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EXTRA SCENE ドロシーと騎士
桜の開花宣言が出たばかりの、ある天気の良い春休み。
心地よい春風に吹かれて肩より少し長い黒髪を揺らしながら、その少女・今宮那奈はふと隣の恋人に瞳を向ける。
「徳川将軍家展、家康をはじめ二代目から十五代目までの将軍の肖像画や彼らの描いた絵や書状など、面白かったですね。それに明治以降の徳川宗家の展示もあって、とても興味深かったです。徳川は多産の傾向だったんですが、宗家はたびたび血筋が途絶えてその度に御三家や御三卿から養子を迎えることも少なくなかったんですよ。徳川宗家といえば、16代家達は総理大臣になるはずだったという話もあって……」
その恋人は今、分厚い眼鏡の下の漆黒の瞳を子供のようにキラキラと輝かせながら、楽しそうに徳川家について語っている。
この日那奈は恋人である大河内藍先生と、博物館で催されている『徳川将軍家展』に足を運んだのだった。
いわゆる、恋人たちの休日のデートというものである。
日本史の教師という職業柄か、先生は展示品ひとつひとつを楽しそうに見つめながら、詳しくそして丁寧に徳川家について解説をしてくれた。
そしてもちろん、徳川家についての話も楽しかった那奈であったが。
それ以上に、隣で生き生きと好きなことを話している大河内先生の姿を見ることが何よりも嬉しかったのである。
ふたりが付き合いだしたのは、数週間前――ホワイトデーの日。
この日、ふたりはお互いの気持ちを確かめ合い、晴れて恋人同士になった。
だがふたりは、生徒と教師という関係でもある。
大河内先生はワケありの期間限定教師とはいえ、さすがにまだ教師として教壇に立つ立場上、生徒である那奈と付き合っていることが表沙汰になってはいけない。
なので、ふたりはそんな恋人という関係を周囲に隠しながらも、順調に交際していた。
「今宮さんは徳川将軍家展、どういうところに興味を持ちましたか?」
穏やかで那奈の理想のカタマリである先生バージョンの彼は、恋人同士となった今でも何故か彼女に対して敬語である。
だが彼のそんなところがまた、那奈は大好きなのであった。
そして最初は戸惑っていたプライベートバージョンの先生も、今ではすっかり大好きな彼の一部なのである。
むしろ最近では、そんな先生の変化を楽しむほどになっていた。
先生の言葉に少し考える仕草をして、それから那奈は彼の質問に答える。
「私は、後半の方にあった大奥女人の、徳川ゆかりの女性たちについての展示が面白かったです。将軍の奥方だから派手かなと思ったんですけど思ったよりも質素な感じだったし、それに14代家茂の奥さんが京都に滞在する夫へあてた手紙とかすごく見てて面白かったです」
そう言って、那奈はふと先生に視線を向けた。
……その次の瞬間。
那奈は思わずドキッとし、言葉を切ってしまった。
自分を優しく見つめる、先生の柔らかな眼差し。
その澄んだ綺麗な両の目が自分だけを映していることに気が付き、胸がドキドキと鼓動を刻み始める。
「大奥の展示物も見ていて面白かったですよね。大奥につとめる御殿女中の中で大奥でのことを外で他言しないという暗黙の了解があったため、多くの人にとってその世界は未知だったんですよ」
先生は那奈の答えを聞いてにっこりと微笑み、そう言った。
それから頬を赤く染めている彼女の様子には気づかないまま、ふと時計を見る。
「そういえば、展示をゆっくり見すぎて昼食まだ取っていませんでしたね。何か食べますか?」
朝の開館時間に博物館に到着したふたりだったが、じっくりと展示を見て回ったためにすでに時間は昼の14時を回っていた。
那奈はその先生の言葉に、朝から何も食べていなかったことを思い出す。
そしてこくんと頷き、言った。
「はい、先生。どこで食べますか? あ、この近くに美味しいラーメン屋あるの知ってますけど、そこでいいですか?」
「ラーメンですか、いいですね。じゃあ行きましょうか」
那奈の言葉に頷き、先生は優しく微笑む。
ふたりとも金持ちの御令嬢と御曹司であるが、お互い全く金持ち趣向ではない。
むしろ高級なレストランよりも、気軽に入れる庶民的な店が好きなのである。
那奈は先生の手を取り、大通りから少し狭い横道に入る。
「先生、大通り通るよりもここを通った方が近道なんですよ」
ぎゅっと握った手の温もりにドキドキしながら、那奈ははしゃいだように先生を促す。
そんな楽しそうな那奈の様子に笑顔を向け、先生も漆黒の瞳を細めた。
――その時。
「! 今宮さんっ」
「きゃっ!!」
先生が声をあげたのも遅く、那奈は前から来た人にぶつかって体勢を崩す。
咄嗟にそんな那奈の身体を支えた後、先生は彼女とぶつかった相手に視線を移した。
そして那奈を立たせてから、軽く相手に頭を下げる。
「どうもすみませんでした」
那奈も振り返り、自分のぶつかった相手を見た。
それからふと表情を変える。
その相手は――いかにも柄の悪そうな、二人組の男。
那奈はそんな男たちに嫌悪感を覚えながらも、先生と一緒に頭を下げた。
「ごめんなさい、すみませんでした」
ふたりのうち那奈と肩がぶつかった男は、体格がよく顎ひげを生やしている。
もうひとりは、ヤセ型で胡散臭いサングラスをかけていた。
ぶつかった顎ひげの男はじろじろと訝しげに那奈たちを見ている。
それからニヤニヤと笑みを浮かべ、言ったのだった。
「人にぶつかってきて、ただ謝るだけで済むと思ってんのか?」
「確かにぶつかったのは悪かったけど、そんな言い方っ……」
「今宮さん、待ってください」
男の態度に眉をひそめて反発しようとした那奈を、先生は宥める。
それから穏やかな表情のまま再び男たちに謝った。
「本当にすみませんでした」
先生の様子を見て、顎ひげの男はチッと舌打ちをする。
そして。
「……っ!」
「ふざけんなっ! 俺にぶつかっといて、その程度の謝罪で許されると思ってんのか!?」
突然頭を下げている先生をドンッと力強く突き飛ばし、男は下品に笑った。
その勢いで大河内先生はバランスを崩し、思わず地面に手をつく。
そして、そんな彼に那奈が駆け寄ろうとした……次の瞬間。
「! ちょっとっ、離してよっ!」
ガッと突然腕を掴まれ、那奈は鋭い視線を男に向ける。
那奈の細い腕をグッと掴んだまま、男はニッと口元に不敵な笑みを浮かべた。
そして那奈と視線を合わせるように中腰になり、言った。
「ぶつかったお詫びに、今から俺たちに付き合えよっ」
「なっ、冗談じゃないわよっ! 離してっ」
「そんなに嫌がるな、きっと楽しいぜ?」
ふたりの男に囲まれた那奈は、必死に自分の腕を掴む男の手を振り払おうとした。
だが男の力は強く、なかなか振りほどくことができない。
――その時だった。
「!?」
那奈を掴んでいた男の手が、おもむろに離れた。
いや、離れたというよりも離さざるをえなかったのである。
いつの間にか立ち上がった大河内先生の手が、那奈の腕を掴んでいた男の手を振り払ったのだった。
男の手を振り払った後、先生はぐいっと那奈を自分の方へと引き寄せる。
そして、そっと彼女の漆黒の髪を撫でた。
あたたかくて大きな、先生の手。
その優しいぬくもりを感じて、那奈は安心感を覚える。
だが……そんな彼の手の感触に那奈がホッとしたのも、束の間。
「くっ、てめえっ! 何しやがるっ!!」
顎ひげの男は先生を睨みつけ、声を荒げた。
怒鳴るようなその男の声に、那奈はビクッと身体を震わせる。
先生はそんな那奈を安心させるかのようにもう一度彼女の頭を撫でた後、ふっと顔を上げて言った。
「……あ? 何しやがる、だと?」
漆黒の前髪をザッとかき上げ、いつの間にか眼鏡を外した大河内先生は鋭い視線を男に向ける。
そして声のトーンを落とし、言葉を続けた。
「汚い手で俺の女に触ってんじゃねーぞ、コラ。痛い目に合いたくなかったら、俺たちの前からさっさと消えやがれ」
さっきまで穏やかだった彼の漆黒の瞳に今見えるのは、怒りの色。
射抜くようなその視線に一瞬怯んだ男たちだったが、気を取り直して先生に向き直る。
それからふたり同時に、声を荒げて息巻いた。
「何だと!? てめえこそ痛い目に合いたくなかったら、女残して消えやがれっ!」
「そうだ、こっちはふたりなんだぞっ!」
先生はどうしていいか分からない様子の那奈をさり気なく後ろに下がらせて、そしてもう一度前髪をかき上げる。
それから漆黒の瞳を男たちに向け、言った。
「あ? それがどうした。つーか、聞こえなかったか? 俺は消えろって言ってんだよ」
「何だとっ!? どうやら、痛い目に合いたいようだなっ!!」
先生のその言葉に、顎ひげの男は顔を真っ赤にさせて怒りをあらわにする。
それから握り締めた拳を大きく振り上げた。
そしてすぐさま男の拳が唸りを上げ、先生目がけて振り下ろされる。
「!!」
那奈は見ていられず、思わず瞳をぎゅっと瞑った。
次の瞬間、バシッと大きな音が耳に聞こえる。
那奈はその音に再びビクッと身体を震わせた後、おそるおそる瞳を開いた。
そんな那奈の瞳に映ったものは。
「あっ、先生っ!」
「な、何っ!?」
驚いたように目を見開いたまま、顎ひげの男はその動きを止めていた。
立派な凶器であるはずの男の右拳が、先生の左手にしっかりと受け止められていたのである。
驚く男に睨みをきかせ、先生はゆっくりと言った。
「そっくりそのまま、おまえの言葉返すぜ? どうやら痛い目に合いたいようだなっ!!」
「!! うあっ!」
次の瞬間、グッと握られた先生の右拳が男の顔面に叩き込まれる。
ガッと鈍い音がしたかと思うと、体格のいい男の身体が無様にひっくり返る。
那奈は一瞬何が起きたのか分からず、漆黒の瞳を何度も瞬きさせた。
「くそっ! ふざけやがってっ!!」
仲間が倒され、もうひとりの男も拳を振り上げて先生に向かってくる。
先生は面倒くさそうにチッと舌打ちした後、力んで放たれたもうひとりの男の拳をひょいっと避ける。
そして、ふっと左足を出して男の足を引っ掛けた。
「うわっ!」
勢いがついていたために男は先生の足に豪快に躓き、身体のバランスを失う。
そして先生は即座に左足を踏みしめ、前のめりになった男の腹部に強烈な右の膝蹴りを見舞った。
「う……ぐっ!」
もろに膝が入り、その衝撃に耐えられず、男は呻き声を上げて地に崩れる。
先生は漆黒の髪をかき上げてそんな男たちを一瞥した後、ぽかんとして立ち尽くしている那奈に視線を移した。
「何て顔してんだよ。ほら、さっさとラーメン食いにいくぞ」
まだ立ち上がれない男たちを見向きもせず、先生はスタスタと歩き出した。
「えっ? う、うん」
那奈はちらりと倒れている男たちを気にしつつも、急いで先生の隣に並ぶ。
目の前で起こった出来事に、まだどう反応していいか那奈は分からない様子であった。
そんな那奈にちらりと目を向け、先生は言った。
「おまえ、何ボーッとしてんだ? あー腹減ったぜ」
何事もなかったようにそう言って、プライベートバージョンの大河内先生は那奈の頭をポンッと軽く叩く。
その手の感触でようやく我に返り、那奈ははあっと大きく溜め息をついた。
「先生……こ、こわかった……」
まだバクバクと鼓動を刻む胸を押さえ、那奈は思わず目に涙を溜める。
先生はそんな那奈に、神秘的な色を湛える漆黒の瞳を向けた。
そして。
「バーカ、何泣きそうな顔してんだよ。おまえは俺が守ってやるから、もうそんな顔するな。ていうかよ、本当におまえって泣き虫だな」
ぐいっと那奈を自分の胸に引き寄せた先生は、彼女の頭を優しく撫でる。
彼の体温を感じ、那奈はカアッと身体が熱くなるのを感じた。
それから溜まった涙をそっと拭い、笑顔を浮かべて先生を上目遣いで見つめる。
「ありがとう、先生。でも、すごく心配したんだから……それに喧嘩したこと、学校にバレたらどうするの?」
先生の胸に身体を預け、那奈はほっとしたように微笑む。
先生はぐりぐりと少し乱暴に彼女の頭を撫でた後、ニッと笑って言った。
「バレたって構わねーよ。そん時は揉み消すからな」
「揉み消すって……そんな金持ちの息子みたいなこと言わないでよね」
「んなこと言ったってよ、おまえもイヤだろ? 俺の授業が聞けなくなるのはよ」
その言葉に、那奈はふと考える仕草をする。
それから先生に預けていた身体を起こし、こくんと頷いてから笑った。
「うーん、それなら仕方ないかなぁ。先生の話聞けなくなるのは困るもんね」
「だろ? ていうか、今度は何の話してやろうか? 徳川のことはだいたい展示見ながら話したしな」
那奈はそう言って楽しそうに笑顔を浮かべて歩き出す先生に、にっこりと微笑みを向ける。
そんな彼女の様子に気がつき、先生はスッと那奈の前に手を差し出した。
そして、言ったのだった。
「ほら、行くぞ……那奈」
那奈は差し出された先生の手を取り、嬉しそうに頷いた。
「うん、先生」
「あ、そうだ。それでだな、徳川と言えばよ……」
那奈の手をしっかりと握り締め、先生は思い出したように再び話を始める。
そんな先生の手をぎゅっと握り返して繋いだ手のぬくもりを感じ、そして那奈は楽しそうに話をしながら歩く自分を守ってくれた騎士の笑顔を嬉しそうに見つめたのだった。
EXTRA SCENE -FIN-