innocent 〜ただその無垢に僕は焦がれる〜




皺一つ無いパリッとした白衣をサラリと着こなし、カツカツと澱みなく響く足音。
小脇に抱えられた書類は、無造作でそれでいて彼なりの拘りのある順番で並べられているのだろう。


わざとらしい程きっちりと固められた前髪に一度だけ手をいれ、彼はいつものように扉の前に立つ。
銀縁の薄いフレームの眼鏡が、一瞬朝日を煌くように反射する。


カラリ、と乾いた音を立てて開く扉。
颯爽とした歩みにフワリと翻る白衣の裾。


それら全てが目に眩しい。
憧れ・・。
そんな言葉で片す事のできない感情。




それに、彼は気付いているだろうか・・?




土曜日の1限目。
時間割は生物。
それは僕の至高の時間。
何故なら唯一彼が白衣を着て僕の目の前に立ってくれるから・・。


「それでは、今日は152Pからの実験を行いたいと思う」
彼の一言で始まる授業・・。
土曜日の1限目だけは必ず生物の実験を行う。
そしてその時だけ生物の教師である彼は、実験のために白衣を着て僕の目の前に現れる。


白・・白衣・・染み一つない・・。
こんなにも白衣が似合う人を、僕は他に知らない。
いかにも大人だという顔をしながら、何故こうも無垢な色が似合うのか・・。


黒い制服の群れに囲まれた、ただ一点だけの白。
その白を汚したいと思うのはきっと僕だけではないだろう。




あなたを、僕だけの色に染められたら・・。




「では今日の実験はここまで。来週の月曜の生物の授業の時に、レポートを提出するように」
彼の一言で授業は終わる。
後片付けも半ばに次々と生物室を出て行く生徒達・・。


「ちぇっ、またレポートかよ。生物だけだよな〜こんなの」
「ホント、うざいよな〜。たまには楽な授業しろって〜の」


そんな声がちらほら聞こえる中、彼は動じていないとでもいうかのように淡々と実験の後片付けをする。
キュッ。
水道の蛇口を捻ると、流れる水音。
一人残った僕は、
「お手伝いしますよ、先生・・」
そう言って、いつものように彼の隣に並んだ。


「いつも悪いな、塔矢」
「いえ、お気になさらず・・」


一言・二言交わされる会話。
そして沈黙・・。
それでも、僕にとっては最高に居心地のいい時間。


「そういえば・・」
思い出したように、彼が言う。
「この間の実力テスト、生物100点取れたのはお前だけだったな」


そんなの造作もない事ですよ、先生。
あなたを落とす事にくらべれば何百倍も簡単な事です。


そう胸の中だけで呟くが、そんな事はおくびにも出さず、僕は曖昧に微笑む。


「今回のテストはそう難しくはなかったので・・」
そう言った僕に、
「そうか・・?意外に捻ったつもりだったんだがな。じゃあ、次のテストはもうちょっとランクをあげてみるか」
彼は訝しみながらも、一人頷いた。


その拍子にパラリ、とワックスか何かの整髪料で固められていた、少しだけクセのある前髪が一房前に落ちる。
銀のフレームにかかった髪を気にしたのか、彼はスッと眼鏡を外した。


ゆっくりとした動作で髪を掻きあげるその仕種に、何処か艶めいたものを感じてしまうのは仕方のない事だ。
チラリとその様子を盗み見した僕はそう思う。

                
だって、ボクは、コイをしているのだから・・。


「粗方片付いたから、そろそろ戻ってもいいぞ、塔矢。お前次も授業あるんだろ?」
最後のビーカーを洗い終え、僕を振り返る彼。
眼鏡を外したままの彼の、普段は透明なレンズに隠された澄んだ瞳が、僕を見つめる。
交わされる視線・・。


傲慢だと思われてもいい。
今この瞬間僕と彼を隔てるものは何もないのだと、そう感じているのは僕だけだろうか?


まっすぐに僕を見つめるその澄んだ瞳。
ワックスで固めた髪も、白衣の下できっちりと締められたネクタイも、節くれだったほっそりとした長い指も、
全てが大人だと主張しながら、穢れを知らない清純な少女のように・・。
その瞳だけが、ただ白衣と同じように無垢で。
僕は惑う、その無垢に。


だって、僕は、恋をしているのだから・・。


「どうした?塔矢・・」
いつまでも返事を返さない僕に、彼は再び声を掛ける。
「いえ、別に・・」
そう答えると同時に僕が視線を外すと、彼が眼鏡を掛け直す様が目の端に映る。
「そうですね、そろそろ教室に戻ります」
どうせもう次の授業は始まってますけど、ね。
そっと彼に気付かれないように腕の時計に目を遣ると、案の定2限目の開始時刻を10分も過ぎていた。
けれどそんな事よりも、眼鏡を掛け直した彼との距離が再び開いたような気がして・・。
僕は溜め息を吐く。


そんな僕に彼は少し首を傾げ・・目に入った自分の腕時計の時刻に目を見開いた。
「塔矢っ、もう2限目始まってるぞ」


知ってますよ、先生。


彼はいつもより少しだけ慌てた様子で、僕に近づく。
「いつの間にこんなに時間が経ってたんだ?もう休み時間終わってるじゃないか」


知ってましたよ、先生。でも、僕は・・あなたといたかった。


心の中だけの呟きは、決して彼には届かない。
レンズ越しの距離はまだ埋まってはいないから・・。
彼の羽織る白衣と同じように、彼と僕との関係もまだ真っ白なまま・・。


不意に彼が僕の腕を掴んだ。
唐突な行動に、瞬間身体が震える。
けれど分かるか分からないかくらいのその微妙な緊張に、彼が気付く訳はない。


「気付かない俺も俺だが、お前も時間くらい気にしとけよ・・」
ひとを手伝わせておいてその言い草はないと思うが・・彼らしい物言いにふと口元に笑みが浮かぶ。
緊張は一瞬で解けた。
気付いてないのは、時間か、それとも僕の気持ちか・・。


「何を笑ってるんだ?笑ってる場合じゃないだろ、行くぞ」
「・・・どこに、ですか?」
「お前の教室。俺の手伝いをさせて遅くなった、と言い訳しとかないとマズイだろ?」
唐突なのは行動だけではなく、彼はそう僕に告げる。


僕と一緒に教室まで行く、と・・この人は本当にそう言ってるのだろうか?
わざわざ一生徒の遅刻の言い訳のために・・?
この、僕のために・・。


「・・・その必要はありません」
一瞬の沈黙の後、僕は彼を振り仰ぐ。
繋がれたままの彼の手を、そっと僕の右腕から外して。


「何故だ?いくら優等生のお前でも、何の理由もなく授業に遅刻なんてしたら・・」
「大丈夫ですよ、先生。次の授業は自習です」
「なんだ、自習か・・ってそういう事はもっと早く言えよ」
ほっとしたように胸を撫で下ろす彼。


「お気遣い頂きありがとうございます。でも心配は無用ですから」
にっこりと澱みなく微笑んで、僕は彼の手が置かれていた右腕を辿る。
自分から遠ざけたくせに、
仄かに熱でも残っていないかと、探るような浅ましい行動に辟易しながら・・・。


次の授業も・・本当は、自習などではない。
けれど他人の事など自分の事以上に無頓着な彼が、それに気付く事はないだろう。
遅刻の理由など幾らでも取り繕えると、この不器用で真っ直ぐな人は思いも寄らないのだから。


堅物を絵に描いたような大人の振りをして、時折、しがらみや世間体とはまるで無縁の子供のように・・。
僕らよりも10も年上の大人のくせに、余程僕らの方がそういったものに縛られている、と。
主張しても仕方のない事まで主張したくなる程・・純粋な心を秘めたまま、大人の殻だけ被っている。




それが、彼。



ああ、だけど。
そんなあなたに、僕は、恋をしている・・。


そんなあなだだから、僕は、恋をしている。




誰よりも、無垢な彼。
ただその無垢に、僕は焦がれる・・。




けれど。




それを伺い知れるのは、
ただその瞳と、白衣だけ――。





そして、僕だけ・・・堕ちていく――。