「‥‥であるからして、この公式をxに当てはめるとyの値がもとめられる。そしてそのyの数値を‥」
「‥‥‥‥」
柔らかい日差しが差し込める、春の陽気。
そんな暖かい窓の外とは裏腹に、あいつの冷たい視線が俺に向けられる。
「‥‥鈴鹿、君は私の話を聞いているのか?」
「聞いてるよっ、聞いてるけどよ‥‥言ってるコトがさっぱり分かんねーよ‥」
半ば諦めモードの俺を見て溜め息をついて、数学教師・氷室零一は言った。
「この数日間の補習で、君の思考は一定時間数字と向き合っていると完全に停止するという傾向があることが分かった。まずは少しずつ数字というものに慣れる事から始めないといけないようだ。君の数学の成績を考えると、本来なら寸暇も惜しんで課題に取り組むべきであるのだが‥少しだけ休憩にするとしよう」
それだけ言って氷室は席を立ち、教室を出て行く。
俺はようやく数学地獄から開放され、大きく伸びをした。
――俺、鈴鹿和馬・高校2年。
“はば学”バスケ部のスタープレイヤーだぜ!‥と言いたいところなだけどよ‥。
ちっとワケありで、今はバスケは封印中なんだ。
2年での履修単位が足りなかった俺だったけど、数学教師・氷室のおかげで、何とか3年には進級できるようになった。
でも、そのかわり‥この春休み、氷室の数学の補習を受けることになっちまったんだよ。
つーか‥教室で座ってじっとしてるなんてよ、俺の性に合わねぇよ。
しかも、目の前の数字の羅列みるだけで頭痛くなってきちまうぜ。
ああっ、バスケやりてぇーっ!
まぁでもよ‥本当なら留年確定だった俺にチャンスをくれた氷室のヤローには、感謝してる。
冷たくて近寄り難い雰囲気の氷室だけど、俺の補習にも毎日付き合ってくれてるしな。
‥‥補習のスケジュールは、鬼のようだけどよ‥。
そして俺がはあっと大きく溜め息をついて、綿密に立てられた補習のスケジュール表を見た‥その時。
ガラッと教室のドア開き、氷室が戻って来た。
「私が淹れた、こだわりの珈琲だ。カフェインは脳を活性化させる効果があるからな」
そう言って、机にカチャッとコーヒーカップを置く。
ふわりと珈琲のいい香りが、俺の鼻をくすぐった。
「おっ、サンキュー。ちょうど何か飲みたかったんだよな」
何だかヘンな模様のついたコーヒーカップを手に取り、俺がひとくちそれを飲もうとした、その瞬間。
「!‥‥待てっ」
氷室はその切れ長の瞳を怪訝そうに細め、俺の動きを制した。
「何だよ?」
「まずは嗅覚で珈琲の香りを堪能するんだ。そして、この漆黒の珈琲の色やマイセンのカップの色彩など視覚で楽しむ。それからはじめてひとくち口に含み、深い風味を噛み締める様に味わう‥‥これが、正しい珈琲の楽しみ方だ」
珈琲の香りを堪能しながら、氷室はそう言った。
‥‥くっだらねーなぁ、おい。
珈琲なんて、飲めりゃいいじゃねーかよ。
そう思った俺だったが、口に出そうものならどんな仕打ちがあるか分かったもんじゃない。
仕方なく俺は、氷室がしてるのと同じように珈琲を楽しんでるフリをしてみた。
そんな俺を見て、氷室は満足そうに続ける。
「大変よろしい。これは私がキリマンジャロから特別に取り寄せた豆を数日かけてネルドリップした、至高の一品だ。どうだ、美味しいだろう?」
「ああ、何か難しいことは分かんねぇけどよ、上等っぽいカンジがするな」
「非情に君らしい極めて単純明快な感想ではあるが‥私の珈琲の良さは分かったようだな、結構だ」
そう言って、氷室はふっと笑みを浮かべて珈琲を飲んだ。
いつもは冷たい印象のその顔に浮かぶ、微笑み。
たまにしか見ないからか、何だかすごく新鮮なものに思え、俺は思わず氷室をじっと見る。
そんな俺の視線に気がつき、氷室はいつもの視線を俺に向けた。
「‥‥どうした?何か質問か?」
「え?いや、別に‥何でもねぇよ」
「‥‥では、これからちょうど5分後から補習を再開する。分かったな」
ちらりと腕時計を見て、氷室はそう言った。
つーか、5分しか休憩ないのかよ‥。
ちっとは身体動かさねーと、なまっちまいそうだぜ。
この“はば学”バスケ部スタープレイヤーの鈴鹿和馬様がよ‥氷室のヤローと、ネロドロップだかマイソンだか何だか知らねぇけどよ、仲良くお茶かよ。
そう思って大きく溜め息をついた俺だったが‥パラパラと数学の教科書をめくる氷室に目を移す。
教科書に視線を移す氷室のまつ毛は思ったよりも長く、色素の薄い髪は春の日差しを浴びて光を増していた。
結構こいつ、綺麗な顔してるんだな。
実はアンドロイドじゃないか、なんて噂なんかもあるけどよ。
でも、こうやって近くで見ると‥‥。
‥‥つーか、俺‥‥何考えてるんだ‥?
数学のしすぎで、頭おかしくなっちまったんじゃねぇか?
相手はあの天敵・氷室のヤローだぜ‥!?
俺はブンブンと首を振って、妙な考えを振り払おうとした。
そして改めて、氷室の顔を見る。
でもよ‥こうやって毎日、俺に付き合ってくれてんだよな‥こいつ。
冷たいようで、結構あったかいところもあるんだよな。
そんなことを思った、その時。
氷室が、その顔をふっと上げる。
そして急に目が合って動揺する俺に、言った。
「時間だ。補習の続きを始める」
「げっ、もう時間かよっ‥‥まだ早いんじゃねぇか!?」
俺の言葉に、氷室は瞳を細める。
「私の体内時計に1秒の狂いもない、5分ジャストだ。教科書を開け」
俺は仕方なく、言われるように教科書を開いた。
あーあ‥また数字と睨めっこかよ。
大きく溜め息をついて、俺は頭を掻いた。
つーか、1秒の狂いもないって‥‥やっぱりこいつ、アンドロイドか‥?


      



 バスケの練習を終えて、俺は体育館を出た。
いくら補習があっても、バスケの練習は毎日欠かせねぇからよ。
何てったって俺には、アメリカでバスケ留学っつー目標があるからな!
まぁ‥今はバスケはもちろん、数学も頑張らねーといけないんだけどよ‥。
そう思って大きく溜め息をついた、その瞬間。
「鈴鹿、今帰りか?」
「うわっ!!ひ、氷室っ!?」
急に声をかけられ、俺は反射的に振り返って後ずさりをする。
つーか、こいついつ現れたんだ!?
急に出てくるんじゃねーよっ、悪趣味っ!
そんな俺の反応を見て、氷室は口元に笑みを浮かべた。
「神出鬼没は私のモットーだと言っただろう、鈴鹿?‥フッフッフ‥」
‥‥俺が驚いたのが何だか嬉しいみたいだ、こいつ。
心臓に悪いヤローだぜ‥まったく。
「鈴鹿、私の考えが正しければ、君は今から帰路に着くところのようにみえるが‥違わないな?」
「ああ、今から家に帰るところだけどよ」
見りゃ分かるだろ、んなこと。
寄り道したくてもよ、山のように数学の課題出しやがってるのは、どこのどいつだっつーの。
そんな俺の考えもいざ知らず、氷室は言葉を続ける。
「君の家は私の帰路にある。よろしい、車に乗りなさい」
そう言うなり、スタスタと氷室は歩き出した。
つまり‥家まで車で送ってくれるってことか?
きょとんとしてその場に立ち尽くす俺に、氷室は怪訝な表情を浮かべる。
「何をそんなところで突っ立っている?君は早々に家に帰り、明日の予習、そして今日の復習を怠らずに行うべきだ。いや、数学だけではない、君は英語も単位を落としている。よって寸暇を惜しんで勉学に励むべきだ、そうだろう?」
「‥‥まぁ、そうだけどよ」
「分かったなら、車に乗りなさい」
まぁ、送ってくれるって言うんならよ、お言葉に甘えるとするか。
そう思い、俺は氷室の車に乗り込んだ。
「シートベルトは装着したか?では、発進する」
そういうなり、氷室は車を走らせ始める。
窓の外には、もう真っ赤な夕日が空を染めていた。
「鈴鹿、すまないが少し寄り道をしても構わないか?」
「ん?ああ、別に構わないけどよ」
何処に寄るつもりなんだ?
そう思った俺の心を察してか、氷室は言葉を続ける。
「スタリオン石油で、ガソリンの補充を行う」
ああ、何だ、そーいうことか。
課外授業だなんだのって、また博物館やらそういうところにでも連れて行かれるのかと思ったぜ。
‥‥そうこうしてるうちに、スタリオン石油が見えてきた。
「いらっしゃいませー‥って、げっ!氷室センセやないですか」
そう言って愛想笑いを引きつらせているのは‥同じ“はば学”の姫条まどかだった。
そういえば姫条は、ここでバイトしてたんだったっけな。
こいつも俺と同じ、補習の常習犯だ。
なんていうか、そういう縁もあって、こいつとは俺も仲良くやってる。
普段はお茶らけてるけど、大阪から単身で出てきて、結構こいつも苦労してるみたいだ。
こうやって真面目に働いてる姿って、そういえば見たことなかったな‥。
姫条は慣れた手つきで車のガゾリンをいれながら、ちらりと俺を見る。
「なんや、鈴鹿やないか。おまえ、ヒムロッチに拉致られとるんか?」
「‥‥まぁ、似たようなもんだけどよ」
そうぼそっと呟いた俺に、氷室はじろっと目を向ける。
「何か言ったか?鈴鹿」
「えっ?いや‥何でもねぇよ」
姫条はそんな俺たちを見て、ニヤッとその顔に不敵な笑みを浮かべた。
「もしかして、おふたりさん‥‥ラブラブドライブ、っちゅーことか?」
「バ、バカッ!んなわけねーだろっ!?」
はああぁ?何言ってんだ、こいつっ!?
俺が氷室とデート?んなわけねーだろ、バカ!
そんな俺の反応を見て、姫条は呟いた。
「俺のバイクで一緒にツーリングするって約束やったのになぁ、氷室センセに先越されたわ」
「‥‥姫条、さっきから聞いていると、君は何か妙な勘違いをしているようだ。私には理解できない点がいくつかあったが‥‥そこはまぁよろしい。今私は、補習帰りの鈴鹿を家まで送っているところだ。彼には一分一秒無駄にせず、勉学に時間を費やして欲しいと私は切に願っているからな」
んなこと、説明しなくったって分かってるっつーの。
律儀に説明する氷室に、姫条は言った。
「ガゾリン入れ終わりましたで、氷室センセ‥‥ちゅーか、俺の鈴鹿に手ぇ出さんどいてくださいね」
「‥‥君たちの仲がどれほど親密なのかは知らないが‥‥学業に支障をきたすようなことは慎むように」
‥‥何言ってんだ、こいつら‥‥?
俺は意味が分からず、きょとんとした。
「あ、また今度一緒にラブラブでバイク転がしに行きましょうや、氷室センセ♪」
「‥‥それは考えかねる問題だ」
姫条の言葉に、氷室は心なしかバツが悪そうにする。
氷室の反応を楽しそうに見てから、姫条は今度は俺に目を向けた。
「鈴鹿、また近いうちに電話するわ。デートでもしようやないか♪」
「デート?何だよ、それ」
「またぁ、照れてからに。そうーいうところが可愛いんやけどなぁ、和馬は」
「‥‥‥‥」
‥‥完全に遊ばれてる、俺。
これ以上反応すると姫条が面白がるのが目に見えてるんで、俺はこれ以上何も言わなかった。
氷室は俺たちにちらりと視線を向け、言った。
「それでは発進するぞ、鈴鹿。姫条も今回は補習を逃れられたかもしれないが‥バイトだけでなく、勉学にも十分に励むように。以上だ」
そう言うなり、氷室はアクセルをおもむろに踏む。
「はいはーい、毎度ありがとうございました、氷室センセ」
帽子を取ってペコリとお辞儀をして、姫条は車を誘導する。
俺は、ふと何気なくヤツに視線を移す。
それに気がつき、姫条は俺に軽くウィンクをした。
‥‥ガソリンスタンドを出て、再び車は街の中を走り出す。
「そう言えばよ、こんな時間まで学校で仕事してたのか?」
流れる景色を見ながら、俺はふとそう言った。
補習が終わったのは、お昼過ぎだ。
俺はそれからバスケの練習があったが‥その間、こいつは何やってたんだ?
俺の問いに、氷室はニヤリと笑う。
「春休み明けの実力考査の問題を作成していた。春の実力は嵐が起きる‥フフフ」
「‥‥‥‥」
言葉を失った俺に、氷室は目を向けた。
「この春休みの補習をきちんとこなせば、十分に点数も取れるはずだ。この春休みの時間をくれぐれも無駄にするな、鈴鹿」
「分かってるよ。やってやるぜ、俺は」
氷室も補習に付き合ってくれてんだ、今回ばかりは頑張らねーとな。
そう決心しながらも、俺は流れる景色に目を移す。
夕日が差し込んできて、車内はポカポカとあたたかい。
連日の補習とバスケの練習の疲れで、俺は眠たくなってきた。
車とか電車の揺れっつーのが、また寝ると気持ちいいんだよな‥。
「‥‥鈴鹿?」
意識の薄れる中、氷室が俺の名前を呼んだ気がした。
だが、それに答える気力もなく‥俺の意識は、そこで途切れた。


‥‥それから、どれくらい時間が経ったんだろうか。
何か夢を見た気もしたが‥‥どんな夢だったっけな?
「鈴鹿、到着だ。起きなさい」
「ん‥‥あと5分‥」
「何を寝ぼけている。君の家に到着したと言っているんだ」
「!うわっ、ひ、氷室っ!!」
目を開けると俺を覗き込んでいる氷室の顔が近くにあり、一気に目が覚める。
人間ホラー映画かよ、おまえはっ!
慌てふためいて車を降りて、俺は氷室に言った。
「家まで送ってもらってよ、悪かったな」
「問題ない。私の帰路に君の家があったからな」
「そっか、んじゃまた明日も補習頼むぜ、氷室先生」
そう言って笑顔を向ける俺に、氷室は俯く。
そして、何やら小声で呟いた。
「‥‥出来の悪い生徒ほど可愛いとは‥よく言ったものだな」
「え?何だって?聞こえなかったぜ」
「コホンッ、いや何でもない。君も疲れているようだ、早々に予習復習を済ませ、ゆっくり休むように」
それだけ言って、氷室は急いで車を走らせた。
何だ?あいつ‥へんなヤツ。
でも、あれでいて結構イイヤツなのは確かだけどな。
天敵ではあるけど、何故か憎めない。
不思議なヤツなんだよな、氷室って。
それにしても‥あいつ、さっき何て言ったんだ‥?
氷室の車が小さくなっていくのを見ながら、俺はふと首を傾げたのだった。

 







あとがき。

お友達へのプレゼントで書いた小説;ていうか、白背景なのがビックリ!(笑)
急いで書いたし、何気に初GSモノだったりします〜(爆)
管理人は、氷室っち最愛、和馬大好きです♪
先生のあのウンチクたれる台詞を書くのがめちゃ楽しかったでーすっ!
しかも、和馬‥おまえ、本当に書き易すぎ!そして可愛いヤツめっ!(爆)
一応、私の中では和馬総受けってカンジです(笑)檜山さんだからしょうがない(笑)
でも、和馬も可愛いけど、先生も超可愛いなぁ(笑)