番外編競作 その花の名前は 参加作品

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 Sacred Blood 番外編

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薔薇色の世界

美佑

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 爽やかな風が頬をくすぐる、ある日の朝。
 その少年・蒼井健人(あおい けんと)は、ふと腕時計に目を向けてから地下鉄の階段を降りた。
 彼のその瞳は、右目だけ美しい青を帯びている。
 そして光の加減では金色にも見えるブラウンの髪を、無造作にかきあげた。
 神秘的な雰囲気を醸し出す、美少年。
 健人の容姿を言葉で表すのならば、このような表現がぴったりであろう。
 健人はポケットから定期券を取り出し、同じ聖煌(せいおう)学園高校の制服を着ている生徒たちの波に逆らわずに地下鉄の改札口を通った。
 駅のホームは、普段と変わらず雑然としている。
 健人はそんな雑踏の中、いつも乗る車両の乗車位置まで歩を進め、そしてもう一度腕時計を見た。
 それからその整った顔を上げて、もうすぐ目の前に現れるであろうその人の姿を探した。
 いつも同じくらい時間に、その人は姿をみせる。
 毎日会っているはずなのに、心なしかその瞬間を健人はつい意識してしまうのだ。
 毎朝その人を待つこの数分間は、彼にとって幸せな時間でもあり、じれったい時間でもあった。
 そして、一番の至福の瞬間。
「おはよう、健人」
 タッタッと健人のそばに駆け寄ってきたのは、ひとりの少女。
 肩より少し長い栗色の髪と、同じ色のつぶらな瞳。
 身長は低めで、可愛い印象を受ける子である。
 青色の瞳にそんな彼女の姿だけを映して、健人は言った。
「おはよう、姫」
 姫と呼ばれたその少女・清家眞姫(せいけ まき)は、健人ににっこりと笑顔を浮かべる。
 少し首を傾げて微笑む彼女の栗色の髪が、微かに揺れた。
 健人はそんな彼女の顔を見る度に、不思議と心が癒されるような気がするのだ。
「今日の占い、健人見た? 今日の水瓶座の運勢1位だったから、何かいいことあるかな」
「姫は水瓶座か、俺の蠍座は何位だった?」
「あれ、健人って毎朝占い見てるんじゃなかったっけ?」
 きょとんとする眞姫に、健人はマイペースに言った。
「ああ、今日も見てきたよ。でも、何位だったかいちいち覚えてない」
「それって、見てるって言わないんじゃない? でも健人らしいね」
 普段からあまり感情を表情に出さない健人とは対称的に、眞姫はくすくすと笑う。
 健人はそんな楽しそうに喋っている眞姫の姿を見ることが、とても好きだった。
 健人にとって眞姫とふたりきりで過ごせる登校時間は、1日で一番幸せな時間でもある。
 学校では別のクラスであるし、同じ映画研究部に所属してはいるがライバルが多く、なかなかふたりになれる機会がないからだ。
 健人はその青い瞳で、夢中に話をしている目の前の眞姫を見つめる。
 彼女はそんな彼の熱い視線には気がつかず、続けて口を開いた。
「そういえばさ、知ってる? “黄色い薔薇事件”のこと。今すごくニュースでやってるけど、現場ってこの近くなんだよね」
「ああ、知ってるよ。それって、若い女性ばかりが連続で階段やビルから転落してるっていう事件だろ」
 連日繰り返し報道されているその事件について、少なからず健人も耳にしていた。
 眞姫は健人の言葉に、こくんと頷く。
「そうそう。それで、現場には必ず一輪の黄色い薔薇の花が残されてるんだって」
「黄色い薔薇、か」
「薔薇って言ったら、赤の印象が強いけどね」
 そう言ってから、眞姫はうーんと考える仕草をする。
 それから気を取り直し、話題を変えた。
「健人、そういえばこの間のテストって何教科返ってきた? 数学の平均点、すごく低かったよね」
「数学はいつも平均点低いからな。何と言っても、あの悪魔のような鳴海の作った問題だ、仕方がないよ」
「そうね、今回もすごく難しかったもんね。でもほかの教科の平均点は、結構高くなかった?」
「まだ全教科は返ってきてないけど、それなりに点取れそうな問題多かったからな」
 それは、ごく普通の高校生の会話。
 彼女と交わすありふれた日常会話でさえも、彼にとっては1秒1秒が大切な時間なのだ。
 楽しそうにお喋りをする彼女の瞳は、とてもキラキラしていて。
 その両の目は、守ってやりたい愛らしさと同時に、凛とした強い輝きも放っている。
 見た目はどこにでもいる、16歳の少女。
 だが……そんな彼女は守られるべき存在であり、そして人を守るべく大きな力を与えられた特別な存在でもあった。
 そして健人もまた、普通の高校生とは少し違っていた。
 それは……。
「!」
 その時だった。
 今まで優しい瞳を彼女に向けていた健人は、ふと表情を変えて顔を上げた。
 そして眞姫から視線を別の場所に移した彼の瞳は、一点をじっと見据えている。
 そんな彼の様子に気がつき、眞姫は首を傾げた。
「どうしたの、健人……あっ!」
 健人の視線を追った眞姫も表情を変え、短く叫ぶ。
 その大きなブラウンの瞳に、あるものが映ったからである。
 健人は険しい表情を浮かべてから、眞姫の盾になるように位置を取って静かに言った。
「俺から離れるな、姫」
 こくんと無言で頷いて、眞姫も表情を引き締める。
 少し怯えた色を見せながらも、彼女は瞳を凝らした。
 そんなふたりの見つめる、その視線の先には。
「あれは、手……?」
 それだけ呟き、眞姫は息を飲む。
 この現実的な朝の雑踏の中、眞姫の目にはあまりにも非現実的なものが見えていた。
 おそらく人間のものであろう、手。
 そこには、人間の手首から先の部分だけが、ボウッと不気味な青白い光を放ち宙を彷徨っていたのだ。
 周囲の人間はこの得体の知れないものの存在に、まったく気がついてはいない。
 おそらく、眞姫と健人にしかその存在を知覚できてはいないだろう。
 普通の高校生とは少し違う、その理由。
 ふたりには、普通の人間に備わっていない特別な能力があるのだ。
 眞姫は、不安そうな瞳を隣の健人に向ける。
 だがそんな眞姫をかばうように立つ彼の青い瞳は、不気味に漂うそれに鋭く向けられていた。
 その手はまるで何かを探しているかのように、周囲をただふわふわと彷徨っている。
 おもむろに一陣の風が吹き、眞姫のスカートの裾がふわりと揺れた。
 どうやら駅のホームに、電車が入ってくるようだ。
 その時。
 今まで宙を漂っていたその青白い手が、急にふっとその動きを止めた。
 そして、次の瞬間。
「!」
 今まで黙ってそれを見据えていた健人が、突然地を蹴ってその場を駆け出した。
 眞姫はそれと同時に、大きくその瞳を見開く。
「あっ!」
 思わず眞姫は、目の前の状況に声をあげた。
 ぴたりと動きを止めていた手首が、再び動きだしたのだ。
 そしてその不気味な手は、ものすごい力で目の前にいる少女の背中を押した。
 急に力が加わり、背中を押された少女の身体がバランスを失う。
「きゃっ!!」
 悲鳴を聞いた人々の視線が、その少女に集まる。
 だがあまりにも突然の出来事に、少女の周囲にいる誰ひとり動くことができない。
 そして唸りを上げながらホームに入ってきた電車が、その少女の目前にまで迫ってきていた。
 その時だった。
「くっ!」
 駆けつけた健人の左手が、少女の腕を素早く掴む。
 グイッと健人に引き寄せられ、バランスを崩して宙に浮いていた少女の身体が再び戻ってきた。
 それと同時に、ゴウッと音を立てて電車がホームに到着する。
 間一髪で線路に転落することを免れた少女は、力が抜けたようにペタンとその場にしゃがみこんだ。
 何が起こったのか分からず呆然とする少女を後目に、健人はふと顔を上げる。
「…………」
 宙を舞う不気味な手に青い瞳をちらりと向け、そして健人は右手を軽く掲げた。
 刹那、周囲の空気の流れが変化したかと思うと、彼のその右手を中心に渦が出来上がる。 
 そして彼の手に宿ったのは、眩いばかりの光。
 淡くて力強いその光は“気”と呼ばれる流動的な体内エネルギーであり、健人は“気”を操ることが出来る特別な能力者なのである。
 この“気”の光も、普通の人間に見ることは出来ない。
 だが人間には見えないその光は、青白い手首に対しては十分に有効的なものであった。
 鋭い視線を青白い手首に再び向け、そして健人は輝きを纏った右手を振り下ろす。
 その瞬間、バチッという衝撃音とともにプラズマがはしり、その不気味な手は呆気なく消え失せたのだった。
「健人っ!」
 眞姫は、健人と少女のもとに走り寄る。
 健人に助けられた少女は、何が起こったのか分からない表情でしゃがみこんだままだ。
 そんな少女の顔を見て、眞姫は驚いた表情を浮かべた。
 知っている顔だったからだ。
「あっ、秋山さん!? 大丈夫だった?」
「あ……清家、さん?」
 その少女は、眞姫と同じクラスである秋山涼子という生徒だった。
 学校に内緒でモデルの仕事をしていると噂もある、長い茶髪が印象的な少し派手な顔立ちの子。
「大丈夫か?」
 ちらりと青い瞳を向ける健人に、涼子は慌てて立ち上がってぺこりと頭を下げる。
「あ、助けてくれてありがとう。昨日寝た時間が遅かったから、立ち眩みしちゃったのかな」
 そう言って涼子はもう一度健人に頭を下げ、電車に乗り込む。
 涼子が無事であったことに安堵した眞姫も、そんな彼女に続いて足を踏み出そうとした。
 その時。
「姫……これを見てみろ」
「え?」
 健人の声に、眞姫は振り返る。
 その瞬間、電車のドアがプシューと音を立てて閉まる。
 そしてふたりをホームに置き去りにしたまま、ゆっくりと動き出した。
 だがそんな電車のことなど見向きもせず、眞姫は表情を変える。
「! これって、もしかして……」
「ああ。ただの事件じゃなさそうだな、例の“黄色い薔薇事件”っていうのは」
 そう言って屈んで、健人は地面に落ちていたものを拾い上げた。
 ――それは、美しく咲く一輪の黄色い薔薇。
 眞姫はその花を見つめながら、背筋が寒くなるのを感じたのだった。


      


 校内に、朝補習の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
 授業の終礼とともに、教室には生徒たちの賑やかな声が満ち溢れる。
 そんな中、今朝の出来事を思い出しながら、眞姫はちらりと同じクラスである秋山涼子に視線を向けた。
 茶色の髪をかきあげる彼女の姿は、朝の事がやはりショックだったのか少し俯き加減である。
 何か声をかけようかとも思ったが、実際彼女にあの不気味な手が見えていたわけではない。
 そう思い直し眞姫が数学の教科書を閉じた、その時。
「清家」
 急に名前を呼ばれ、眞姫は慌てて顔を上げる。
 彼女の瞳に映ったのは、自分を見つめている印象的な切れ長の瞳。
 その瞳の持ち主は眞姫を見つめたまま、淡々と言葉を続けた。
「君に話がある。今から数学教室に来なさい」
「え? あ、はい。分かりました、鳴海先生」
 鳴海将吾(なるみ しょうご)先生。
 その切れ長の瞳は鋭く、バリトンの声は相手に有無を言わせぬ威圧感がある。
 よく見ると端整な顔立ちをしているが、その厳しい言動により近寄り難い印象が強い。
 そして彼は眞姫のクラスの担任であり、彼女の所属する映画研究部の顧問も務めている。
 この映画研究部は、眞姫のほかにも健人をはじめ、数人の少年たちが部員として所属している。
 だがこの映画研究部は、普通の映画研究部とはかなり活動内容が違っていた。
 そして何故自分が数学教室に呼び出されたのか、眞姫にはその理由が分かっていた。
 鳴海先生は、急いで机の上の教科書を片付ける眞姫を後目に言った。
「Cクラスの蒼井健人も、一緒に連れて来るように」
 それだけ言って踵を返し、先生はカツカツと教室を出て行く。
 そんな後姿を見送って次の授業の準備をしたあと、眞姫も数学教室へ向かうべく教室を出た。
 途中先生に言われた通りにCクラスの教室に寄って健人を誘い、彼と一緒に鳴海先生の待つ数学教室まで足を運ぶ。
 トントンと遠慮がちに数学教室のドアをノックしてから、そしてふたりは数学教室の中へと入った。
 教室内でふたりを待っていた鳴海先生は、仕事の時だけかけている眼鏡をおもむろに外す。
 そしてふたりに近くの椅子に座るよう促し、その切れ長の瞳を向けて言った。
「何故おまえたちを呼んだか、もう分かっているな?」
「今朝のこと、だろう?」
 健人の言葉に頷いた後、先生は眞姫に視線を向ける。
「怪我はなかったか、清家」
「はい。私は何ともないです」
「俺がそばについていたんだ、姫に怪我なんてさせない」
 青い瞳を先生に向けて、健人はそう言った。
 眞姫と健人には、普通の人には使えない特殊な能力がある。
 眞姫たちだけではない。映画研究部に所属する数名の少年たちにも、同様の力が備わっているのだ。
 映画研究部とは仮の姿であり、その実体は人間に害を及ぼす存在と戦う力を持つ者の集まりなのである。
 そして、そんな人間に害を及ぼす存在のことを、眞姫たちは“邪”と呼んでいる。
 この“邪”は、能力を持たない普通の人間には見えない。
 それは一般的に知られている“霊”と同じような浮遊物体であるが、ただ人の目に見えないだけの“霊”とは違い、“邪”は人間にとって有害なものなのだ。
 残虐な性質を持つ“邪”はより大きな力を得るために、弱い心を持つ人間の心の隙間に入り込み、その身体を乗っ取ろうとする。
 それを阻止して退治することができるのが、健人をはじめ映画研究部員である少年たちであり、彼らは“能力者”と呼ばれている。
 そしてそんな彼ら“能力者”を統括しているのが、部の顧問でもあり“能力者”でもある鳴海先生であった。
 だが“能力者”の使命は、“邪”を退治するだけではない。
 そんな“能力者”の中でも、特に強大で特別な力を持つ存在。
 凶悪な“邪”と対抗するために必要な特殊能力を持つ、選ばれし唯一無二の者。
 そんな特別であり強大な力を持つ者が、“浄化の巫女姫”と呼ばれる存在である。
 そして眞姫こそが、この“浄化の巫女姫”であった。
 だがその力の強大さゆえ、まだ能力が発展途上である現段階では、眞姫自身が自分でその力をコントロールできない。
 鳴海先生はそんな十分に力の制御を行えない眞姫の身を守る使命も、健人たち“能力者”に与えているのだった。
「“邪”に襲われたのは、Bクラスの秋山涼子だそうだな。残された黄色い薔薇から推測すると、世間を騒がせている一連の事件にも“邪”が関係していると思われる。彼女の身の回りのことについて、何か聞いていることなどないか?」
 鳴海先生にそう言われて少し考えた後、眞姫は恐る恐る口を開く。
「関係ないのかもしれませんけど、秋山さんと今人気のモデル・井原聡(いはら さとし)が付き合ってるって噂があるのは聞いたことあります」
「井原聡?」
 聞いたことがない名前に、健人は眞姫に視線を向けた。
「女性雑誌によく載ってるモデルなんだけど、最近注目されてて人気あるみたい」
 遊び人風な甘いマスクが売りであるモデル・井原聡は、テレビなどにはまだあまり出ていないためファン層は偏ってはいるが、その人気は高い。
 今朝襲われた秋山涼子は、そんな井原と交際しているという噂がたっているのだ。
 彼女自身も派手な外見なうえに、学校に内緒でモデルの仕事をしているという噂まであるので、それが事実だとしても不自然ではない。
 鳴海先生はその瞳を細めてから、健人を見る。
「今回の件は健人、おまえに任せる。念のため、今日の夕方までにその井原聡のスケジュールを調べ資料を作成しておく。秋山涼子を襲った“邪”を見つけ出し、速やかに退治しろ」
 先生のその言葉に、健人は無言で頷く。
 そして先生は、今度は眞姫を見て言った。
「清家。まだおまえは自分の力の制御もままならない状態だが、今回の件に関してどうしたいと考えているのか、聞いておこう」
「…………」
 眞姫は、ふと俯く。
 自分には大きな力が宿っているはずなのに、まだ上手くそれを使いこなせない。
 力の制御ができない眞姫は、その能力を使うと一気に体力を消耗してしまい、倒れてしまうのだ。
 下手をすれば、健人の足手まといになるかもしれない。
 だが眞姫には、同級生を襲った“邪”のことを放っておくことができなかった。
「鳴海先生、私も健人と一緒に行かせてください。黙って見ているだけなんて、できません」
 その眞姫の大きな瞳には、決意という色が漲っている。
 先生は黙ってその言葉を聞いたあと、再び健人に視線を移す。
 健人は青の瞳を真っ直ぐに先生に向け、言った。
「姫は、この俺が守る」
「いいだろう。何かあった時は、すぐに私に報告するように。用件はそれだけだ。始業時間も近い、速やかに各々の教室に戻れ」
 そう言い放ち、そして先生は再び眼鏡をかけて書類に向かった。
 眞姫と健人はそんな先生に頭を下げてから、数学教室をあとにする。
 教室に戻る途中の廊下を歩きながら、健人はその青い瞳をふっと眞姫に向けた。
「姫、俺から離れるなよ。おまえは俺が守ってやるから」
 真っ直ぐに見つめられ、眞姫は思わずその視線にドキッとする。
 それからにっこりと笑顔を浮かべ、言った。
「うん、ありがとう。一緒に頑張ろうね、健人」
「ああ、そうだな。一緒に頑張ろう、姫」
 くしゃっと軽く眞姫の頭を撫でてそう言ってから、そして健人は優しく微笑んだのだった。


      *   *


 その日の、夕方。
 大きな夕焼けが、あたり一面を真っ赤に染めている。
 そんな中、都内の高級マンションを見上げたその少女は、キュッと唇を結ぶ。
 背中まである彼女の長い黒髪が、ふわっと揺れた。
 そんな黒髪の少女の瞳に映るのは、憎悪。
 髪の色と同じ漆黒の両の目には、深い闇が渦巻いていた。
「私以外の女なんて……絶対に、許せない」
 そう呟き、その少女はおもむろに歩き出す。
 その時。
「きゃっ、ごめんなさいっ!」
 曲がり角を曲がった瞬間、黒髪の少女は反対の角から現れた人物とぶつかりそうになる。
 慌てて謝るその人物に、黒髪の少女は無言で軽く頭を下げる。
 そして長い黒髪をかきあげてから、再び足早に歩き始めたのだった。
「姫って、結構鈍いよな」
 そう言って笑う健人に、黒髪の少女とぶつかりそうになったその人物・眞姫は首を傾げる。
「そうかな、自覚ないんだけど」
 うーんと考えるような仕草をしてから、眞姫は無意識にふと振り返った。 
 先程ぶつかりそうになった少女の背中で、彼女の持つ長い黒髪が揺れている。
 だがすぐに向き直り、隣を歩く健人に目を移した。
「あれが、例のモデル・井原聡の自宅のマンションか」
 放課後に鳴海先生に手渡された資料を見て、健人はそう呟く。
 こくんと頷いてから、眞姫はふと不思議そうに首を傾げた。
「今日の井原聡はオフみたいだね。それにしても、どうして先生はこんな情報を集められるの?」
「さあな、俺にも謎だよ。でも、あの鳴海だからな」
 眞姫は、健人の言葉にふと何かを考えるような仕草をする。
 鳴海先生の切れ長の瞳は、何もかもすべてのことを把握しているようで。
 あの鋭い切れ長の瞳で見つめられると、いつもドキッとしてしまう。
 だがあの威圧的な瞳の奥には、あたたかくて優しい光が垣間見れるような気もしていた。
 気を取り直し、眞姫は口を開く。
「それにしても、“邪”の手がかり見つけられるかな」
「井原が関係しているかは分からない。でも、調べておいて損はないだろ」
 それだけ言って、健人はマンションを見上げる。
 眞姫は、朝の出来事を再び思い出した。
 青白い光を放ちながら宙を舞う手は、何とも不気味で。
 その光景が目の前に浮かんできて、眞姫の背中に再びゾクッと悪寒がはしった。
 そんな様子の眞姫に気がつき、健人は右の青い瞳を眞姫に向ける。
 そしてスッと手を差し出して、言った。
「怖いか、姫? 大丈夫だ、俺が守ってやるから」
 健人の言葉に少し驚いた表情をした眞姫であったが、差し出された彼の手をそっと握る。
 健人の体温がその手から伝わってきて、眞姫は思わずドキドキした。
 少し不安を感じていた心が、その温かさで解かされていく気がする。
 眞姫は健人にその大きな瞳を向け、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう、健人」
 その言葉に、無言で健人は微笑みを返す。
 だが次の瞬間、その表情を変えてハッと顔を上げた。
 そして、声のトーンを落として言った。
「姫、マンションの入り口を見てみろ」
「え? あっ!」
 言われるまま視線を移動させた眞姫は、目の前の光景に瞳を凝らした。
 マンションから出てきたのは、雑誌の中でよく見る井原聡本人と、秋山涼子のふたりの姿だったのだ。
「やっぱり、秋山さんが井原聡と付き合っているっていう噂は、本当だったのね」
 並んで歩くふたりの姿は、誰がどこから見ても恋人同士である。
 見ている方が恥ずかしくなるくらいに密着しながら、ふたりは繁華街の方向へと向かっている。
「追うぞ、姫」
 短くそれだけ言って、健人は歩を進めた。
 眞姫もそれに遅れまいと、足早に歩き出す。
 それから、5分ほど歩いた頃だろうか。
「……!」
「!?」
 眞姫と健人は、同時に顔を上げる。
 そのふたりの表情は、険しいものに変化していた。
「空気の流れが、変わった?」
 眞姫は、それだけぽつりと呟いた。
 青い瞳を細め、健人はその言葉に無言で頷く。
 一見すると、数分前と何も変わらない風景。
 だが、今まさに目の前に広がる風景は、その表情を確実に変えている。
 その理由は、周囲に漂う非現実的な何かの気配。
 邪悪な気配を感じ、眞姫と健人は注意深くあたりを探った。
 この空気の変化も邪悪な気配も、もちろん普通の人間には感じ取ることができない。
 その証拠に、恋人同士のふたりは完全に自分たちだけの世界を作っている。
 その時。
「!」
 眞姫の全身に、得体の知れない寒気がはしる。
 それと同時に、前方を歩いていた恋人たちの足がぴたりと止まった。
 そんな彼らの目の前に現れたのは。
「あっ、あの子! さっき、井原聡のマンションの前でぶつかりそうになった子だ」
 風に揺れる長い髪が印象的な、その黒髪の少女。
 そんな彼女の瞳の色を見た瞬間、眞姫は息を飲んだ。
 その奥に渦巻く、闇の存在。
 漆黒の瞳には邪悪な色が感じられると同時に、何故だか寂しそうな色も共存しているようにも思えた。
「何の用だ、おまえ?」
 明らかに面白くなさそうな表情で、モデルの男・井原は黒髪の少女にそう言った。
 少女と彼の姿を交互に見つめて、涼子は首を傾げる。
「ねぇ聡、あの子誰よ?」
 その問いに答えたのは、黒髪の少女だった。
「私、聡の女だったの。ていうか、そいつに今何人彼女がいるか知ってる? 貴女も騙されて、その男に捨てられるだけよ」
「え? どういうこと、聡?」
 涼子の言葉には答えず、井原はチッと舌打ちをした。
「俺に捨てられた女の分際で、今頃ノコノコ出てきて何をする気だ? おまえにはもう用はないんだよ、帰れ」
「あんたに用がなくても、私の方はあるのよ、聡」
 鼻で笑うようにそう言って、黒髪の少女は手に持っていたものを地面に落とす。
 それは――黄色い薔薇の花。
 一輪の黄色い薔薇が黒髪の少女の手元を離れ、重力に逆らわずに舞った。
 ニイッと口元に笑みを浮かべて、黒髪の少女は言葉を続ける。
「聡にほかの女がいるなんて、私許せないの。聡の女はみんな消して、彼を取り返してみせるわっ!」
 黒髪の少女がそう叫び、その右手を天に掲げた瞬間。
「えっ!? あうっ!!」
 涼子は突然、苦しそうな呻き声をあげた。
 天に掲げた黒髪の少女の手首が消えたように見えたかと思った、その時。
 それが数メートルも離れた涼子の目の前に現れ、ものすごい力で彼女の首をギリギリと絞め始めたのだった。
「健人っ」
 今まで身を潜めて様子をうかがっていた眞姫は、たまらずに隣の健人に視線を移す。
 健人はちらりと眞姫を見て頷いてから、右手に“気”の光を宿した。
 健人の身体を漲る“気”のエネルギーの流れがその掌に瞬時に集まり、球体を成す。
 そして美しい弧を描く“気”の塊が、黒髪の少女目がけて彼の手から放たれた。
 唸りを上げながら空気を裂き、その衝撃が黒髪の少女に襲いかかる。
「!!」
 少女は突然襲いかかってきた光に、驚いたように瞳を見開いた。
 そして、人間とは思えない跳躍力でそれをかわす。
 健人はその青い瞳を黒髪の少女に向け、言った。
「その男への想いと、そいつの女たちへの嫉妬心か。そんな心の闇を“邪”につけこまれて、身体を乗っ取られたんだな」
「おまえ、朝も私の邪魔をした……どうしてっ!?」
 黒髪の少女はクッと唇を結んで、健人を睨みつけた。
 少女の手から解放され、気を失った涼子の身体がずるりと地に崩れ落ちる。
 そしてその隣で井原は、目の前で一体何が起こっているのか理解できない様子で、ただ呆然と立ち尽くしていた。
 相変わらず表情を変えず、健人は再び右手に光を漲らせる。
「どうして、だって? あんたの心の闇に巣くう“邪”を、ただ退治に来ただけだ」
 眞姫はふと、黒髪の少女の持っていた黄色い薔薇に視線を移す。
 黄色い薔薇――花言葉は、嫉妬。
 世間を騒がせている“黄色い薔薇事件”の被害者は、きっと全員が人気モデル・伊原聡の女だったのだろう。
 そんな女たちに対する黒髪の少女の嫉妬心が、“邪”を呼び寄せたのだ。
 彼の女たちを消して、そして彼を自分のものにするために。
 行き過ぎた愛情が憎しみへと変わり、そんな彼女の心の闇が“邪”につけいる隙を与えてしまった。
 そして欲望のためにそれを受け入れた少女は、その身体を“邪”に支配されてしまっているのだ。
 黒髪の少女は、再びその右手を天に掲げた。
 右手に巻かれた真っ白な包帯は、今朝健人の攻撃を受けた時に負った傷であろう。
 だが攻撃を受けた傷よりも、ずっと黒髪の少女の心の傷の方が痛々しいものであると眞姫は感じたのだった。
 黒髪の少女の右手が、ボウッと不気味な青白い光を発する。
 そして次の瞬間、先ほどと同じようにふっとその手首だけが消えた。
 そんな様子に慌てることなく、健人はその青の瞳を細める。
「俺には通用しない。無駄だ」
 そう言って健人は、自分の首を絞めようと突然姿を現したその青白い手首を、ガッと掴んだ。
「なっ!?」
 手首を掴まれて驚く少女を見据え、健人は“気”の光を帯びた右手を振りかざす。
 そしてその手を掴んだまま、言った。
「あんたの呼び寄せた“邪”を、退治させてもらう」
 その時。
「! 待って、健人!」
 今にも光の衝撃を放たんとしている健人に駆け寄り、眞姫は首を振る。
「待って、これ以上精神的にも肉体的にも、彼女を傷つけないで。お願い」
「姫……」
 眞姫の言葉に、健人はぴたりと動きを止める。
 一度人間に憑依した“邪”を消滅させるためには、その媒体である人間自身をも消滅させなければいけない。
 すなわち、黒髪の少女に憑いている“邪”を消滅させるためには、少女の肉体ごと消してしまわなければならないということなのだ。
 それは同化してしまっている“邪”が、憑依した人間の内面、心の隙間に巣くっているためである。
 だがたったひとつだけ、同化してしまった“邪”と人間の身体を引き離すことができる方法がある。
 それは……。
 眞姫はゆっくりと健人に近づき、彼の掴んでいる少女の手を優しく握った。
 その瞬間。
「!!」
 眞姫の身体全体に、眩い大きな“気”の光が漲る。
 そのあまりの眩さに、近くにいる健人は思わずその瞳を細めた。
 そして眞姫を覆い囲んだその輝きは、握った手を伝って黒髪の少女の身体をも包み込む。
 その輝きは神々しくもあり、またあたたかいものでもあった。
 眞姫はギュッと少女の手を握り締め、そして言った。
「心を開いて、貴女の身体から頑張って“邪”を追い払って!」
「なっ……!! きゃあぁっ!!」
 光に包まれた少女は、苦しそうに身悶えし始めた。
 眞姫は凛とした輝きを湛えるその瞳を逸らすことなく、真っ直ぐに少女に向けている。
 その時。
「……っ!! ああっ!!」
 少女の悲鳴と同時に、眞姫を取り囲んでいる大きな光が一気に弾けて周囲に満ち溢れた。
「これは“浄化の巫女姫”だけの特殊能力、“憑邪浄化”!?」
 健人は右手でその光の眩しさから目をかばいつつ、そう呟いた。
 人間の身体に憑依した“邪”を、その媒体の人間から引き離す唯一の方法。
 それが、“浄化の巫女姫”である眞姫だけが使える特殊能力“憑邪浄化”によってのみ成せることである。
 ドサッと音がし、黒髪の少女の身体がその場に倒れるのが見えた。
 そして。
『何っ!? 何故身体から離れたのだ!?』
 低い邪悪に満ちた声が、周囲に響き渡る。
 地に倒れている少女の頭上に浮かぶのは、霧のような漆黒の物体。
 この漆黒の物体こそ、眞姫の能力によって少女の身体から引き離された“邪”の実体である。
 健人は眞姫をかばうように位置を取り、青い瞳を“邪”に向けた。
 それから右手に光を漲らせ、静かに言った。
「おまえが彼女に憑依していた“邪”だな。消えろ」
 その言葉と同時に、彼の右手がふっと振り下ろされる。
 次の瞬間、大きな衝撃音とともに、“邪”の断末魔が耳に響き渡る。
 そしてその衝撃の余波が晴れたその場所には、漆黒の“邪”の姿は跡形もなく消え失せていた。
 眞姫は邪悪な気配が消滅したのを確認して、そして呟く。
「よかった……私、ちゃんと力、使えたんだね……」
「! 姫っ!」
 ハッと健人は顔を上げ、振り返った。
 特別大きな力を持つ眞姫であったが、彼女自身その力をまだ十分に使いこなせてはいない。
 能力を使うことに慣れていない彼女の身体には、大きな負担がかかるのだ。
 そのために力を使った後、眞姫は一気にその体力を消耗してしまう。
 全身に力が入らなくなって崩れ落ちようとする眞姫の身体を、健人はその腕でしっかりと支えた。
「大丈夫か? よく頑張ったな、姫」
 腕の中にいる眞姫の栗色の髪を優しく撫で、健人はふっと微笑む。
 それから眞姫を支えたまま、気を失って倒れているふたりの少女にその視線を向けた。
 気を失ってはいるものの、首を絞められた涼子も“邪”から開放された黒髪の少女も、どちらも無事なようである。
 そんな様子を確認して健人がホッと安堵の息をついた、その時だった。
「どいつもこいつも、勘違いばっかりしやがって! おまえら如きに、この俺の女がつとまるわけないだろうっ」
 モデルの男・井原は、倒れている少女ふたりに向かって壊れたように笑いながらそう吐き捨てた。
 その姿は、いつも雑誌で格好良くポーズをとっている彼とはまるで別人である。
「おまえたちなんて、所詮使い捨ての都合のいい女だ、遊んでやっただけでも感謝すべきなのに、こんな仕打ちとはなっ!」
「ひどい……」
 健人に支えられながら、眞姫は井原の言葉に大きく首を横に振る。
 そんな悲しそうな表情をする眞姫を見つめ、健人は言った。
「姫、支えがあれば身体起こせるか?」
「あ、うん……たぶん大丈夫」
 眞姫の背中を近くの壁にもたれさせてから、健人は立ち上がる。
 ゆっくりと健人は、まだ少女たちに悪態をついている井原の近くまで歩を進めた。
 そして、おもむろにギュッと右の拳を握り締める。
 次の瞬間。
「!!」
 ガッと鈍い音がしたかと思うと、健人の右拳が井原を殴り飛ばしていた。
 そして近くの壁に激しく身体をぶつけた井原は、その衝撃に耐え切れず気を失う。
 右の青い瞳でそんな彼を一瞥してから、健人は眞姫の元へと戻った。
「健人……」
「大丈夫か、もう立てるか? 姫」
「あ、うん。体力もちょっとだけ回復してきたみたい」
 健人に肩を借りながらも、眞姫はゆっくりと立ちあがる。
 そして、健人に殴られて伸びている井原の姿をちらりと見た。
 そんな眞姫の視線に気がつき、健人は言った。
「俺には、理解できない」
「え?」
 ぽつりとそう呟いた健人に、眞姫は不思議そうな視線を向ける。
 眞姫を真っ直ぐに見つめてから、そして健人は言葉を続けた。
「複数の女を作る時間なんて勿体無い。そんな時間があるのなら、俺はひとりの大切な人のそばにいてやりたいと思っているから」
 普段はあまり表情を表に出さない健人であるが、今の彼の瞳には青く揺らめく炎のような熱いものが漲っている。
 自分だけを映す、健人の神秘的な瞳。
 その奥にある情熱的な青い炎を、眞姫はこの時強く感じたのだった。
 そんな健人に目を向け、眞姫は微笑んだ。
「そうだね、私もそう思う。でも本当に健人って、見かけによらず情熱家なんだね。健人に好きになってもらえる女の子って、きっと幸せだろうな」
「…………」
 眞姫の言葉に、健人は思わず言葉を失う。
 そしてガックリと肩を落とし、眞姫に聞こえないような小声で呟いた。
「本当にどこまで鈍いんだ、姫は」
「え? 何?」
 きょとんとした表情をする眞姫の頭を優しく撫で、健人は笑う。
「いや、何でもないよ」
 まだ不思議そうな顔をしている眞姫から視線を外した健人は、ふと地面に視線を向けた。
 そして屈んで、あるものを手に取る。
 それは、一輪の黄色い薔薇の花。
「俺はやっぱり、赤い薔薇の方が好きだな」
 それだけ言って、健人は青い瞳を細める。
 ――赤い薔薇の花言葉は、熱烈な恋。
 お姫様に恋心を抱く少年たちの淡い想いは、一体いつになったら彼女に届くのだろうか。
 だが今の少年たちにとってお姫様と一緒の時間を共有することだけでも、世界が情熱的な薔薇色に見えるのである。
 おもむろにその黄色い薔薇を手離し、健人は眞姫を伴って薄暗くなった夕方の街を歩き出した。
 彼の手を離れた黄色い薔薇の花びらが、はらはらと宙に舞う。
 そしてそれは真っ赤な夕焼けに照らされながら、風に乗って美しく散ったのだった。


FIN


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短編

  薔薇色の世界

 美佑

番外編紹介:

 学園もの現代FT。登校中、右目が青の美少年・健人は、ひとりの少女を助ける。その現場には、一輪の薔薇が……。本編は、特別な力を持つ少女と彼女を守る少年達のファンタジー。

注意事項:

年齢制限なし

(本編連載中)

(本編注意事項なし)

◇ ◇ ◇

本編:

 Sacred Blood

サイト名:

 THE BORDER

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