黄金の天気雨_



 ――次の日・土曜日。
 賑やかな休日の駅前で、和奏は落ち着かない様子だった。
 すでに時間は11時半を回っている。
 待ち合わせ時間である11時はとっくに過ぎてはいるが、人を待つことに和奏は慣れていた。
 雨京先生が時間に遅れることは、いつも通りなのだから。
 だが今日は、いつもとは状況が違っていた。
「先生、どっちから来るんだろう……」
 そう呟き、和奏は異様にドキドキしている胸に手を添える。
 そして、きょろきょろと周囲を見回した。
 休日の駅前は、和奏のように待ち合わせをしている人たちの姿が多く見られる。
 気の合う友達同士はもちろん、幸せそうなカップルの姿も多い。
 和奏は腕時計を見た後、そわそわしたように人ごみに目を向けた。
 考えれば、雨京先生とこんな人の多いところで会うこと自体初めてで。
 普段は車で迎えに来てもらった後、静かな場所で先生が昼寝するというパターンが殆どだった。
 それでも今まで特に不満はなかった和奏だったが。
 少しだけ、休日に賑やかな街をふたりで歩くというような普通っぽいデートに密かに憧れてもいた。
 だが、何せ相手はあの雨京先生である。
 自分たちの関係もあまりはっきりしていなかったし、到底先生が自分の要望を聞いてくれるとも思っていなかった。
 なのにどういうわけか、あの先生が自分の希望を聞いてくれたのだった。
 それが、正体が狐である先生の単なる気紛れなのだろうことは容易に想像はつくが。
 でも例え気紛れでも、和奏は嬉しかったのだ。
 そしていつもと違うデートらしいデートに、和奏は異様に緊張していた。
 手櫛でダークブラウンの髪をおもむろに整え、大きく深呼吸をする。
 それから改めて、人の波に目を向けた。
 ――その時だった。
「……っ、きゃっ!」
 急に感じた腰を抱かれる感触に、和奏は思わず声を上げてしまう。
 和奏のその声に、行き交う数人の人たちが何事かと彼女に目を向けた。
 和奏はそんな視線にカアッと頬を赤らめて慌てて口を噤んだ後、おそるおそる振り返る。
 そして、有り得ないくらい早い胸の鼓動を懸命に抑えながら口を開いたのだった。
「う、雨京先生っ」
「何妙な奇声上げてんだ、おまえ」
 背後からいつの間にか現れた先生は腰に手を当てたまま、和奏の身体をぐいっと自分の胸に引き寄せる。
 それからニッと笑みを宿し、彼女の耳元で言った。
「ボーッとしてると襲うぞ?」
「なっ、お、襲うって……っ」
 人目など一切気にする様子もなく、先生は彼女に顔を近づける。
 その綺麗な彼の顔にさらに鼓動を早めながらも、和奏は慌てて言った。
「じゃ、じゃあ先生。い、行きましょうかっ」
 動揺して耳まで真っ赤にさせる和奏の様子を楽しそうに見つめながら、先生はぽんっと彼女の頭に手を添える。
 先生の大きな手の温もりを感じながらも、和奏は人の流れに逆らわずに歩き出した。
 先生とふたりで休日会うのは、もう何度目か分からない。
 だが、こんなに緊張しているのは何故だろうか。
 何だか慣れないごく普通のデートに、和奏は胸の鼓動をさらに早める。
 先生のセクハラには慣れているとはいえ。
 こんな人の多い中でも、雨京先生は全く動じることもなく普段と何ら変らない。
 しかも雨京先生はスタイルも顔も良く、黙っていれば美形であるために自然と人の目を惹く。
 人の多いところでのデートは無謀だっただろうかと思いつつも、和奏は今までにない新鮮さも感じていた。
「んで、今からどこ行くんだ? 決めとけって言っただろーが」
「え? あ、はい」
 ハッと我に返ったように顔を上げて先生を見た後、和奏はおそるおそる彼の言葉に答える。
「えっと……今から映画観て美味しいランチ食べて、その後買い物したいな、とか」
 先生に行き先を決めろと言われてから、和奏はいろいろと行きたい場所を考えたのだが。
 大して小粋なスポットを知っているわけでもないし、結局ベタなところしか思いつかなかったのだった。
 それにやはり妖怪であるためか、先生は静かで空気の澄んでいるような場所が好きである。
 そんな先生の趣向が分かっている和奏は、いくらベタだとはいえそんなデートを承諾してくれるだろうかと不安にも思っていた。
 だが意外にも雨京先生は、和奏のデートプランに特に何も言わなかった。
 和奏は少し安心したような表情を浮かべながらも、相変わらず腰に添えられたままの先生の手の感触に、これからどうなるんだろうという期待と不安を同時に感じていたのだった。



 ――それから、数時間後。
 和奏の要望通り映画と食事を終えたふたりは、買い物をするために繁華街の中心にあるデパートに向かっていた。
「ランチも評判通り美味しかったし、映画も面白かったですね」
 和奏は満足したようにそう言って、ロマンチックな恋愛映画の余韻に浸るようにほうっと溜め息をつく。
 雨京先生はそんな和奏にちらりと切れ長の瞳を向け、彼女の言葉に答えた。
「ああ、面白かったぞ」
「えっ?」
 和奏は思わず驚いたような表情を浮かべる。
 まさか先生の口からそんな言葉が聞けるなんて、思っていなかったからである。
 だがそんな和奏の顔を見つめ、雨京先生はこう続けたのだった。
「面白かったぞ、映画観ながらダーダー泣くおまえの間抜け面がな」
「ま、間抜け面ってっ」
 面白かったって、映画のことじゃなかったのか。
 それに先生が自分を見ていたなんて、全く気がつかなかった。
 恋愛ものの映画にポロポロ泣いていた自分の様子を思い出し、和奏は急に恥ずかしくなって顔を真っ赤にして俯いてしまう。
 雨京先生は素直な和奏の反応にニッと笑みを宿した。
 それからわざと声のトーンを落とし、耳元に息を吹きかけるように囁く。
「ていうかあの役者のキスよりも、この俺様のキスの方がずっと上手いぞ? 試してみるか?」
「え……っ」
 耳にかかる吐息にドキッとしながらも、和奏は瞳をぱちくりさせる。
 そして慌てたように周囲を見回し、大きく首を振った。
「い、いえっ。ここでは結構ですからっ」
 雨京先生のことだ、街中でも平気でキスしてきても全く不思議ではない。
 咄嗟にそう言った和奏の言葉に、先生は悪戯っぽく笑った。
「そうか、楽しみは後に取っておきたいんだな。期待しとけ」
「…………」
 もしかして、墓穴を掘ってしまったか?
 そう思いつつも、とりあえず人前での過度なセクハラは避けられたみたいだ。
 和奏は気持ちを落ち着かせるために深呼吸しつつも、綺麗に飾られたショーウインドウに目を向けた。
「わあっ、すごく可愛い。あの、お店に入ってもいいですか?」
 ダークブラウンの瞳を細めて足を止めてから、和奏は遠慮気味に先生を見つめる。
 先生は特に何も言わなかったが、嫌な様子でもない。
 和奏はデパートの中に入り、楽しそうに店の中を見回した。
「あ、この指輪すごく可愛いっ。欲しいな……」
 和奏は小さなピンクの石がはめてあるシンプルな指輪を見て、そう呟く。
 それから店内に飾られている洋服を品定めし始めた。
 買わなくても、見ているだけでもワクワクしてしまう。
 女の子らしい洋服を見つめながら、和奏は自然と表情を和らげる。
 それから何かに気がついたように、ふと顔を上げた。
「あれ? 雨京先生?」
 さっきまで自分の近くにいたはずの先生の姿が、いつの間にか見えなくなっている。
 もしかして、女の子らしい店に入ったのがお気に召さなかったのだろうか。
 彼の機嫌を損ねなかったか不安になりながらも、和奏は広い店内を探す。
 ――その時だった。
「おい、和奏」
「わっ! せ、先生っ」
 急に背後から聞こえた先生の声に、和奏は驚いたように振り返った。
 一体先生は、どこに行っていたのだろうか。
 そう思った次の瞬間、先生は持っていた服を和奏に手渡して短く言ったのだった。
「着ろ」
「えっ?」 
「この服を着ろって言ってんだ。さっさとしろ」
 相変わらず有無を言わせぬ口調でそう言って、先生は試着室に視線を向ける。
 和奏はきょとんとしつつも、そんな彼の言葉に従った。
 そして。
「わぁっ、すごくお似合いですよ」
 お決まりの店の店員の言葉に照れながらも、試着し終わった和奏はちらりと先生に目を移す。
「あの、どうですか?」
「…………」
 雨京先生はその問いに答えず、じろじろと和奏を見ている。
 先生の選んだ服は、流行廃りのないスタンダードなデザインのものだった。
 そしてあまり派手ではない雰囲気の和奏には、そんな服がよく似合っている。
 先生はこんな服が好みなんだと思いつつ、和奏は先生の反応をうかがった。
 雨京先生は表情を変えず、和奏から視線を逸らす。
 それから、店員に言ったのだった。
「これ一式。服はこのまま着ていく」
「ええっ!?」
 いきなりそう言い出した先生に、和奏は驚いた顔をする。
 だが先生はそんな和奏の様子に全く構わず、スタスタとレジに向かったのだった。
 突然の出来事にその場に立ち尽くしたまま、和奏は瞳をぱちくりさせる。
 それから、ふと鏡に映る自分の姿を見つめた。
 定番のタータンチェックのスカート丈が短めなのが少し気にはなったが、サイズも雰囲気も和奏にぴったりで。
 それに相変わらず強引で、服を着る自分の意見なんて聞きもしない先生だったが。
 先生が自分のために洋服を選んでくれたということが、和奏にはすごく嬉しかったのだった。
 ていうか、先生はこの服を買ってくれるということなのだろうか。
 ハッとそう気がついて顔を上げ、和奏は慌てて雨京先生に駆け寄った。
「あのっ、この服のお金っ」
「あ? ガタガタ言うな。おまえは黙ってこの俺様の隣にいればいいんだ。分かったか」
「えっ、あ……」
 それ以上何も言えず、和奏は会計が終わってスタスタと店を出て行く先生の後に慌てて続く。
 それから、大きく頭を下げて言った。
「雨京先生、ありがとうございます」
 その言葉を聞いて、先生はふと足を止めて振り返る。
 そしてニッと笑みを浮かべ、彼女に言ったのだった。
「いつも言ってるだろーが。礼なら、後でたっぷり返して貰うからな」
「た、たっぷりって……」
 一体、後で何をされるんだろうか。
 そんな一抹の不安を感じながらも、和奏は気を取り直してその顔を微笑みを宿す。
 それから風に揺れる短いスカート丈を気にしつつ、早足で雨京先生の隣に並んだのだった。



 デート開始から数時間――気が付けば、青かった空が赤く染まり始めていた。
 和奏はごく普通であり、そして新鮮でもあったデートに満足した様子で微笑む。
 雨京先生は意外なことに、和奏の要望に特に何か不満を言うことはなかった。
 かと言って、楽しかったかどうかは彼の言動からは分からなかったが。
 だが何も言わずに付き合ってくれただけでも、和奏には嬉しかったのだった。
「あとは、どこに行きたいんだ?」
 相変わらず腰を抱いたまま、雨京先生は彼女に訊く。
「もう私の行きたいところは行きました。付き合ってくれて、ありがとうございます」
 ペコリと頭を下げる和奏の様子を見て、先生はブラウンの瞳を細める。
 そして和奏を置いてスタスタ歩きながら、言った。
「近くに車止めてあるから取ってくる。そこで待ってろ」
「え? あ、はい」
 和奏は先生の言葉に頷き、彼の言う通りにその場でしばらく待つ。
 それから数分も経たず、夕焼けの空と同じ色のフェアレディーZが和奏の前に止まった。
「乗れ」
 命令するように短くそれだけ言って、先生は和奏を促す。
 そして和奏を助手席に乗せた車が、ゆっくりと賑やかな街の中を走り出した。
 どうやら繁華街を離れ、どこかに移動するらしい。
 流れる景色を見ながら和奏はそう思った。
 だが、自分の行きたいところに先生は十分付き合ってくれたし。
 どこに自分を連れて行く気なのかは定かではないが、和奏は特に先生に行き先を聞かなかった。
 ――それから、どのくらい走っただろうか。
 車がある場所で止まり、雨京先生は和奏に目を向ける。
「降りろ」
 和奏は言われたように車を降りてから、周囲を不思議そうに見回した。
 雨京先生はそんな和奏をちらりと見た後、おもむろに歩き出す。
 和奏も、そんな先生の後に続いた。
 そこは――本当に何もない、小高い丘だった。
 風に揺れるスカートや髪を手で押さえつつ、和奏は小首を傾げる。
 どうしてこの場所で、先生は車を降りたのだろうか。
 だが、そう疑問に思った……その時だった。
「あっ!」
 緩やかな坂を上り切った和奏は、思わず小さく声を上げる。
 それから足を止め、目の前の風景に目を奪われたのだった。
 眼下に広がるのは、黄金色に輝く都会の街並み。
 夕焼け色に染まった街の風景は、幻想的な光を放っていた。
 そして先生のお気に入りの稲荷神社もそうであるが、この場所も空気が澄んでいて心が安らぐ感覚を覚える。
 和奏はしばらくそんな景色を眺めた後、ふと自分の隣にいる雨京先生に目を向けた。
「今日は私の行きたいところにたくさん付き合ってもらって、ありがとうございました。すごく楽しかったです」
 そして夕陽に照らされている彼の綺麗な顔を見つめ、続けたのだった。
「雨京先生。あの、これからも……先生の近くにいて、いいですか?」
 先生はそんな和奏の言葉に、切れ長の瞳を細める。
 それから相変わらず表情こそ変えなかったが、彼女の問いにこう答えたのだった。
「おまえはこの俺の女だ。それに言ったはずだ、この俺様がおまえを貰ってやるってな」
 和奏は先生ににっこりと微笑み、大きく頷く。
「はい、先生」
 そして雨京先生はゆっくりと和奏に近づくと、彼女にあるものを差し出した。
 和奏はきょとんとしながらも、それを受け取る。
「開けてみろ」
 短くそれだけ言って、先生はそっと風に揺れる和奏のダークブラウンの髪を撫でた。
 不思議そうな表情をしながらも、言われた通り和奏はその包み紙を開ける。
 それからパッと表情を変え、先生に視線を戻した。
「先生、これ……!」
「さっき欲しそうに見てただろ、おまえ。それに、今日は誕生日なんだろう?」
「えっ!? もしかしてこれって、誕生日プレゼントですか!?」
 和奏は小さな可愛らしい箱に入っていたもの――ピンクの石のはめられた、シンプルな指輪を手に取る。
 確かに昨日学校で、今日が自分の誕生日だと言ったが。
 まさかそれを先生が覚えていて、しかもプレゼントまでくれるなんて予想すらしていなかったのだ。
 しかも、デパートで自分が気に入って見ていた指輪を。
 ていうか、いつの間に買ったんだろうか。
 和奏は驚きを隠せず、思わずそう口に出して言ってしまった。
 先生はそんな彼女の反応に、怪訝気に口を開く。
「何だ、おまえ。この俺様のプレゼントがいらないって言うのか?」
「えっ!? いえっ、いらないなんてそんなわけないですっ。すごく、嬉しいです」
 慌ててそう言った後、和奏はまじまじと指輪を眺めて微笑む。
 雨京先生は、いつもは自分中心主義で強引な性格であるが。
 自分のことを彼なりにちゃんと考えてくれているのだということが、たまに垣間見える優しさで強く感じる。
 あまり多くの言葉をかけるタイプではない先生であるが、その優しさだけで十分和奏は満足なのだった。
 先生は、まだ嬉しそうに指輪を見つめている和奏の姿をブラウンの瞳に映す。
 そして和奏から指輪をひょいっと取り上げると、彼女の左手の薬指にはめたのだった。
 サイズもぴったりなその指輪を幸せそうに眺めた和奏は、顔を上げて雨京先生に笑顔を向ける。
 楽しいデートも、買ってくれた洋服や指輪も、予想外の素敵な誕生日プレゼントなのだけれども。
 でも贅沢を言えば……もうひとつだけ、欲しいものがある。
 だが和奏は、敢えてそれが何か言わなかった。
 それは、言わなくても先生が自分にくれるものだから。
 心地良い風が頬をさらりと撫でる丘の上で、和奏はそっとその瞳を閉じた。
 雨京先生はゆっくりと、そんな彼女の頬にあたたかくて大きな手を添える。
 そして、次の瞬間。
 和奏の一番欲しかったもの――優しいキスが、彼女の唇に落とされたのだった。
 先生は和奏の小さな身体を自分の胸に引き寄せ、そしてニッと笑みを浮かべる。
 それから、彼女の耳元でこう囁いたのだった。
「お楽しみはこれからだ、期待しとけって言っただろう?」
「えっ!? んっ、先……っ」
 再び先生の唇が和奏の口を覆い、出かかった言葉を遮る。
 和奏は浴びせられるキスの気持ち良さに、急激に熱を帯びる身体の感覚と胸の高鳴りを感じながらも、嬉しそうな微笑みを宿す。
 そして、黄金色に輝く夕陽の下。
 雨京先生からの誕生日プレゼントを受け取りながら、改めて幸せを感じたのだった。


番外編 アンブラスモア・完


<あとがき>
番外編「アンブラスモア」を読んでくださり、ありがとうございます!
完結後にいただいたリクで圧倒的に多かった、ラブラブなふたりの話のつもりです;
少し本編とは関係が変わったふたりの、意外だけど相変わらずなデートみたいな意識で書いてみたのですが……。
このふたりをまた書くことができて、私も楽しかったですv
ちなみに「アンブラスモア」は、「Kiss me」と同じ意味です(ていうか、実は馬の名前だったりするんですが<競馬好き)
そして来週までに、あと2本この作品の番外編を更新予定です。またお付き合いいただければ嬉しいですv