を見回しながらも、ポンッと手を打った綾乃の言葉に頷いて。
 けほっとむせた後、祥太郎はようやく立ち上がった。
 そして――耳に聞こえるのは。
 天へとお行儀良く整列していく音符たちが紡ぐ、旋律と。
「! あ、これって……!」
「おや、この曲をご存知なのかな? 勇ましい黒きレディ」
 美しいピアノの音色に乗って響く、声。
 その声に振り返った綾乃は驚いたように大きく瞳を見開くと。
「えっとねぇ……まずどこからツッこんでいいか、分かんないんだけど」
 この状況を作り出したと思われる彼に、思わずそう呟いたのだった。
「やぁ、祥太郎。ご機嫌いかがかな? 約束通り、パトリシアに乗って華麗に王子参上だよ」
「ご機嫌いかがって……うんまぁ見ての通り、絶賛大ピンチやったわ。てかパトリシア……」
 ふわり白いペガサスから優雅に降り立った詩音に、祥太郎はいろいろな意味で苦笑してから。
「めっちゃ助かったけど、相変わらずな不思議空間やなぁ」
 すっかり彼の空間能力で満たされた結界内をぐるりと見る。
「むむう……祥太郎くんにしか意識向いてなかったからなぁ。油断しちゃった」
「……それって嬉しいような、嬉しくないような……複雑なオトコゴコロやな」
 小さく首を傾ける綾乃に、本気で複雑な表情を浮かべる祥太郎。
 詩音はそんな普段通りの二人のやり取りに微笑んでから。
 綾乃の方へと目を向けると、こう彼女に訊いたのだった。
「そういえば、君はこの曲を知っているようだけど」
「うん……これって、ショパンの『軍艦ポロネーズ』、よね」
 ふいに変わる、綾乃の瞳の印象。
 それは元気な彼女のものとも、邪者の彼女ともまた違う色をしている。
「グンカンマヨネーズ? マヨネーズで和えたシーチキンとかサラダを、酢飯と一緒に海苔でくるーっと巻いてーっと」
「って、それは寿司でしょ! てか祥太郎くん……そのボケ、ぶっちゃけ寒くて全然面白くないよ」
「ごふっ! ちょ、ツッコミ強すぎやし……っ!?」
 綾乃の予想外な強烈肘鉄ツッコミをふいにもらって。
 心身ともに痛い目に遭い堪らずうずくまる、涙目な祥太郎。
 詩音はそんな祥太郎を後目に、綾乃へと言葉を続ける。
「そう、ショパンの『軍艦ポロネーズ』。この曲はね……2年くらい前になるかな? 僕のコンサートに来てくれた知り合いに弾いてあげた、思い出がある曲なんだ。彼はこの曲の印象通り、明快で親しみやすい人だったよ」
「明快で……親しみやすい人、だった」
 綾乃はふと、そう呟いて俯く。
 ……クラシックなんか全く興味のない自分にこの曲の題名を教えてくれたあの人も。
 聞こえる旋律のように、明快で親しみやすい人だったから。
「……ていうか、その彼ってもしかして」
「おっといけない、今日はここまでかな。魔法が解けちゃうからね」
 ふいに音符たちが奏で上げた曲が終わりを告げ、結界内に一瞬静寂が戻ると。
 詩音はおもむろに、張り巡らされている周囲の結界を解除したのだった。
 それを確認した綾乃は、涙を拭いつつ立ち上がった祥太郎に手を振りつつ、歩き出す。
「じゃあ、今日は遅いし帰ろっかなー。タルト美味しかったねぇっ、祥太郎くんっ♪」
 そしてふと首を傾けつつ、去り際にこうも付け加える。
「次こそ確実に仕留めるためにも、今度は周囲にも少し気を付けておかないとだねぇ」
「次か……やっぱ次もあるんか、そうなんや」
 彼女に手を振り返しながら、ツッコミの入ったおなかをさする祥太郎に。
 綾乃の背中を見送った後、詩音はいつもの穏やかな笑みを向けた。
「今回はなかなか危なかったけど、さすが騎士はしぶとくて丈夫だね。とにかく無事で、王子は安心したよ」
「しぶとくて丈夫って……うん、でもまぁ来てくれて、正直めっちゃ助かったわ」
 祥太郎はそう詩音に素直に礼を言ってから。
「ただな、王子様……パトリシアに乗れんかったのだけが、騎士の心残りなんやけど」
 そのハンサムな顔に笑みを取り戻し、こう続けたのだった。