番外編:Accidental encounter







 ――ある晴れた日の日曜日。
 時間は夕方に差し掛かっていたが、まだ天には青空が広がっていた。
 そして繁華街に程近い静かな休日のオフィス街に、一台の車が停車する。
「やあ、将吾。休みの日に悪かったね」
 停車した車――ダークブルーのウィンダムのドアを開けて、ひとりの上品な紳士は運転席の人物に声を掛けた。
 それからその紳士こと鳴海秀秋は車に乗り込み、穏やかな印象を受ける微笑みを、自分を迎えに来た息子に向ける。
 父がシートベルトを着用したのを確認してから、彼の息子・鳴海将吾は相変わらず淡々と言った。
「丁度近くにいましたし、それに貴方から突然呼び出されることには慣れていますから」
 ふうっとわざとらしく溜め息をついて、そして鳴海先生は車を走らせ始める。
 紳士は愛想のない息子の様子も気に留めず、にっこりと満足そうに笑顔を宿した。
 そんな全く悪びれのない父にブラウンを湛える切れ長の瞳をちらりと向けてから、先生はもう一度小さく嘆息する。
 父から職場に迎えに来て欲しいと電話があったのは、いつもの如く突然で。
 しかも図ったかのように、鳴海先生の車が父の職場のすぐ近くを通りかかった時だった。
 おそらく、いや確実に“空間能力”で自分の気配がすぐ近くにあることを知っての確信犯に違いない。
 父の性格をよく知っている鳴海先生にはそれが分かっていたが、特に断る理由もなかったので、父を迎えに行くことにしたのだった。
「よかったよ、今日は車を家に置いてきたところだったんだ。タクシーで帰ろうかとも思ったんだが、君が近くにいてくれて助かったよ。運命の女神様に、この偶然を感謝しないといけないな」
 きっと父のことだから、朝家を出る時から自分をこうやって呼び出すつもりだったに決まっている。
 そう思った鳴海先生だったが、それ以上に何と言ってもこの人には通じないということもよく分かっており、敢えてツッこむことをやめた。
 紳士はそんな息子の様子を楽しそうに見て、そして普段と変わらずマイペースに話を始める。
「そうそう、この間昔のアルバムを整理していたんだが、うちの王子は小さい頃から母君に似てとても可愛かったよ。少し愛想はないが、またそこが可愛くてね。あ、今度実家に戻ってきたら君も見るかい? うちの王子様」
「……いい加減、子離れしていただけませんか? 大体いつも思うのですが、貴方は私を一体いくつだと思っているんですか」
 呆れたように、鳴海先生はそう冷たく言った。
 だが紳士は、そんな先生の反応にくすくすと笑う。
「本当に照れ屋さんなんだからね、将吾は」
「どういう解釈でそういう結論に行き着くのか、私にはさっぱり分からないのですが」
 親子は親子でも、ふたりは全く性格が正反対で。
 マイペースで穏やかでいつも微笑みを絶やさない物腰柔らかな父と、生真面目で愛想がなく見る人に厳しい印象を与える完璧主義者な息子。
 鳴海先生は夢見がちな父の言動が、幼い頃から理解できなかった。
 だが……不思議と、そんな父と一緒にいることが嫌いではない。
 父もそれを分かって、自分を振り回しているのだろう。
 それから――会話が噛み合っているかどうかはともかく、運転している鳴海先生の隣で紳士は楽しそうに話を続けた。
 先生も時折ツッこみを入れつつも、表情は決して変えないが満更でもなさそうに父とドライブをしていた。
 ……その時。
 紳士はふと窓の外に目を向け、息子と同じ色のブラウンの瞳を細める。
 そして、鳴海先生に言った。
「将吾。ちょっと車、止めてくれないかな?」
「…………」
 先生はその父の言葉に、少し考える仕草をする。
 それから仕方がないように、路肩に車を停車させた。
 紳士は外に出るために助手席のドアを開けてから息子に改めて視線を向け、こう言ったのだった。
「今日はツイているかもしれないな。こうも運命の出会いが続くなんてね」
 それだけ言って、紳士は車を降りて歩き出す。
 それから――数分も経たないうちに。
 紳士は、再びダークブルーのウィンダムに戻って来た。
 だが戻って来た彼は、ひとりではなかった。
 紳士は助手席のドアを開けると、中には入らずに鳴海先生に声を掛ける。
「将吾、私はもうここで結構だから、彼女を送って差し上げて」
 紳士と一緒に、先生の愛車に現れたのは。
「えっ? でも、いいんですか?」
 風に揺れる栗色の髪をかき上げ、その少女・清家眞姫は紳士を見る。
 紳士はそんな眞姫ににっこりと微笑み、ウィンダムの助手席へと促した。
 休日のこの日、眞姫はひとりで繁華街に買い物に来ていたのである。
 そして買い物を済ませて歩いているところを、紳士に発見されたのだった。
 眞姫を車に乗せて助手席のドアを閉めると、紳士は上品な顔に笑みを宿して軽く手を振る。
 眞姫は恐縮しつつも、隣の鳴海先生を見ておそるおそる言った。
「鳴海先生、こんにちは。あの、よかったんでしょうか?」
「私は別に構わない。それよりもシートベルトをしろ、発進する」
「あっ、はい」
 眞姫は慌てて、言われた通りにシートベルトを締める。
 鳴海先生はそれを見届けて、アクセルを踏んだ。
 紳士が車を止める前から、“空間能力者”である先生も眞姫の存在が近くにあることに気がついていた。
 そして、父がこうするだろうことも予想していたのである。
 父に何を言っても無駄だと分かっている先生は、特に送る相手が父だろうと眞姫だろうとどちらでも構わなかったのだった。
 眞姫は少し緊張した面持ちで、ちらりと鳴海先生を見る。
 その視線に気がつき、先生は切れ長の瞳を彼女に向けた。
「何か質問か?」
「えっ? いえ、これからどこに行くのかなって」
「どこって、自宅までおまえを送るのだろう?」
 逆にそう訊かれ、眞姫は瞳をぱちくりさせる。
 それから、こくんと頷く。
「あ、はい。そうですよね」
「…………」
 何故か恥ずかしそうに俯いて顔を赤くする眞姫を、先生は改めて見る。
 そして信号に引っかかって車を止めてから、彼女にこう言ったのだった。
「まだ時間も、それほど遅くはない。もしおまえがよければ、少し寄り道でもしていくか?」
「えっ?」
 先生の思いがけないその言葉に、眞姫は驚いたように顔を上げる。
 それから気を取り直して嬉しそうに笑顔を浮かべ、大きく首を縦に振った。
「はい。先生がよければ、喜んで」
 そして鳴海先生はそんな彼女の返事を聞いた後、おもむろに眞姫の家とは別方向へとハンドルを切ったのだった。


 

 それから、数分後。
 鳴海先生に連れられた眞姫は、一軒の喫茶店内にいた。
 それほど広くない店内は明るくもなく暗くもない品のいい照明がともり、数え切れないコーヒーカップが所狭しと並んでいる。
 耳に心地よく響くバロック音楽が、会話の邪魔にならない程度に静かに店内に流れている。
「久しぶりに来ます、『ひなげし』。少し前に、先生と来て以来かな」
 眞姫は鼻をくすぐる珈琲のいい香りに瞳を細めながら、カウンター席の隣に座っている先生を見る。
 喫茶店『ひなげし』には、以前鳴海先生とそして彼の父である傘の紳士に連れて来てもらったことがあった。
 この店はマスターの集めた色とりどりのコーヒーカップから好きなものを選び、それにマスターが自慢の珈琲を淹れてくれる。
 眞姫は数百はあるのではないかと思われるカップを見回し、どのカップで淹れてもらうか悩む。
 そんな眞姫の様子に、穏やかな印象の笑顔で『ひなげし』のマスターは言った。
「ゆっくり選んでもらって構いませんよ」
「あ、はい。すみません」
 栗色の髪を揺らして頷いた後、眞姫はふと先生の方を見る。
 そして、相変わらず表情を変えない先生に訊いたのだった。
「先生は昔からの常連で、マイカップあるんですよね? どうしてそのカップなんですか?」
 眞姫はさり気なく鳴海先生のマイカップを用意しているマスターにちらりと視線を向け、首を傾げる。
 先生のマイカップは、質素で飾り気はあまりないが、上品な雰囲気を醸し出す小振りのカップであった。
「特に理由はない。毎回カップを変えるよりも、決まったカップで珈琲を楽しむ方が私の性に合っているからな」
「そう言われては、私としても複雑ですけどね」
 先生の言葉に、マスターはそう言って笑う。
 そのいかにも先生らしい言葉に、眞姫は妙に納得したように頷いた。
 それから、どのカップにしようか再び飾られているカップに目を移す。
 ――その時だった。
 鳴海先生はふと顔を上げ、店の入り口を見て少し複雑な表情を浮かべた。
 眞姫はそんな先生の様子に気がつき、同じようにブラウンの大きな瞳を向ける。
 だが、特に何も変わったことは見られなかった。
 眞姫は瞳をぱちくりさせてから、そして再びカップ選びに戻る。
 それから、ようやく花柄の可愛らしいカップを選んだ。
 目の前で珈琲を淹れてくれるマスターの手つきに感心しながら、眞姫は珈琲のいい香りに満足そうに笑う。
「…………」
 鳴海先生は黙ったまま、何かを考えるような仕草をしていた。
 眞姫は淹れ終わって出された珈琲をひとくち飲んだ後、おもむろにその顔を上げる。
 入り口のドアにつけられているベルの音が、チリンと微かに聞こえたからである。
 店に入ってきたのは、一組のカップルだった。
 いかにも仲が良さそうに、そのカップルはぴたりと寄り添っている。
 だが、何気なくそのカップルを見た眞姫は、驚いたように大きく瞳を見開いた。
 そして、ぽつりと呟いたのだった。
「えっ!? 日本史の大河内先生と、Cクラスの今宮さん!?」
 そのカップルは、眞姫の知っている人物だったのである。
「! なっ、な、鳴海先生に、Bクラスの清家!?」
 カップルの片割れ・日本史の大河内藍(おおこうち あい)先生はカウンターに座っている眞姫たちに気がつき、漆黒の瞳をぱちくりさせた。
 そんな大河内先生の隣にいる少女・今宮那奈(いまみや なな)も驚いたように、どうしたらいいか分からない表情を浮かべている。
 大河内先生は鳴海先生の同僚で、聖煌学園の日本史教師をしている。
 眞姫のBクラスの日本史も、この大河内先生が担当していた。
 大河内先生は鳴海先生より1つ年下で、鳴海先生の学生時代の後輩なのだった。
 そしてそんな大河内先生の恋人である今宮那奈は、眞姫の隣のクラスの生徒である。
 肩より少し長い黒髪と同じ色をした少しつり気味の瞳が印象的な、可愛いというよりも美人タイプな少女。
 今まで那奈と同じクラスになったことがない眞姫だったが、彼女のことは知っていた。
 だが、このふたりが付き合っているなんてことは全く知らなかった。
 驚きを隠せない3人を後目に、鳴海先生はひとり表情を変えずに珈琲を口に運ぶ。
 そんな鳴海先生を見て、大河内先生はおそるおそる口を開いた。
「あ、あの、鳴海先生……」
「何だ?」
「え? いえ、何というか、その……」
 切れ長の瞳を向けられ、鳴海先生にいろいろと頭の上がらない大河内先生は困ったような顔をする。
 それから気を取り直し、隣にいる那奈にこう言ったのだった。
「ちょっと今から鳴海先生と話するから、おまえは清家と話をしてろ」
「え? あ、うん」
 那奈はまだ何度も瞬きしながらも、大河内先生の言葉に頷く。
 そして大河内先生は意を決したように、鳴海先生に目を向けたのだった。
「あの、鳴海先生。少しお時間いただいてもいいですか?」



  
 カウンター席に女の子たちを残し、鳴海先生と大河内先生は彼女たちから少し離れた席に座った。
 大河内先生はちらりと鳴海先生に漆黒の瞳を向け、はあっと大きくひとつ深呼吸をする。
 鳴海先生はそんな大河内先生に、淡々と言った。
「大河内先生、話とは何ですか?」
「えっ? あの、俺と今宮那奈のことなんですけど……」
 かなり言いにくそうに、大河内先生はそう切り出した。
 昔から何かと鳴海先生に世話になっている大河内先生だったが、いかにも厳しい雰囲気を醸し出す彼のことが昔から正直ちょっと苦手だった。
 同じ教師という立場ではあるが、鳴海先生と話していると、まるで自分が生徒で彼に怒られているような錯覚に陥ってしまいそうになる。
 だが大河内先生は、苦手ながらも教育に対して確固たる信念を持っている鳴海先生のことを信頼し、尊敬していた。
 とはいえ、こっそり付き合っている生徒とイチャイチャしているところを、よりによって素行に厳しそうな鳴海先生に見られてしまうなんて。
 きっと怒られるんだろうなと思いつつ、大河内先生は漆黒の前髪をザッとかき上げる。
 そんな大河内先生を見て、そして鳴海先生は言った。
「特に大河内先生のプライベートに関して、私が言うことは何もない。教育の場にプライベートを持ち込まなければ、それで結構だ」
「え?」
 怒られるだろうと腹を括っていた大河内先生は、意外な表情をして鳴海先生を見つめる。
 そしてハンサムな顔に笑顔を宿し、大きく頷いた。
「はい、それは重々承知しています。もちろん学校には、プライベートは一切持ち込みませんので」
 そう言った後、大河内先生は気が抜けたようにはあっと嘆息する。
 それから、笑って言ったのだった。
「鳴海先生に、生徒と交際しているなんてけしからん! って怒られるんじゃないかと、ビクビクしてました」
「何故か君は私に対して、妙な固定観念を持っているようだからな。それにしても本当に君は、昔から世話が焼ける」
「す、すみません」
 うっと言葉に詰まり、大河内先生は素直に詫びを入れる。
 ひとくち珈琲を飲んだ後、そんな大河内先生に鳴海先生は言った。
「学校での君の勤務態度は極めて真面目であるし、今宮も成績、素行ともに問題はない生徒だ。特に何も私から言うことはない」
 大河内先生はその言葉を聞いて、安心したようにようやく珈琲を口に運ぶ。
 そして思い出したように顔を上げ、再び言いにくそうに口を開いた。
「あの、それで……このことは、理事長には報告するんでしょうか?」
 聖煌学園の理事長は、鳴海先生の父である傘の紳士・鳴海秀秋氏である。
 話が父のことになり、鳴海先生は少し表情を変えた。
 それから深々と溜め息をつき、彼の問いに答える。
「特に報告する気はない。それに報告したとしても、あの人は何とも思わないだろう。父自身、学生時代の教師である母と結婚しているしな」
「えっ、そうなんですか!?」
 驚いたようにそう言って、それから大河内先生は何かを考えるような仕草をした。
 そして再び、訊きにくそうに言ったのだった。
「あと、こういうことを訊くのは何なんですが……鳴海先生は、どうしてBクラスの清家と?」
「…………」
 大河内先生の質問に、鳴海先生はふと口を噤む。
 もちろん大河内先生は、“能力者”でも何でもない一般人である。
 自分と彼女の関係を説明することもできないし、その必要もない。
 鳴海先生は表情を変えず、短くこう言ったのだった。
「勘違いするな。私と清家は、君たちのような関係ではない」
「そ、そうですか」
 もう話すことはないと言わんばかりの鳴海先生の口調に、大河内先生はそれ以上ツッこめなかった。
 そして楽しそうに話をしている女の子たちをちらりと見た後、嘆め息をついて漆黒の前髪をかき上げたのだった。




「でも大河内先生と今宮さんが恋人同士だなんて、やっぱりびっくりだな」
 那奈から一通り事情を聞いた眞姫は、うんうんと頷いて彼女の話を聞いていた。
 那奈は幸せそうにこくんと首を縦に振ると、眞姫に言った。
「あ、清家さん。このことは、学校では内緒にしておいてくれないかな」
「うん。誰にも言わないから、安心して」
 にっこりと微笑む眞姫の言葉にホッとして、那奈はそれから気になっていたことを訊く。
「それで、清家さんと鳴海先生って……どういう関係なの?」
「えっ? 私と、鳴海先生?」
 思いがけないことを質問され、眞姫はびっくりしたような顔をする。
 確かに自分と鳴海先生は、ただの生徒と教師の関係ではない。
 だがあくまでそれは、“浄化の巫女姫”と“能力者”という関係である。
 とはいえ、那奈にそれを説明もできない。
 少し考えてから、眞姫は彼女の問いにこう答えた。
「鳴海先生には、いつもすごくお世話になっているんだ。相談に乗ってくれたりとか、いろいろ」
「じゃあ、付き合っているわけじゃないんだ」
「つ、付き合ってるって……そんな関係じゃないよ」
 眞姫は驚いたように瞳をぱちくりさせる。
 そんな眞姫の反応を見てから、那奈はさらに訊いた。
「清家さんって、彼氏とかいないの? Aクラスの蒼井くんとは、仲いいよね」
「彼氏はいないよ。って、健人? うん、健人とは仲いいけど、どうして?」
 きょとんとする眞姫に、那奈は意外な表情をする。
「清家さんって可愛いし頭もいいから、彼氏いるかと思ってた。蒼井くんと私って中学が一緒だったんだけど、蒼井くんってあまり女の子に興味なさそうだなって思っていたのに、清家さんと話している時はすごく楽しそうでしょ。だから……」
「だから?」
 那奈の言葉に、眞姫は首を傾げる。
 そんな眞姫の問いには答えず、那奈は言葉を切って彼女に笑顔を向けた。
 仲の良い眞姫と健人は、実は付き合っているのではないかという噂がある。
 だが、そんな噂を本人たちは知らないようだ。
 眞姫の様子だと、本当に彼女には今特定の彼氏はいないようであるし。
 あまり余計なことは言わない方がいいと、那奈は思ったのだった。
 それからふと、こう続ける。
「清家さんって、Bクラスの芝草くんや小椋くん、Aクラスの瀬崎くんやFクラスの梓くんとも仲いいよね? みんな中学バラバラみたいだけど」
「えっ?」
 何気なくそう言われ、眞姫は返事に困ってしまう。
 確かに一見すると、眞姫の周囲のボーイズたちに共通点はない。
 それに何気にそれぞれ印象は違うがハンサム揃いであり、いやがおうにも目立ってしまう。
 彼らが“能力者”であることを知らない人にとっては、どうしていつも彼らと眞姫が一緒にいるのか不思議なのも仕方がない。
 だが、どう言っていいか分からない眞姫の様子に気がつかず、那奈は続けた。
「あ、この間の梓詩音くんのコンサート、清家さんも来てたよね? 私も、大河内先生と行ったんだ。梓くんのピアノ、すっごく綺麗だったね」
「うん。詩音くんのピアノっていつ聴いても綺麗で、心が洗われるみたいだよね」
 特に深く追求されず、眞姫はホッとしたような表情を浮かべて頷く。
 そして、珈琲をひとくち飲んで満足そうに小首を傾げ、ブラウンの瞳を細めた。
 那奈はそんな眞姫の可愛らしい仕草を、改めて見つめる。
 屈指の進学校である聖煌学園でも成績優秀な噂の眞姫と初めてゆっくりと話をし、彼女の頭の良さだけでなく、その可愛らしさと性格の良さを那奈は強く感じたのだった。
 ――その時。
「那奈」
 鳴海先生と話の終わった大河内先生が、那奈を呼んだ。
 那奈は恋人の声に嬉しそうに微笑み、そして眞姫に軽く手を振る。
「じゃあ、清家さん。また学校でね」
「うん。学校で」
 にっこりと笑顔を返して手を振り返し、眞姫はそっと栗色の髪をかき上げた。
 それと同時に、鳴海先生が隣の席に戻ってくる。
 眞姫は大河内先生と那奈の幸せそうなカップルの姿を見た後、ぽつりと言った。
「いいな、すごく幸せそうですよね。私はまだ、恋愛する余裕がなくて……羨ましいです」
「…………」
 鳴海先生は、無言でそんな眞姫の言葉を聞いている。
 唯一無二の存在である“浄化の巫女姫”として、今の眞姫は運命と向き合うことに一生懸命で。
 恋愛まで、まだ気持ちが回らない状態なのである。
 しかも元来からの鈍い性格ゆえに、懸命にアピールしているボーイズの様子にも気がついていない。
 眞姫が運命の人を自覚する日は、一体いつになるのだろうか。
 そして、誰が彼女の心を射止めるのだろうか。
 鳴海先生は珈琲を飲んで、ふっと嘆息する。
 それから、微笑ましげに大河内先生と那奈を見ている眞姫に言ったのだった。
「何事も、無理をすることはない。“浄化の巫女姫”の能力覚醒も、そして恋愛も、焦らずとも運命に従って訪れる時に訪れるものだからな」
 先生のその言葉に、眞姫はにっこりと微笑む。
 その後、栗色の髪を揺らして大きく頷いた。
「そうですね、先生。私の運命の人、どんな人なんだろう……」
 眞姫は琥珀色をした珈琲を見つめて、まだ知らない自分の王子様に想いを馳せる。
 そして髪と同じブラウンの瞳を細めると、いい香りがしている濃い目の珈琲を口に運んだのだった。


FIN




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