EXTRA SCENE ピンクの国の魔法の傘

「那奈、どうしたの? 何かアイちゃんとあった?」
 私は学校に着くやいなや、親友の那奈にそう声をかける。
 そんな那奈の顔には、いかにも恋人と昨日喧嘩しましたと書いてあるような暗い表情が浮かんでいたからだ。
 那奈は、涙をいっぱいに溜めた漆黒の瞳を私に向ける。
 そして、こう言ったのだった。
「知美……大河内先生ったらね、ひどいの。昨日の夕食に肉じゃが作ったらね、ニンジンが多すぎるって文句言うんだもん。それがきっかけで、喧嘩になっちゃって……」
 目の前の親友は、大真面目に悩んでいるけど。
 何だか喧嘩の内容も、那奈とアイちゃんらしくて微笑ましい。
 でもそんなことは言えず、私は俯く那奈を宥める。
「せっかく作ってあげたのにね。アイちゃんってば贅沢よ、那奈の手料理が食べられるだけでも有難く思わないといけないのにねぇ」
「別にね、そんなに感謝とかして欲しいわけじゃないの。でも、ニンジンが多いからって、あんなに文句言って残すことないのに……」
 そう言って、那奈は泣きそうになりながら必死に話をする。
 ていうかアイちゃんってば、小学生じゃないんだから。
 そうツッこみたいのを抑えながらも、私はその後も那奈の話を聞いてあげた。
 ――それから、数時間後。
「あの、竹内さん」
 廊下をひとりで歩いていたその時、遠慮気味に声をかけられて私は振り返った。
 そこには、分厚い眼鏡をかけた胡散臭い白衣姿のひとりの教師。
 那奈の恋人・アイちゃんこと大河内先生だった。
 本当にプライベートと学校で、こんなに違うなんて。
 眼鏡を外したらかなりいい男なのに、勿体無い。
 そう思いながらも、私は立ち止まった。
「何ですか? 大河内先生」
 アイちゃんはきょろきょろ周囲を見回した後、言いにくそうに言った。
「実は昨日、今宮さんと喧嘩したんですが……」
「あー、その話なら那奈から聞きましたよ、先生」
「えっ?」
 アイちゃんは少し驚いたような表情をして、私に目を向ける。
 私ははあっとひとつ溜め息をつき、そしてビシッと言ってやった。
「那奈と仲直りしたいなら、謝ってニンジンを食べるべきです、先生っ。ニンジンを食べるのと那奈と喧嘩したままの状態、どっちがイヤですか?」
 私の言葉に、アイちゃんはウッと言葉をつまらせる。
 それから無意識的に眼鏡をスッと外し、漆黒の前髪をかき上げた。
 本当にアイちゃんって、眼鏡を外した途端にその印象が変わるのよね。
 そう思っている私に、プライベートバージョンのアイちゃんはブツブツと言った。
「いや、それは分かってるんだけどよ。でもニンジンなんて食えるかよっ。ほかに何か、那奈の機嫌直す方法は……」
「そんなのないわよ。ていうか、アイちゃんの愛ってその程度だったんだぁ、ふーん。きっと悠くんなら、何でも那奈の作ったもの美味しい美味しいって食べるわよ? あー那奈が知ったらショックだろうなぁ、自分と仲直りするよりもニンジン食べない方がいいって思われてるだなんてぇ」
「バ、バカ! そんなんじゃねーよっ。ただ、ニンジン食わないで済むんなら、食いたくないって言ってるだけだよ」
「だーからぁ、そんなの甘いっての。ニンジンがっつり食べて、おまえのことこんなに好きだーって抱きついてやれば大団円よ」
「ニンジンがっつりかよ……」
 めちゃめちゃブルーな顔をしているアイちゃんを見ると、余程ニンジンが嫌いらしい。
 那奈じゃないけど、アイちゃんって何かホント子供みたい。
 アイちゃんははあっと大きく溜め息をついた後、もう一度漆黒の前髪をかき上げた。
 そして、意を決したように言ったのだった。
「あーくそっ、こうなったらニンジンだろうがなんだろうが、がっつり食ってやろうじゃねーかよっ。かかってこいってんだっ」
「おっ、なかなか男らしいじゃなーいっ。その意気よ、アイちゃんっ」
 本当に単純なんだから。
 腹を括ったように気合を入れるアイちゃんを見て、私は可笑しくてクスクス笑ってしまった。
 でも子供っぽいけど……そんな男らしさもあるアイちゃんが彼氏だなんて、ちょっと私は那奈が羨ましかった。
 だって、私は……。
「竹内」
 アイちゃんに名前を呼ばれ、私はふと顔を上げる。
 アイちゃんはポンッと私の頭に手を添え、ニッと笑った。
「サンキューな、竹内。頑張ってニンジンなんてペロリと食ってやるぜ」
「まったく、手がかかるんだから。あ、今度ジュースくらい奢ってよねーっ」
「おうよっ。じゃあな」
 軽く手を上げて歩き出したアイちゃんに笑いかけ、そして私も再び教室へ戻るために歩みを進める。
 それから、しばらくして。
 2年Cクラスの教室を目の前にした、その時。
「知美……ちょっと、いいかな」
 1年の時に仲の良かった同級生の子から、私は声を掛けられた。
 私は再び立ち止まり、声を掛けてきた彼女を見つめる。
 きっと、フラれたかなんかしたんだろう。
 彼女の泣き腫らした目を見れば、一目瞭然だ。
 そして彼女は、私の予想通りのことを言ったのだった。
「昨日ね、Aクラスの蒼井くんに告白したんだけど……玉砕しちゃった」
「マジで!? ていうか、蒼井くんってモロBクラスの清家さんのことが好きっぽくない? だから、焦っちゃダメって言ったでしょ?」
「でもね、我慢できなかったのっ」
 私の胸にしがみ付いてワッと泣き出してしまった同級生の背中を優しく擦りながら、私はフラれた彼女を慰める。
 ――昔から、そうだった。
 何故だか知らないが、私はよく人の恋愛の相談を受けていた。
 人の色恋沙汰にはすごく興味あるから、別に苦でもなんでもないんだけど。
 私は相談された時は、なるべくその人がかけて欲しいって思ってる言葉を選んで言ってあげている。
 だからきっと、みんな私に相談するんだろうなとは思うんだけど。
 でも……。
 誰でもないこの私が、恋愛に対して一番不器用なのかもしれない……。


 ――その日の夜。
 外は雨が降っているのか、ポツポツと雨音が聞こえる。
『……それでね、大河内先生、今日はニンジンも残さず綺麗に食べてくれたのっ』
 学校での暗かった声とはうって変わり、電話の向こうの那奈の声は明るい。
 どうやらアイちゃんは、男をみせてニンジンに打ち勝ったらしい。
 元気になった親友の声を聞き、私もホッとする。
 前に那奈は、アイちゃんと1週間くらい喧嘩した時があった。
 その時の那奈の落ち込みようは、本当に見ていられなくて。
 でも、今回は喧嘩の原因が原因だったとはいえ、早く仲直りしてよかったな。
 そう、私が思った……その時。
『ねぇ、知美。知美はさ、どうなの?』
「どうって、何が?」
 那奈の言葉の真意が分からず、私は聞き返す。
 那奈は少しどうしようか考えて、それから遠慮気味にこう言ったのだった。
『賢一朗さんと、まだヨリ戻さないの? もう喧嘩したまま半年以上経つでしょ……』
「ヨリ戻すも戻さないも、もうアイツのことは見限ったんだから。アイツだって……何も、連絡してこないし」
 私はそう言って、ふと部屋の隅に置かれている写真立てを見た。
 それは……前の彼氏・賢一朗(けんいちろう)と撮った、思い出の写真。
 前の彼氏だった賢一朗は一歳年上の高校3年で、顔もまあまあだし、医学部目指してるだけあって頭もいい。
 そして何より、穏やかでめちゃめちゃ優しい男だった。
 でも……。
「もう、あの優柔不断さにはウンザリだもん。年上なのに、私が言わないと何も動かないし。それに受験勉強で、私どころじゃないんじゃないの?」
『でも賢一朗さんってすごく優しかったし、姉御肌な知美とは合うと思うんだけどなぁ』
 那奈はそう言った後、ふうっとひとつ溜め息をつく。
 それから、こう続けたのだった。
『自分の気持ちに素直にならなきゃダメだよ? 知美』
 ……それからしばらく話をして、私は那奈との電話を切った。
 私は部屋の隅に置かれていた写真立てを手に取り、賢一朗のことを思い出す。
 彼と別れたのは、半年ほど前。
 賢一朗はどこに行くにも何を食べるにも、私の好きなところでいい、私の好きなものを食べようって。
 そんな彼の優しさが、最初は嬉しかったけど。
 半年前の私の誕生日の時も、賢一朗は同じことを言ったのだった。
 年上なんだし、男なんだし……いつもとは言わない、ただ大事な日くらいは引っ張って欲しかったのに。
 そして私は、衝動的に彼に別れ話を持ち出した。
 しかも別れ話を持ち出した時でさえ、賢一朗はこう言ったのだった。
『知美ちゃんが別れたいのなら、仕方ないよね』
 私はその言葉を聞いて、思いっきり彼の頬を引っ叩いた。
 それから彼を置いて、その場を駆け出したのだった。
 それ以来、彼とは会ってない。
 本当は……引き止めて、追いかけてきて欲しかったのに。
 それからしばらく、私は彼からの連絡を待っていた。
 でも、彼から連絡はなかった。
 私から別れ話を切り出した手前、素直にこっちから連絡を取ることもできない。
 結局、それからもう半年が経ったのだった。
 ――私はやっぱり、恋愛の達人なんかじゃない。
 人の恋愛相談なんて、聞いてあげられる立場じゃないのに。
 自分の気持ちに素直じゃないのは、恋愛に不器用なのは……この私なんだから。
 そう思った――その時。
 私は、ハッと顔を上げる。
 携帯電話が誰かからの着信を受けて、けたたましく鳴り出したのだった。
 私は携帯を手に取り、着信者の名前を確認する。
 そしてその電話に出るか出ないか、一瞬迷ったのだった。
「……もしもし」
 私は悩んだ挙句、ゆっくりと電話を取る。
 その、電話の相手は。
『知美ちゃん? 僕、だけど』
「賢一朗……」
 懐かしい穏やかな声に、私はそれだけ言うのがやっとだった。
 電話の相手は、前の彼氏の賢一朗だった。
 私は黙って、次の彼の言葉を待つ。
 でも賢一朗は、なかなか次の言葉を言おうとはしない。
 ふたりの間に、数秒の沈黙が生まれる。
 ……それから、どのくらい経っただろうか。
 ようやく口を開いた彼の言葉は、相変わらずのものだった。
『ごめん、電話なんてして迷惑だよね……』
「…………」
 どうしてこの男は、こんなにハッキリしないんだろう。
 私はこのまま、電話を切ろうかと思った。
 でも……ふと、那奈に言われた言葉を思い出す。
 自分の気持ちに素直にならなきゃダメだよ、と。
 正直、賢一朗から連絡があって嬉しかったのは事実で。
 私はそのまま電話を切らず、ゆっくりと彼に訊いた。
「どうしたの? 迷惑なんかじゃないよ」
『うん……今、知美ちゃんちの前にいるんだ』
「えっ!?」
 私は賢一朗の言葉に驚いて、カーテンと窓を開けて外に目を向ける。
 その言葉通り――雨の中家の前で傘を差して立っていたのは、紛れもなく賢一朗だった。
「えっ、あ……今から出て行くから、待ってて」
 私はそれだけ言って電話を切り、部屋を出て玄関に向かう。
 そして愛用のピンク色の傘を手に、家を出た。
「知美ちゃん、ごめんね。急に電話して」
「どうしたの? 何でいきなり……とにかくここじゃなんだから、移動しようよ」
 家の前で男の子とふたりで立ち話をするのも気まずいので、私は彼を連れて歩き出した。
 それから、近くの屋根のある公園のベンチに座り、話をすることにした。
 ピンクの傘をたたんで雨露を払った後、私は賢一朗に向き直る。
 穏やかで優しい印象は、半年前と何ら変わらない。
 でも今受験生で勉強が大変だからか、少し疲れているようにも見えた。
「受験勉強、どうなの? うちの学校の……聖煌学園大学の医学部だよね、志望校って」
「うん。大変だけど、一応受験生してるよ。知美ちゃんは元気?」
「見ての通り、私もそれなりに元気だよ」
 当たり障りのない、そんな会話。
 でも、こうやって話をするのも半年振りだ。
 私たちはしばらく、そんな当たり障りのない会話をした。
 それから、数分後。
「…………」
 ふと、賢一朗は口を噤む。
 それから意を決したように顔を上げて、言ったのだった。
「こんなこと僕から言える立場じゃないかもしれないけど……僕たち、やり直せないかな」
「え?」
 唐突にそう言われ、私は驚いた顔をする。
 それから俯き、彼に言った。
「でも私が別れようって言った時、私がそうしたいなら仕方ないって言ったじゃない」
「あの時は……知美ちゃんが僕と別れたいって思ったのなら、これ以上追いかけても仕方ないって思ったんだけど……でも、やっぱり知美ちゃんのこと、忘れられなくて。やり直したいんだ」
 真っ直ぐ私を見つめる、彼の視線。
 私はそんな彼の目を見つめ返し、そして笑った。
「初めてだね、賢一朗」
「え?」
「自分から、こうしたいって賢一朗が言ったのって」
「そう、かな」
 そして小首を傾げる賢一朗に、私はこう続けたのだった。
「うん、やり直そう。賢一朗が、やり直したいって言ってくれて……それが、嬉しかったよ」
「知美ちゃん……」
 賢一朗はホッとしたように、穏やかな顔に笑顔を宿す。
 その後、そっと私の頬に手を添えた。
 それから、人目を気にするように周囲を見回す。
 私はそんな賢一朗の様子に、思わずくすくすと笑ってしまった。
 ――そして。
「ほら、これだったら周りから見えないでしょ?」
 私は、持っていたピンク色の傘を開く。
 それから、周りから私たちの様子が見えないような角度でそれを差した。
 賢一朗は私の手から傘を受け取った後、ふっと微笑む。
 そして。
 彼の唇が……そっと、私のものと重なった。
 半年振りに交わした口づけは、前と変わらずに優しくて。
 でもそんな優しさの中に、彼の内に秘める男らしさのようなものも感じたのだった。
 賢一朗と何度も何度もキスを交わした後、私はニッと口元に笑みを浮かべる。
 そしてポンッと彼の肩を叩いて、言った。
「頑張って医学部に合格して医者になって、高給取りになってよね、賢一朗っ」
 きゃははっと笑う私に、賢一朗は素直に頷く。
「うん、頑張るよ」
 それから彼は、もう一度私の身体をぎゅっと抱きしめた。
 ピンクの傘の下で――私たちはもう一度、お互いの気持ちを確かめるようにキスをする。
 私は、恋愛の達人では決してないかもしれないけど。
 その時、改めて思ったのだった。
 恋愛において大切なことは……自分の気持ちに、素直になることだって。


EXTRA SCENE -FIN-




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