EXTRA SCENE : Accidental encounter


「先生、ちょっとどこかでお茶しない?」
 颯爽と走る青のフェラーリの助手席で、那奈は運転席の大河内先生にそう声を掛ける。
 那奈の誘いに、先生はすぐに頷いて答えた。
「そうだな、どこかに入るか」
 ある晴れた、日曜の午後。
 学校が休みの二人は、相変わらずラブラブで休日のドライブデートを楽しんでいた。
 那奈はハンドルに添えている大河内先生の手に自分のものを重ね、幸せそうに微笑む。
 ふたりの手のぬくもりが、じわりと混ざり合う。
 信号に引っかかってブレーキを踏んだ後、大河内先生はふっと漆黒の瞳を細めた。
 そして那奈の頭に手を添え、彼女を自分の方へと引き寄せる。
 那奈は大河内先生の肩にそっと身体を預けた後、にっこりと笑顔を宿して言った。
「大河内先生、大好き」
「ああ。俺もだ、那奈」
 大河内先生は那奈の頭をそっと撫でると、彼女の顎を持ち上げる。
 その後、ゆっくりと神秘的な色を湛える瞳を伏せた。
 那奈も先生と同じように、軽く目を閉じる。
 そして……次の瞬間。
 ふわりと軽く、ふたりの唇が重なった。
 先生はぽんっと那奈の頭を軽く叩いた後、信号が変わったために再び車を発進させる。
 那奈は柔らかで甘いキスに満足そうに微笑みながら、照れたように漆黒の前髪をかき上げて言った。
「大河内先生、どこの喫茶店に入る?」
「うーん、そうだな……」
 那奈の問いに、大河内先生は少し考える仕草をする。
 それから、思いついたように口を開いた。
「あ、この近くなら、あそこがいいな」
「あそこって?」
 那奈は首を傾げ、先生に目を向ける。
 大河内先生はハンドルを切り、ニッと笑った。
「おまえがいかにも好きそうな、雰囲気のいい喫茶店だよ。珈琲もな、値段は高いけどこれが相当美味いんだ」
「そうなんだ、楽しみだな」
 自信満々な先生の様子に、那奈もつられて瞳を細めた。
 ――それから、十分もたたないうちに。
 青のフェラーリが、ある一軒の喫茶店の駐車場に入っていく。
 那奈は車を降りてから、目の前の店に目を向けた。
「何だか、すごくいい感じのお店ね。『ひなげし』か、お花の名前だね」
「外もだけどよ、中はもっと雰囲気いいぞ。んじゃ、行くか」
 那奈は大河内先生の腕に自分の腕を絡めた後、くすくすと笑う。
「それにしても、先生がこんな上品なお店知ってるなんてね」
「うるせーな、上品じゃなくて悪かったなっ。ていうか忘れてるかもしれねーけど、一応俺だってボンボンなんだぜ? まぁ実は俺も、鳴海先生に何度か連れて来てもらったんだけどな」
「えっ、鳴海先生に? 鳴海先生って、あの数学の鳴海先生よね」
 意外そうな顔をして、那奈は小首を傾げる。
 大河内先生は頷き、那奈を伴って歩き始めた。
「ああ。あの人の家、何気に金持ちだしよ。ていうかあの人とふたりだと、俺めっちゃ緊張するんだよな……ま、それはともかく、入るぞ」
 はあっと小さく嘆息した後、大河内先生は店のドアを開ける。
 那奈はチリンと微かに鳴ったベルの音を耳にしながら、先生に寄り添って歩を進めた。
 噂の鳴海将吾(なるみ しょうご)先生とは、大河内先生の同僚の数学教師である。
 年は大河内先生の1つ年上だが、子供っぽい大河内先生とは逆にいつも沈着冷静で落ち着いており、何だか近寄り難い雰囲気を醸し出している。
 そして学生時代からの先輩である鳴海先生に、大河内先生は何かとお世話になっていた。
 人にも自分にも厳しい鳴海先生が実はちょっと苦手な大河内先生だったが、それ以上に教師として人間として、彼のことを信頼し尊敬もしているのである。
 那奈のクラスの数学も、その鳴海先生が担当している。
 だが那奈は、馴れ合いの雰囲気皆無の先生とは、事務的な話しかしたことがなかったのだった。
 店に足を踏み入れた那奈は、珍しそうに周囲を見回す。
 そんな那奈の瞳に映るのは、店内に飾られている何百もの色とりどりのコーヒーカップ。
「ここはな、あのたくさんのコーヒーカップから客の選んだカップで、珈琲出してくれるんだよ」
「わぁっ、素敵ね。たくさんあるから、どれにするか迷っちゃうね」
 那奈は楽しそうに微笑み、そっと組んでいる大河内先生の腕に寄り添った。
 明るくも暗くもない上品な灯りに照らされた店内には、店の雰囲気にぴったりなバロック音楽が流れている。
 そして店内に漂う珈琲のいい香りが、ふわりと優しく鼻をくすぐった。
 那奈は嬉しそうに微笑み、漆黒の瞳を細める。
 ――その時だった。
「えっ!? 日本史の大河内先生と、Cクラスの今宮さん!?」
 ふとそんな声が耳に入り、那奈は顔を上げる。
 そして店のカウンター席に座っている人物を見つめ、驚いた表情を浮かべた。
 大河内先生も瞳をぱちくりさせながら、思わず声を上げる。
「! なっ、鳴海先生に、Bクラスの清家!?」
 先に店の中にいたのは、ふたりの知っている人物だったのである。
 つい先ほど話題にのぼっていた数学の鳴海先生と、ひとりの女生徒。
 鳴海先生は驚くふたりを後目に、黙々と珈琲を飲んでいる。
 そしてそんな鳴海先生の隣にいる少女は、名門進学校の聖煌学園でも、特に優秀な成績を修めている生徒だった。
 その少女・清家眞姫(せいけ まき)は那奈の隣のクラスである2年Bクラスに在籍している。
 学年でもトップの成績はもちろん、眞姫はその容姿の可愛らしさでも有名だった。
 クラスも違い、あまり彼女と話をしたことのない那奈でも、彼女のことは知っている。
 だが、見た目から厳しい鳴海先生と優等生の眞姫が、どうしてふたり一緒に喫茶店にいるのだろうか。
 そう思いつつも、那奈はどうしたらいいか分からない表情を浮かべて固まってしまっていた。
 自分たちが付き合っていることは、周囲には秘密にしているのに。
 よりにもよって厳しい鳴海先生に、イチャイチャ腕を組んでいるのを見られてしまったのだ。 
 大河内先生はまだ驚いた表情を浮かべつつ、相変わらず近寄り難い雰囲気を醸し出す鳴海先生に、おそるおそる口を開いた。
「あ、あの、鳴海先生……」
「何だ?」
 表情を全く変える様子もなく、鳴海先生は大河内先生の姿を切れ長の瞳に映した。
「え? いえ、何というか、その……」
 鳴海先生にいろいろと頭の上がらない大河内先生は、どう説明していいのかと困ったような顔をする。
 それから気を取り直し、隣にいる那奈にこう言ったのだった。
「ちょっと今から鳴海先生と話するから、おまえは清家と話をしてろ」
「え? あ、うん」
 那奈はまだ何度も瞬きしながらも、大河内先生の言葉に頷く。
 そして大河内先生は意を決したように、鳴海先生に目を向けたのだった。
「あの、鳴海先生。少しお時間いただいてもいいですか?」

 
「隣、座ってもいいかな?」
 先生たちが席を移動したのを見て、那奈は遠慮気味に眞姫に訊いた。
 眞姫は栗色の髪をふわりと揺らし、可愛らしい笑顔を那奈に向けて頷く。
「うん。どうぞ」
 話をしてろと言われても、お互い顔と名前を知っている程度で話をしたことはない。
 那奈は、どう話を切り出そうかと頭を悩ませた。
 眞姫は大きな瞳をそんな那奈に向け、小首を傾げる。
 そして、那奈にこう訊いたのだった。
「あの、違ったらごめんね。今宮さんと大河内先生って……」
 イチャイチャしている姿を見られた矢先、今更ふたりの関係を隠しても無駄である。
 そう思い、那奈は素直に首を縦に振った。
「私と大河内先生、実は付き合ってるの。周囲には、やっぱり隠してるんだけどね」
「そうなんだ。ふたりがお店に入って来た時は、すごく驚いたよ。いつから付き合ってるの?」
「先生とは、今年のホワイトデーから付き合いだしたの。私、入学した時から大河内先生のこと好きで、バレンタインの時にチョコ渡して。それで、いろいろあって付き合うことになったんだ」
 那奈のその言葉に、眞姫はにっこりと微笑む。
 そしてつぶらなブラウンの瞳を那奈に向け、言ったのだった。
「そっか。好きだった先生と恋人になれて、よかったね」
「清家さん……」
 目の前の眞姫は、男子生徒はもちろん、同性からも慕われていると那奈も噂は聞いている。
 そして実際に眞姫と話をして、その理由が分かった。
 ほんわかとした雰囲気と純粋そうなその言動は好感が持て、周囲の空気を不思議と和やかなものに変えている気がする。
 那奈は眞姫のその言葉に、嬉しそうに微笑んだ。
「うん。大好きな先生に想いが通じて、本当に今すごく幸せだよ」
「ふたり見ていても、すごく幸せなんだなって感じるもん。よかったね、今宮さん」
 自分のことのように眞姫は笑顔を浮かべ、そっと栗色の髪をかき上げる。
 それから眞姫は、ふと視線を鳴海先生と話をしている大河内先生に向けた。
 そして不思議そうに、こう言ったのだった。
「でも大河内先生、何だか学校での雰囲気と随分違う気がするんだけど……気のせいかな?」
 休日のため、今の大河内先生はプライベートバージョンである。
 だが学校バージョンの先生は、分厚い眼鏡と胡散臭い白衣を身に纏った、穏やかだが地味で冴えない日本史教師。
 そんな学校での大河内先生しか知らない眞姫が、今目の前にいるハンサムでお洒落な先生に違和感を覚えるのは当然である。
 那奈はどう言っていいか分からず、誤魔化すように笑った。
「え? そ、そうかな。やっぱり学校出たら、自然と印象も変わるのかもね」
 眞姫はうーんと小首を傾げて話をしている先生たちを見た後、口を開く。
「でも、鳴海先生はいつでもどこでも変わらないよね」
「鳴海先生がいきなり全力で笑顔浮かべたりしたら、その方がびっくりじゃない?」
「ふふ、そうだね。鳴海先生が思いっきり笑ったりするところ、想像できないよ」
 そう言って、那奈と眞姫は顔を見合わせる。
 そしてふたりは、同時にくすくすと楽しそうに笑ったのだった。


 カウンター席に女の子たちを残し、鳴海先生と大河内先生は彼女たちから少し離れた席に座っていた。
 大河内先生はちらりと鳴海先生に漆黒の瞳を向け、はあっと大きくひとつ深呼吸をする。
 鳴海先生はそんな大河内先生に、淡々と言った。
「大河内先生、話とは何ですか?」
「えっ? あの、俺と今宮那奈のことなんですけど……」
 かなり言いにくそうに、大河内先生はそう切り出した。
 昔から何かと鳴海先生に世話になっている大河内先生だったが、いかにも厳しい雰囲気を醸し出す彼のことが昔から正直ちょっと苦手だった。
 同じ教師という立場ではあるが、鳴海先生と話していると、まるで自分が生徒で彼に怒られているような錯覚に陥ってしまいそうになる。
 だが大河内先生は、苦手ながらも教育に対して確固たる信念を持っている鳴海先生のことを信頼し、尊敬していた。
 とはいえ、こっそり付き合っている生徒とイチャイチャしているところを、よりによって素行に厳しそうな鳴海先生に見られてしまうなんて。
 きっと怒られるんだろうなと思いつつ、大河内先生は漆黒の前髪をザッとかき上げる。
 そんな大河内先生を見て、そして鳴海先生は言った。
「特に大河内先生のプライベートに関して、私が言うことは何もない。教育の場にプライベートを持ち込まなければ、それで結構だ」
「え?」
 怒られるだろうと腹を括っていた大河内先生は、意外な表情をして鳴海先生を見つめる。
 そしてハンサムな顔に笑顔を宿し、大きく頷いた。
「はい、それは重々承知しています。もちろん学校には、プライベートは一切持ち込みませんので」
 そう言った後、大河内先生は気が抜けたようにはあっと嘆息する。
 それから、笑って言ったのだった。
「鳴海先生に、生徒と交際しているなんてけしからん! って怒られるんじゃないかと、ビクビクしてました」
「何故か君は私に対して、妙な固定観念を持っているようだからな。それにしても本当に君は、昔から世話が焼ける」
「す、すみません」
 うっと言葉に詰まり、大河内先生は素直に詫びを入れる。
 学生時代にも鳴海先生には、他校生に喧嘩を吹っかけるところを見られた上に助けられたりと、何かと頭が上がらないのである。
 ひとくち珈琲を飲んでから、そんな大河内先生に鳴海先生は言った。
「学校での君の勤務態度は極めて真面目であるし、今宮も成績、素行ともに問題はない生徒だ。特に何も私から言うことはない」
 大河内先生はその言葉を聞いて、安心したようにようやく珈琲を口に運ぶ。
 そして思い出したように顔を上げ、再び言いにくそうに口を開いた。
「あの、それで……このことは、理事長には報告するんでしょうか?」
 聖煌学園の理事長は、鳴海先生の父である鳴海秀秋氏である。
 期間限定という条件ながらも大河内先生の熱意を聞き入れて採用してくれたのも、ほかでもない鳴海先生の父である理事長である。
 この親子には、昔から世話になりっ放しの大河内先生だった。
 鳴海先生は何故か大河内先生の言葉に深々と溜め息をついてから、彼の問いに答える。
「特に報告する気はない。それに報告したとしても、あの人は何とも思わないだろう。父自身、学生時代の教師である母と結婚しているしな」
「えっ、そうなんですか!?」
 驚いたようにそう言って、それから大河内先生は何かを考えるような仕草をした。
 そして再び、訊きにくそうに言ったのだった。
「あと、こういうことを訊くのは何なんですが……鳴海先生は、どうしてBクラスの清家と?」
「…………」
 大河内先生の質問に、鳴海先生はふと口を噤む。
 それから鳴海先生は、表情を変えることなく短くこう言ったのだった。
「勘違いするな。私と清家は、君たちのような関係ではない」
「そ、そうですか」
 もう話すことはないと言わんばかりの鳴海先生の口調に、大河内先生はそれ以上ツッこめなかった。
 そして楽しそうに話をしている女の子たちをちらりと見た後、嘆め息をついて漆黒の前髪をかき上げる。
 鳴海先生はそんな大河内先生を見て、椅子から立ち上がった。
「話は、以上で済んだか?」
「え? あ、はい。それで、あの……俺と那奈のことは、秘密にしておいていただけますか?」
「安心しろ。君たちのプライベートを侵害する気は、私にはないからな」
 頷いてそう淡々と答える鳴海先生の言葉に、大河内先生は安心したように胸を撫で下ろす。
 それからスタスタと元いた席に戻る鳴海先生にぺこりと一礼をした後、那奈に声を掛けた。
「那奈」
 呼ばれた那奈はその声に顔を上げて微笑んだ後、今まで話をしていた眞姫に手を振る。
「じゃあ、清家さん。また学校でね」
「うん。学校で」
 眞姫も笑顔を返し、にっこりと笑顔をみせた。
 大河内先生の隣の席に座った那奈は、珈琲を一口飲んで楽しそうに笑う。
「鳴海先生との話、終わった?」
「おまえは何か、楽しそうだったよな。俺なんてあの人とふたりで話すなんて、マジで寿命が縮まったよ」
「でも、分かってもらえたみたいじゃない。清家さんも、すごくいい子だし」
 那奈の言葉に、大河内先生は眞姫をちらりと見た。
 あの鳴海先生を相手に、眞姫は相変わらず可愛らしい笑顔を絶やさずに楽しそうである。
 そんな眞姫の様子に妙に感心しつつ、大河内先生はぽつりと呟いた。
「清家って頭良くて可愛いだけじゃなくて、度胸もあるんだな」
「何よ、先生ってば。確かに清家さんってすごく可愛い子だけど、恋人の前でほかの子のこと可愛いとか言っちゃうんだ。ふーん」
 わざとらしくそう言って、那奈は拗ねたようにふいっと先生から視線を逸らす。
 大河内先生は自分の失言に苦笑した後、気を取り直して漆黒の前髪をかき上げた。
 そしてぐりぐりと那奈の頭を乱暴に撫で、ニッと笑う。
「何だよ、ヤキモチかよ?」
 先生のその言葉に、那奈は悪戯っぽく笑顔を浮かべた。
「ヤキモチ焼きは、先生の方でしょ? 私は先生のこと、信じてるもん」
「信じてるってヤツが、拗ねてそっぽを向くかよ。ま、俺がいい男だから心配だって気持ちは分かるけどな」
「だから、心配じゃないってば。ていうか、本当に自分でよく言うわね」
 くすくすと笑い、那奈は漆黒の瞳を細める。
 そんな那奈の様子を満足そうに見て、大河内先生はスッと隣に座っている彼女の手を握り締めた。
 そして耳元で囁くように、こう言ったのだった。
「ちゃんと俺は、おまえのこと愛してるよ、那奈」
 愛してる――恋人たちにとって、それは月並みな言葉かもしれないけど。
 でもそれと同時に、かけがえのない甘い魔法の言葉でもあるのだった。
 那奈は耳をくすぐる吐息を感じてほのかに頬を赤くした後、幸せそうに笑う。
 そしてあたたかな先生の手をぎゅっと握り返し、そっと彼の肩に身体を預けて言った。
「私もよ、大河内先生」
 思いがけず、鳴海先生と眞姫にふたりの関係を知られてしまったけれど。
 那奈はすでにそのことも忘れ、大河内先生と一緒にいられることの幸せを改めて強く感じたのだった。




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