第三章 天翔ける神獣



 第15話 嵐は静かにやってくる

 ――生徒たちの賑やかな声が溢れる、昼休みの教室。
 和奏は久々に友人の千佳と一緒に昼食を取りながら、ダークブラウンの瞳を細めた。
 憑依していた妖怪も無事滅せられ、目の前の千佳の顔はすっかり健康的な色を取り戻している。
 普段通り千佳と楽しく他愛のない話をしながらも、和奏はホッと胸を撫で下ろした。
 和奏自身も怖い目にはあったのだが、何よりも誰も怪我をせず事を収められた。
 それは、約束を守ってくれた雨京先生と、術師である司紗のおかげである。
 改めてみんなが無事でよかったと思いながら、和奏はジュースをひとくち飲んだ。
 そんな和奏をちらりと見て、千佳は思い出したように口を開く。
「あ、そうだ、和奏。私、昨日妙な夢見たんだ」
「夢? どんな夢?」
 首を捻ってそう訊いた和奏に、千佳は少し言いにくそうにこう続けたのだった。
「えっと、和奏がマリちゃんに、キスされてる夢」
「……えっ!?」
 千佳のその言葉に、和奏は瞳を見開いて声を上げる。
 そして驚きのあまり飲んでいたジュースが気管に入り、思わずコホコホと咽てしまう。
 動揺する和奏を見てから、千佳はうーんと考えながら言った。
「何かね、和奏が壁に張り付けられてて動けなくて、そんな和奏にマリちゃんがキスしてて……でも、何でマリちゃんなんだろって。和奏が好きなのは、マリちゃんじゃなくて白河くんなのに。って、大丈夫? 和奏」
「えっ? あっ、だ、大丈夫っ。で、でも何でそんな夢見たんだろうねっ」
 慌てて誤魔化すように笑い、和奏はわざとらしく首を傾げる。
 司紗の話では、妖怪に憑依されていた時の記憶は、憑かれていた人間には殆ど残っていないという。
 現に千佳も、1週間前からの記憶があやふやだと言っていた。
 なのに、どうしてよりによって、自分が先生にキスされていたことを覚えているのか。
 和奏は内心冷や冷やしながらも、まだ首を捻っている千佳に目を向ける。
 そして何とかして話題を変えようと、口を開いた。
「あっ、そ、そうだっ。千佳ちゃんが休んでる時ね、新しくオープンしたパスタの店に行ったんだけど」
「新しく出来た店って、駅前の? どうだった?」
 千佳はそれ以上キスのことを気にする様子もなく、和奏の言葉に乗ってきた。
 話題が変わり、和奏は密かにホッと胸を撫で下ろす。
「うん、美味しかったよ。デザートもたくさんあったし。今度一緒に行こうよ」
「じゃあ早速、今日の放課後行かない? 私、あの店がオープンするの楽しみにしてたんだ」
 千佳はポンッと手を打って、和奏にそう提案した。
「えっ、今日の放課後?」
 千佳の言葉を聞いて、和奏は数度瞬きをする。
 千佳はそんな和奏の様子に気がつき、小首を傾げた。
「あ、何か今日用事あった?」
「えっ? あ、う、うん。今日はちょっと、都合悪いかな……」
 申し訳なさそうにそう言って、和奏はふと考える仕草をする。
 今日の昼休みは雨京先生が職員会議のため、特にお呼びがかからなかった和奏だったが。
 その代わり、放課後に雨京先生の元に行かなければならなかったのだった。
「ごめんね、近いうちに一緒に行こうね」
 和奏は千佳に手を合わせてもう一度謝った後、ふと腕時計を見る。
 それから昼食の後片付けをしながら、言った。
「ちょっと図書館に、本返しに行ってくるね。返却日、確か今日までだったと思うから」
「うん。行ってらっしゃい」
 千佳は席を立つ和奏に、軽く手を振る。
 和奏はそんな彼女に手を振り返してから本を手に取り、教室を出た。
 教室同様、昼休みの廊下も生徒たちの声で賑やかである。
 そんな廊下を歩きながら、和奏はふと床に目を向けてきょろきょろと周囲を見回した。
「えっと、この辺だったと思うんだけどな……」
 ゆっくりと歩きながら、和奏は視線を落としたままそう呟く。
 確か――司紗のお守りを手放したのは、このあたりだったはず。
 そう思い、和奏は一生懸命に目を凝らす。
 千佳に憑依した妖怪に脅され、和奏はこの周辺でお守りを手放したのだった。
 だが、どこにもその姿は見当たらない。
 あのお守りは、大好きな司紗から貰った宝物で。
 せっかく自分のために、彼が作ってくれたものなのに。
 いくら仕方ない状況だったとはいえ、そんな大切なお守りをなくしてしまうなんて。
 和奏は肩を落とし、大きく嘆息する。
 その時だった。
「和奏ちゃん」
 ふと声をかけられ、和奏は振り返った。
 そして自分を見つめているその視線に、思わずドキッとする。
「あっ、司紗くん」
「もしかして和奏ちゃん、これ探してくれてたの?」
 和奏に普段通りの優しい微笑みを向け、司紗はブレザーのポケットからあるものを取り出す。
 それを見て、和奏はパッと表情を変えた。
「あ……っ!」
「昨日ここに落ちてるのを見つけて、拾っておいたんだ。はい、これ」
 司紗はそう言って、手に持っていたお守りを和奏に渡した。
 お守りを受け取った和奏は、大事そうにギュッとそれを握り締める。
 そして嬉しそうな笑顔を宿し、司紗に視線を向けた。
「ありがとう、司紗くんっ。よかった、なくなっちゃったのかと思った……」
 ホッとした表情を浮かべる和奏を見て、司紗は綺麗な顔に穏やかな笑みを宿す。
 それから和奏の持っている本に目をやり、言った。
「あ、今から図書館に行くの? 僕もちょうど行こうと思ってたんだけど、一緒に行こうか」
「えっ!? う、うんっ。一緒に行こう、司紗くん」
 司紗の思わぬ申し出に驚きつつも、和奏は幸せそうに首を大きく振る。
 司紗はその返事を聞いて、彼女の隣に並んだ。
 確かに彼とは、以前とは比べものにならないくらいよく話をするようになった和奏だが。
 でもやはり憧れの司紗が隣にいると思うだけで、彼女の胸は早い鼓動を刻むのだった。
 少し前までは、彼の綺麗な顔を見ているだけで幸せだったのに。
 今、想いを寄せる司紗と、こうやってふたり並んで歩いているのだ。
 何だか妙に意識してしまい、和奏は照れたように俯いた。
 そんな和奏の様子に気がつき、司紗はふと首を傾げる。
「どうしたの、和奏ちゃん?」
 自分に向けられた漆黒の瞳にドキドキしながら、和奏は慌てて顔を上げた。
「えっ? あ、な、何でもないよ」
「そういえば、身体の調子は大丈夫? 最近、少し眩暈とか起こしてるみたいだけど」
 和奏の気持ちを知らない司紗は、心配そうな表情を浮かべて彼女に訊いた。
 憧れの司紗が、自分のことを心配してくれるなんて。
 そう思うだけで、和奏は幸せを感じるのだった。
「今は大丈夫だよ、心配してくれてありがとう。眩暈もそんなに大したことないし、すぐよくなるから」
「くれぐれも無理はしないでね、和奏ちゃん。何かあったら、すぐ僕に言ってね」
 司紗の言葉に、和奏は嬉しそうにこくんと頷く。
 それから、ふと思い出したように彼に訊いた。
「そういえば、千佳ちゃんなんだけど。妖怪に憑依されていた時の記憶って、千佳ちゃんには残ってないんだよね?」
「うん、殆ど残ってないはずだよ。でも、断片的に覚えてることはあるかもしれないけどね」
「断片的に……」
 そう呟き、和奏は思わず口を噤む。
 その断片的に残っている記憶が、よりによって自分が先生にキスをされているところだなんて。
 和奏は急に恥ずかしくなり、カアッと顔を赤らめた。
 そんな彼女の様子に気がつき、司紗はもう一度首を傾げる。
「和奏ちゃん、何か高嶋さんに言われたの?」
「えっ!? ううん、いや大したことじゃないから……」
 慌てて首を左右に振り、和奏は誤魔化すように笑う。
 覚えていると言っても、千佳も薄っすらとしか記憶に残っていないらしく、夢を見たと言っていたし。
 それに幸いなことに、何よりも想いを寄せる司紗には、まだ先生とのキスを見られてはいない。
 雨京先生にキスをされることに対して、不思議と嫌悪感は感じていない和奏だったが。
 でもさすがに憧れの司紗には、その様を見られたくないのだった。
 先生とのキスは嫌ではないし、自分が言うことを聞いてさえいれば、先生は誰にも危害を加えないだろう。
 好きな人がいるのに先生とキスするのは不謹慎だとは思いつつも、とりあえず今の平穏な日々を乱したくはない。
 自分が歯向かえば先生は怒るだろうし、司紗ともまた戦闘になるかもしれない。
 彼らが妖狐と術師という関係であることは分かっているが、ふたりが戦うことにはなって欲しくないのだ。
 そんな気持ちが強い和奏は、雨京先生のキスを拒むことも、そして司紗に自分がキスをされていると言うこともしなかったのである。
 和奏は気を取り直し、自分の隣にいる司紗に目を向けた。
 そして幸せそうに微笑みを浮かべ、彼とともに図書館に向けて歩きだしたのだった。



 ――その日の、放課後。
 帰り支度を終えて教室を出た和奏は、雨京先生の待つ国語教室へと向かった。
 生徒の声で賑やかな本館校舎とはうって変わり、国語教室のある放課後の別館校舎は静かだった。
 和奏は階段を降り、そして国語教室の前まで辿り着く。
 それから慣れたようにノックした後、遠慮気味にドアを開けた。
「失礼します……」
「遅いぞ、おまえ」
 国語教室の中にいた雨京先生は、じろっと切れ長の瞳を和奏に向ける。
 何だかあまり、先生の機嫌は良くなさそうだ。
 彼の様子を見てそう思いつつ、和奏はゆっくりとドアを閉めて教室内に入った。
 雨京先生は座っていた椅子から立ち上がり、ツカツカと和奏に近づく。
 そして。
「! きゃっ」
 ふわっと足元が浮いたかと思った、瞬間。
 和奏は机に背を預け、先生に押し倒されたような体勢になっていた。
 和奏を押し倒したまま、雨京先生は相変わらず不機嫌そうな表情でチッと舌打ちをする。
 そしてブラウンの前髪をかき上げて、面白くなさそうに言った。
「ったく、今から臨時の職員会議があるんだよ。おまえがトロいから、もう会議の時間じゃねーか。どう責任取ってくれるんだ?」
「せ、責任って……」
 それって、私のせいなんだろうか。
 そう思いつつもつり上がった先生の瞳に見つめられ、和奏は胸の鼓動を早める。
 不機嫌な表情を浮かべていても、やはり目の前の雨京先生の顔は整っていて。
 そんな美形の顔が、自分のすぐそばにあるのだ。
 雨京先生はバンッと和奏の顔のすぐ横に右手をつき、小さく嘆息する。
 そしてあいている左手で和奏の顎を軽く持ち上げ、彼女の耳元で言ったのだった。
「この埋め合わせは、今度ゆっくりしてもらうからな」
 埋め合わせって言っても、やっぱりそれって私のせいじゃない気がする。
 だがそんなことを、口に出して言えるわけがなかった。
 ただでさえ目の前の先生は臨時会議が入って不機嫌なのに、これ以上機嫌を損ねられても困る。
 そう思い、和奏は黙ったまま先生に視線を向けた。
 そして――次の瞬間。
「……っ!」
 突然雨京先生の唇が、ふっと和奏のものと重なった。
 急にキスをされた和奏は、驚いたようにダークブラウンの瞳を見開く。
 不機嫌な気持ちの表れか……そんな先生のキスは、いつもより少し強引で。
 机に押し倒されているという状況下で浴びせられる先生の口づけを敏感に感じ、和奏の頬が紅潮する。
「ふ……、んっ」
 ねっとりとした先生のキスを受け入れ、思わず和奏は声を漏らした。
 雨京先生はそんな和奏の様子を見てから、ゆっくりと唇を離す。
 それから、机に座ったままキスの余韻に呆然としている和奏を後目に、会議の書類を準備すると小脇に抱えた。
「俺は会議に行く。教室の戸締りして、鍵は職員室の俺の引き出しに入れとけ。分かったな」
 それだけ言うなり、雨京先生は和奏を残してさっさと教室を出て行ってしまった。
 和奏はそんな相変わらず自分勝手な彼の後姿を見送って、きょとんとした表情を浮かべる。
 それから大きく深呼吸をして少し乱れた息を整えた後、素直に言われた通り国語教室の戸締りを始めたのだった。



 ――それから、数十分後。
 雨京先生の言いつけ通りに国語教室の鍵を彼の机の引き出しに入れてから、和奏は学校を出た。
 そして地下鉄に乗り、家の最寄駅へと到着する。
 地下鉄の階段を上がって地上に出た和奏は、風に揺れるダークブラウンの髪を押さえながらゆっくりと歩き出した。
 夕方の空は、その色を青から赤へと変え始めている。
 そして見慣れた道を、家に向かって歩いていた和奏だったが。
 ふと、ある場所で足を止めた。
 そこは――家の近くの、小さな児童公園。
 もう時間も夕方であるため、すでに子供たちの姿はなかった。
 和奏は少し考えるような仕草をした後、誰もいない公園へと足を踏み入れる。
 そしてブランコに腰を下ろし、ゆっくりと漕ぎ出した。
「ブランコなんて、何年ぶりだろう……」
 小さい頃からあまり積極的な性格ではなかった和奏は、外で元気に遊ぶよりも、部屋の中で本を読んだりすることの方が好きな子供だった。
 だが、この公園のブランコで遊ぶのは好きで。
 ずっと飽きもせず、このブランコを今と同じように漕いでいたことを覚えている。
 サワサワと頬を撫でる風の気持ち良さ感じ、和奏はダークブラウンの瞳を細めた。
 ……その時だった。
「こんにちは」
 そう和奏の耳に、澄んだ声が飛び込んできた。
 突然聞こえてきたその声に、驚いたように和奏は顔を上げる。
 声をかけてきたのは――和奏と年が同じくらいの、ひとりの少年だった。
 風に揺れる少年の髪は先生と同じような色素の薄いブラウンで、瞳も同じ色を湛えている。
 しかも少年の容姿は驚くほど綺麗で、和奏好みの穏やかで優しげな雰囲気を醸し出していた。
 こんな顔の人を美少年と言うのだろうなと、そう思ってしまったほどにその少年の顔は整っていて。
 和奏はいつの間にかブランコを漕ぐのを止め、目の前に現れた少年に見惚れてしまっていた。
 少年はにっこりと和奏に微笑むと、彼女の隣のブランコに座る。
 それから、ゆっくりと漕ぎ出した。
 彼の色素の薄いサラサラの髪が、ふわりと風に吹かれて揺れている。
「ねぇ、ここにはよく来るの?」
 ブランコを漕ぎながら、その少年は和奏にそう訊いた。
 その澄んだ声にハッと我に返ってから、和奏は首を振る。
「え? ううん、今日はたまたま、何だかブランコに乗りたい気分だったの」
「ブランコって楽しいよね、何だか自分が風になったみたいで」
 楽しそうにそう言って、少年は無邪気に笑う。
 それから少年はブランコを止めると、和奏に向き直った。
 自分を映す少年の吸い込まれそうな瞳に、和奏はドキッとしてしまう。
 そんな彼女にもう一度微笑み、少年は口を開いた。
「僕、五十嵐聖(いがらし ひじり)って言うんだ。君は?」
「あ……私は、桜井和奏よ」
「ふーん、和奏ちゃんか」
 そう呟き、その少年・聖はブラウンの瞳を細める。
 それからブランコを降り、和奏の手を取った。
「僕、この街に来たばかりで、まだ友達いないんだ。よかったら和奏ちゃん、僕の友達になってくれないかな?」
 細くて長い聖の指先が手に触れ、和奏は照れたように顔を赤らめる。
 そしてドキドキした胸を反対の手で押さえながら、大きく頷いた。
「あ、う、うん。私なんかでよかったら」
「本当に? 嬉しいな、よろしくねっ」
 嬉しそうに微笑み、聖はそっとブラウンの前髪をかき上げる。
 それから和奏に手を振り、歩き出した。
「じゃあ、また近いうちに会おうね、和奏ちゃん」
「え? ……あっ、あれ?」
 和奏は次の瞬間、きょとんとした表情を浮かべる。
 目の前で手を振っていた聖の姿が、風のようにふっと消えたような気がしたのだった。
 まるで狐につままれたような気分になりながらも、和奏はぬくもりの残る自分の手を見つめる。
 それから彼の美少年と言うに相応しい容姿を思い出し、カアッと顔を赤くした。
 聖という少年の雰囲気は、まるで空気のように澄んでいて。
 美形の顔に宿る屈託のない笑顔を見ていると、何だかホッとする感じがした。
 そして不思議と彼のその綺麗な容姿は、自分の知っている誰かのものとよく似ている気がしたのだった。
 聞いたのは彼の名前だけで、連絡先とかは知らないけど。
 何だか、また近いうちに彼に会える気がする。
 そんな予感を覚えながら、和奏はブランコを降りた。
 それから地面に置いていたカバンを手にし、すっかり夕焼けで赤く染まった空の下、ゆっくりと家の方向に歩き出したのだった。